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白木町のごみ処分場計画にあらたな動きの可能性−その1−

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【準備ニュース8号】

白木町のごみ処分場計画にあらたな動きの可能性−その1−


 広島市が市議会経済環境委員会で、安佐北区白木町大谷(太田川水系三篠川の一水源)に市が計画していたごみ処分場計画について、「大谷以外の他の候補地の選定も並行的に進めていく」と答弁―(九月二十七日付中国新聞朝刊)。


 同記事によると、「市は1992年に地元に処分場の建設を申し入れたが反対が強く、用地買収が進んでいない。地下水への影響を調べる調査費も本年度は予算化されなかった。

 市は本年度で満杯になる見通しの玖谷埋立地(太田川水系玖谷川の水源)の処分量を拡大し、五年間延長することで地元の理解を得ている。新たな候補地については、大谷地区選定の際に挙げられた複数の地区が対象になる可能性が高い。」

これはいうまでもなく、広島市民(編集子を含む)が日々出しているごみをどこに埋めるか、という話である。

 だから、たとえ行政が決めたことであっても、具体的で有効な代案が出されていない以上、私たち自身が大谷地区にごみ処分場を造ろうとし、地元の方々に大変なご迷惑をおかけしていることになる。

 市民一人一人が当事者だと言えるはずだが、編集子自身はこの問題について真剣に考えたことがなかった。

 私たちはこれからも同じようにゴミを出し続け、同じように埋め立てを続けようとするのか、それでいいのか。

 今,太田川の散乱ゴミのことがよく問題になるが、現状は、その大親分のような行為を、私たち自身が行政の手を借りて「合法的に」続けていることになる。そしてその場所は、市民の目に触れない所、たとえば玖谷のように、私たち自身の飲み水の水源だったりする。

 私たちのやっていることは、太田川の水を汚染し、流域で健やかに暮していくことを危うくしている。急には変えられないにしても、これ以上、こんなやり方を続けていいはずはない。これは私たちにとって、抜き差しならない、最も緊急性を要する問題の一つではないだろうか。

 そこで、この土地のごみの問題の出発点から今までを、少し調べてみることにした(自分の無知・無関心を反省する意味合いが強いのであるが・・・)。なお、大谷地区の問題については、少し取材をさせて頂いて、次号で報告できれば、と考えている。(原 哲之)
 


☆なぜゴミの焼却・埋め立てが始まったのか?


 広島市によるごみの埋め立てが本格的に始まったのは昭和34年で、以後埋立地はめまぐるしく変わり、市街地の周辺から、広域合併が進むにつれより市街地から離れたところに移っている。


 まるで、合併の隠れた目的の一つに、ごみ処分場の確保という項目があるかのようである。しかし、埋め立て処分というやり方は、まだわずか四十年ほどの歴史しか持っていない。なぜ、ごみを埋め立てるようになったのだろうか?
 


 昭和30年代の「広島市市勢要覧」などによると、昭和20年代後半から30年代にかけて、広島市の近郊農村に化学肥料が普及し、肥料としてのごみやし尿の需要が急速に減り、そのために、収集したごみやし尿の処理先にとても苦慮している、と繰り返し述べられている。

 化学肥料が普及する以前は、広島市から排出されるごみやし尿は近郊農村(江田島・能美島などの島嶼部を含む)に肥料として還元されるか、あるいは自家菜園で処理されていた。特にし尿は、肥料として大変価値の高いものだったという。

 ごみやし尿は「売れる」もので、当時のごみ問題は、衛生面(伝染病の予防)から始まって、都市の拡大によりごみの排出量が増え、収集が追い付かなくなったことだった。
 
 
農村へ還元されるごみの搬出風景

(「広島市の清掃事業のあゆみ」より、以下の写真も同じ)

 しかし、化学肥料が「都市のごみやし尿が肥料になって近郊の作物を育て、再び都市の食糧になる」という最も身近な「の循環」を断ち切った。

 そしてごみは、「汚いが、まわりまわって自分たちに恵みをもたらしてくれるもの」から「厄介な、ただ自分の近くから遠ざけたいもの」へと立場を変えてしまった。
(土へ還す必要のなくなったごみは、その質も大きく変わってしまった。半永久的に分解されることのないプラスチックや、土に入れるとどんな有毒なものが流れ出すか分からないような物が大量に捨てられるようになる)

 高度経済成長が本格的に始まった昭和35年は、「広島市のごみ処理の大きな転換点」と位置付けられている。この年に市による広島湾の島々へのごみの肥料としての還元が廃止され、ごみの焼却処理場が運転を開始し、し尿の海洋投棄も本格的に始まった。

 前年から、ごみの埋め立て処分も本格的に始められている。これ以降、いらなくなったものは(焼けるものは焼いて)まとめて埋めるという、きついいい方をすれば、自分の悪事の証拠を隠蔽するような、品の悪い行為を現在まで続けることになってしまった―。
 

☆埋め立て・焼却体制の強化は何をもたらしたか
 
 ごみの埋め立て・焼却体制が強化されると、収集能力もアップする。所定の場所へ出しておけば行政がどこかへ持ち去ってくれるので、私たちは、自分たちが出すごみをどうするか、ということを気にとめる必要がなくなったようである。

