<目次>
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第3回
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第5回
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第7回

 連載 海から陸を眺めれば −森里海連環学事始め− 上野 正博

第3回 水洗トイレは海に優しいか…舞鶴湾の場合…
2006年 3月 第59号


 私が勤める舞鶴水産実験所のある舞鶴湾を例にして、里海の環境がこの数十年の間にどう変わってきたかを見てみましょう。初めて舞鶴に来た35年前、湖南の海辺の町に育った私はゴミだらけの濁った海に驚いたものです。その頃に比べれば、舞鶴湾はずいぶんきれいになったように思います。。でも……

 舞鶴湾は羽を広げて飛ぶ鶴になぞらえた東湾と西湾が湾口近くで一つになっています(図1)。西湾を囲む西舞鶴は古い城下町、戦国時代には何代か前の首相だった細川さんのご先祖が暮らしていました。東湾は明治時代に鎮守府が置かれて以来の軍港、岸壁の母で有名な引き上げ桟橋こちらにあります。肉じゃがやカレーライスなど、海軍の艦船食だったメニューの本家争いを呉としているので広島の方にもお馴染みかも。

 湾の周囲はすべて舞鶴市域で、流入河川もほぼ同市内のみを流れます。つまり、湾に流れ込む有機物負荷はそのほとんどが舞鶴市内で発生したもので、そのおよそ6割が私たちの日々の暮らしで発生する生活系排水、残りの半分が産業系排水、半分が農業・自然系排水ですが、結局のところすべてが舞鶴市民の出した排水です。

 舞鶴では1969年に下水道事業が始まり、2005年現在の下水道普及率はおよそ7割。でも、東西に分かれた湾の東側(以下、東湾)を抱える東舞鶴地区の市街地はほぼ下水道が整備されています。また、この30年間に人口は98000人から93000人と少し減っただけで大きな変動はありません。

 
 下水道の整備によって、舞鶴湾に流入する河川の水質が大きく改善されたことは前号でご紹介しましたね。これに伴って、東西両湾と湾央の有機物濃度も減少傾向、湾内水質は改善されたかのように見えます(図2)。

 しかし、この10年余りで舞鶴湾は赤潮やミズクラゲの大量発生が頻発し、夏期には東湾底層で貧酸素水塊が観測される(前号参照)など、有機物汚染が引き起こす富栄養化は一向に改善されてはいません。

 
 もう少し広い範囲で見ると、湾口では有機物濃度が少しずつ増えていて最近では湾全域でほぼ同じレベルになっています。それどころか、湾の外で水のきれいな由良た伊根の沖でも有機物濃度がじわじわ上がってきています(図3)。
どうやら、有機物の汚染は薄く広くの拡大傾向にあります。


 水の濁り具合を表す透明度の変化にもその傾向ははっきりと表れています。
東湾奥ではかつて2メートル以上の日が多かったのに、最近では2メートルを超えることはまれです。
舞鶴湾口では5メートル以上、ときには10メートルもあったのに、最近では4メートル以下がほとんどです(図4)。

 海の濁りは、陸から流れ込んでくる懸濁物(小さな粒々)とプランクトンが原因になることが多いのですが、下水道が整備されたので懸濁物は以前より減っているはず。プランクトンの体は有機物ですから、プランクトンが増えれば海の有機物濃度は大きくなります。湾口から湾外にかけての有機物濃度の増加と透明度の低下はプランクトンが増えたためのようです。
 
 
 一方、舞鶴湾の漁業はいま、かつてないほどに低迷しています。湾内でほぼ一生を過ごし主な漁獲対象になっているアサリとナマコの漁獲量をみてみましょう。

ナマコは80年代中頃に急減し、現在まで長期低落傾向。

アサリは90年代前半から中頃に急減し、バブル崩壊後の日本経済に歩調を合わせるかのように「失われた10年」を歩んでいます(図5)。
 
 
下水道整備が有機汚染の質的変化を引き起こした 〜仮設〜
 
 下水道が整備され海に流れ込む川がきれいになったのに、どうしてプランクトンがやたらに増え、ときには赤潮を引き起こす事態が一向に改善されないのでしょう。前回にも少し触れたように、この問題は行政にとって一大事。巨額の資金を費やして下水道を整備しても、一向に海の環境が改善されないのですから、まかり間違えば行政の責任が問われかねません。

 そこで注目されているのが、農業排水。日本の農地は何処も過剰な施肥で大量の有機物が蓄積されているのですが、その排水の影響を過小評価しているのではないかというわけです。確かに、最近の研究結果は農業排水から予想以上にたくさんの栄養塩が流出していることを裏付けています。でも、農地への過剰な施肥はこの10年、20年で急に始まったことではありません。農業排水だけを悪者にするのは少し無理があるように思います。

 下水道が整備されるまで、生活排水は下水から川に流れ込み海に注いでました。有機物の多くは川を流れ下る途中や河口域フィルターで川底に沈み、ドブやヘドロに。ドブやヘドロは分解されて硫化水素やメタンガスが発生したので、川が汚くて臭かったのは当たり前ですね。でも、川が臭いというのは、そこで汚れの成分が分解され大気に放出されたってこと。つまり、海に流れ込む汚れはそれだけ少なくなっていたわけです。さらに、ドブやヘドロは洪水の時に流されて里海の海底に降り注ぎ、河口の近くの海は汚れたけど、その汚れはあまり遠くに広がりませんでした。

 下水道の整備が進むにつれて下水は直接処理場に、処理場では有機物を分解して流すので海の有機物濃度は改善されます。でも、ここで困ったことが。処理場は有機物が分解してできる窒素やリンをうまく取り除くことができないのです。そのために、処理場排水にはたくさんの窒素とリンが含まれています。

 窒素・リン・カリは植物が生育する為の三大栄養素。カリは海の塩にたくさん含まれているので、窒素とリンがあれば植物プランクトンはどんどん増えることができます。でも、植物プランクトンは有機物をそのまま利用することはできません。つまり、以前は海に流れ込んだ有機物を微生物が分解して窒素やリンにするまで増えることが出来なかったのに、下水処理場が分解してくれるおかげで大助かりというわけです。
 

 湾内漁業がまるで下水道整備に足並みを揃えるかのように低迷した理由について、私は次のように考えています。

 下水道整備が進む以前、湾内に流れ込んできた有機物の多くは大きな粒だったのですぐに海底に降り注ぎ、そこで暮らすナマコなどの格好の餌になっていた。下水道整備が進むにつれて、有機物が減ったために餌不足になったナマコは80年代に減少した。一方、下水処理場からでる窒素やリンで増えた植物プランクトンを食べるアサリは90年代までたくさんいたが、90年代に入り頻発する赤潮のために減少してしまった。

 この仮説が正しいかどうかは今後の課題なのですが、私たちの生活を快適にし、身近な環境をきれいにしてくれる下水道の整備が里海の環境にとって本当にいいことなのかを、もう一度考えてみる必要はありそうです。

 
 
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