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【準備ニュース6号】

「広島カキ」はどこで生まれたか−そしてどこへ行くのだろうか

干潟漁業の誕生と発展

 どうして太田川河口でかきを養殖するようになったのでしょうか。
 このことには、中世以降の、太田川の働きによるデルタの発達と、広島という城下町の形成が深く関わっているようです。

 太田川が運ぶ大量の土砂によって、そしてそれを利用した干拓によって、急速に陸地が拡大したわけですが、川の運んだ土砂は、陸地の先に広大な干潟を広げました。干潟といえば今は有明海などが有名ですが、かつては太田川河口の干潟も規模が大きく、埋め立てが進んだ戦前でさえ、干潮時には一里も沖まで干上がっていたそうです。


 カキ養殖がはじまった時期には諸説があるようですが、およそ400―450年前、海中に岩石を投げ入れておき、カキのついた石を集めて干潟で養殖する方法(石蒔養殖)からスタートしたといわれています。

 その後、干潟に立てた竹ひびや、魚を獲るために設置した「八重
?」に付着したカキを干潟にまいて養育する方法が昭和10年代までおよそ300年間続きました。昭和に入ると、「簡易垂下式養殖法」が開発され、作業の能率や身入りの面でそれまでの方法より生産性が向上しましたが、いずれにせよ、昭和20年代前半まで、カキ養殖は太田川河口に広がった干潟を利用する形で生まれ、安定した漁獲を誇り、すでに江戸時代には、日本有数のカキの産地として特に上方でその名を馳せていたようです。
 
 
干潟一面にしきつめられた養殖用竹ひび(「灘」より)
 
簡易垂下式養殖(「カキ養殖」より)



 太田川の作り出した干潟が、いかに漁場として価値の高いものであったか―。

 干潟の上に、太田川の豊富な淡水が広がって、海水と混ざり合う。
 また、デルタの城下町が出す排出物が生き物の栄養分になる。
 洪水によって、新たな干潟が形成されると、そこは新しい漁場になり、その権利をめぐって、漁業者の間で「潟争い」が起こったといいます。

 カキ養殖の始まりに遅れて、干潟を利用した海苔の養殖も盛んになり、明治1
2年には、広島県の海苔の水揚げ収量は全国一であったといいます。また、太田川の別の働きは、干潟漁場の老化も防いでくれました。干潟の上で何年も養殖をしていると、カキの排泄物がたまって、生産力が低下してしまいますが、数年に一度繰り返される太田川の洪水が流す土砂と水によって、干潟を浄化・更新し、再び活力のある養殖場を提供してくれていました。

 太田川という自然の、厳しくも計り知れない営みと、人間の活動の共同作業によって、近世、この土地には「干潟漁業」、「干潟文化」が花開き、「広島かき」も、その中の一つとして位置付けることができます。

 

 干潟漁業の誕生と発展
 干潟漁業の消滅−埋め立てと新しい養殖方法
 カキを取り巻く状況の変化
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