 編集子は昭和39年の広島旧市内の生まれだが、ごみやし尿といえば、当然係の人がどこかへ持っていってくれるもので、その先はどうなるか、深く意識することもなかった。
 
 行政がごみをきちんと集めて住民の見えないところへ隠してくれるおかげで、私たちは、一生懸命働いて手に入れたお金で物を買って使うことだけ考えるようになった。

 昭和35年ごろから、広島市民一人当たりが排出するごみの量は急増し、さらに、都市部への異常な人口の集中が、排出されるごみの総量を天井知らずに増やしてしまった。

 大量生産・大量消費社会がごみ問題を生んだといわれるが、今にして思えば、ごみを集めて埋めることだけに力を入れるという、物の流れに対する片手落ちの考え方が大量消費を引き起こし、ますますごみを増やしてしまったとはいえないだろうか。

 公園はごみ箱を置いた方がかえって汚れる、という話に共通するものがある。

 そして、埋め立て・焼却体制になってからは、増え続けるごみを処理しきるための焼却場の建設と埋立地の確保に追われ続けることになった。しかし、記録を見る限り、ほとんど全ての焼却場・埋立地の建設に際して、地元の方々の反対運動がおこっている。

 東雲に焼却場が建設される問題で警官隊が出動する騒ぎになったこと(昭和34年)、戸坂町流谷地区の埋め立て跡地の中学校でガスが噴出した事件(昭和49年)、沼田町戸山に埋立地建設を計画したが裁判になり、最終的には建設出来なかったこと(昭和49年〜)などは大きく報道された(そして現在の白木町の問題がある)。

 昭和35年から50年の間に、広島市は延べ17ヶ所への埋め立て処分を行い、埋め立て面積は約65万平方キロ、埋め立てたごみ・土砂・がれきは約598万トン(人一人の体重を50キロだとすれば、およそ一億二千万人分)だという。
 

☆「ごみ非常事態宣言」とそれ以降

 昭和35から48年の異常なごみの増加は、広島市の処理能力をはるかに上回った。

 身動きの取れなくなった市は、昭和50年に「ごみ非常事態宣言」を出し、同じ時期に、全国に先駆けて五種類分別収集を始めた。

 可燃ごみと不燃ごみを分けて焼却・埋め立て作業を効率化し、また、資源化・再利用できるごみを選別してリサイクルするという、ごみを出す時点で可能な限りの減量・無害化を行う試みを始めた(生ゴミの堆肥化の実験も始めた)。

 ごみの排出量(市が処理する分)が横ばいになり、焼却場の規模が拡大して焼却量が増えたこともあって、昭和58年に「非常事態宣言」は解除された(堆肥化の実験もやめている)。
 
ごみの分類と流れ
日常生活から出るごみ(家庭系) 一般廃棄物 全部  市町村の処理施設
基本的に市町村(自治体)に処理責任 家庭系  一部  
事業活動から出るごみ(事業系) 事業系
主として製造活動から出るごみ
  事業者が自分で処理
基本的に事業者に処理責任 産業廃棄物
(燃えがら、汚でいなど)
  あるいは処理業者に委託
 
 「非常事態宣言」以後のごみの量の動きを少し詳しくみると、確かに、市が取り扱う毎年の埋め立ての総量は、昭和51年度から61年度の10年間、減少を続けている。しかし、これは主に産業廃棄物の不燃物の持込が減っていることによるものである。

 市の調べでは、市内にある事業所が出す産廃の量は年々増大の傾向にあり、その量は、市が収集・処分しているごみの量よりけた違いに多い。昭和57年度でおよそ107万トン、平成5年度ごろでおよそ200万トンが排出されているという。

 その埋め立て量は、推定で、昭和57年度で80万トン弱、昭和61年度で60万トン弱、再利用が進んだ平成5年ごろでも30万トン弱もあり、市の処分場に持ち込まれている量は全体からみれば氷山の一角に過ぎない。


 産廃はどこで処分されているのだろうか。太田川水系の水源の山あいにも処分場は少なくない


 「広島市の清掃事業のあゆみ」(平成二年発行)によれば、昭和60年代には、産廃の大半は東広島など市外の民間業者の処分場に搬入されていて、処分場の地元住民から不満の声が高まっていたこと、これを受けて、白木町の志路に2000uの処分場が完成し、さらに可部町綾ヶ谷などで処分場建設の計画が進行中であることが指摘されている(平成二年以降については今回は調べることができなかった)。

 「非常事態宣言の解除」とは、市が処理を任されたごみの埋立地に当面目途がついたということでしかない。

 ちなみに、平成五年度の市のごみ処理量408、850トンに産廃の量200万トンを加え、所得を得るために行う経済活動を含めて市民一人が一日に排出するごみの量を概算すると、およそ6キロである。

 四人家族にすると一日に24キロもの排出物を出さないと生活が成り立たないことになる。これが本当に「効率的な生活」といえるだろうか。

 昭和30年代後半から私たちの生活は一貫して「ごみの非常事態」にあり、一つの場所に埋め立てながら別の処分場を探すというその場しのぎを続け、焼却場や処分場の周辺に多大な迷惑をかけ続けてきている。

 分別収集が始まっても、この事実を変えることはできなかった(困ったことに、平成に入って、市の埋め立て量は再び増えている)。現に、広島市は、非常事態宣言中に玖谷を埋立地建設の候補地とし、昭和56年度には環境アセスメント調査を実施した。そして、非常事態宣言解除の四ヵ月後には地元の方々と基本合意を成立させた。

 ところで、分別収集した後埋め立てられるのは、燃えないごみ(不燃物)とされるものが主(市の資料では、平成8年度で家庭系の不燃ごみの84.1%がプラスチックである)で、それに燃えるごみを焼却した後の灰が埋め立てられる。

 埋め立てられたごみは、自然の落ち葉のように短い時間で分解されることはなく、どんどん積み上げられていくことになる。だから、問題は、一年間に出されたごみの量というよりは、そこに全体でどれだけのごみが蓄積されてきたか、ということではないだろうか。
 

 たとえば、家庭系の埋め立てごみ(焼却灰を除く)だけでみても、昭和51年の分別収集開始後に埋立地に蓄積されているゴミの量は、毎年3―4万トンのオーダーで確実に増え続けている。

 埋め立ての総量は毎年およそ10万トンの速さで増えている。ごみの再生量も増加しているが、それは蓄積量が増えるのを防いでくれているとはいいがたい。さらに最近は、可燃ごみを焼却した後の焼却灰が増えていて、家庭系の不燃ゴミの量にひけをとっていない(平成9年度で約4万4千トン)。

 今は焼却灰の中にもいろんな化学物質が含まれていて、草木の灰のように土に還すことはできない。現在行われているごみの減量策は、ごみの蓄積量が増えるスピードを少し緩めるぐらいで、このままではどうしても新しい埋立地が必要になってしまう。

 埋め立てられるごみの量が今よりけた違いに減って、限りなくゼロに近づかない限り、私たちは永遠に埋立地を探し続けなければならない(もちろん、そんなことをできるはずはない)。

各都市の一日一人あたりのごみの排出量(平成十年度):単位はグラム(広島市資料より)
札幌 仙台 千葉 東京都 川崎 横浜 名古屋 京都 大阪 神戸 広島 北九州 福岡
1,415 1,277 1,161 1,342 1,141 1,290 1,331 1,495 1,976 1,662 1,073 1,361 1,472

 編集子は、決して分別収集に意味がない、と言っている訳ではない。

 市が処理するごみに限って考えれば、広島市民一人が一日に排出するごみの量は、他の大都市に比べるとかなり小さく、分別収集の効果は非常に大きい。それでも、現実に埋め立て処分場の問題が起き続けていることが問題なのである。

 これはやはり、ごみを出す時点だけで減量しようと努力しても、限界があることを意味しているのではないだろうか。

 現在の埋め立てを中心としたごみの処理方法は、都市の人間が、人口の少ないところに突然押し入って、自分たちの生活で不要なもの、不潔で遠ざけたいものをまとめてそこへ埋めるという、ある意味で犯罪的な行為だといってもいい過ぎではない。

 自分の手元へ置いて置きたくないものは、他人も近くに置きたくないことは当たり前のことである。この四十年の社会の仕組みは、少なくとも自分たちが排出する物の処理という立場で見る限り、明らかに重大な誤ちを犯してきたといわざるを得ないのではないか。
 

☆生命の「り」の復活を

 しかし現在、私たちは、今のこのシステムの中で生活をしているわけで、明日から全く違う生活をすることはできない。このニュースにしても、大量のごみを出しながら作っているのが現実である。

 だから、当面は最もごみを多く減量することの出来る方法を採用して短期的にしのぎながら、「百年の大計」で、社会(経済)のシステム自体を作り変えていく必要があるのではないか(あまり大きいことはいいたくないが)。

 排出されるごみの量を短期間のうちに効率よく減らすには、やはり、予め物を生産する時点・売る時点・買う時点で極力ごみが出ないようにする仕掛けを作ることだろう。

 近年、廃棄物の処理・リサイクルに関する新しい法律が次々に生まれてきているが、ごみの減量に強力な威力を発揮してくれるかどうかについては、悲観的な意見が多いようである。

 これらの法律は、一度使った商品を何度も再利用した方が経済的にもメリットが大きくなったり、あるいは、(安全に処理するのが難しい)ごみが出にくい商品を作って売らなければデメリットが大きくなったりするような仕組みを目指しているわけではないようで、現状の生産から廃棄への流れを大きく変えることが出来ないことが指摘されている。

 一方、諸外国ではデポジット制度などの効果的な方法が既に実践に移されており、日本でも導入の必要を訴える声が大きくなってきている。その他にも、すでに危機感を持たれた多くの方々が、さまざまな提案を始めておられる。

 日ごろごみを出し、処分して頂くのは私たち自身なのだから、「当事者」(受益者)の役割としてよく学んで、声をあげていくべきではないだろうか。できるだけ速やかに、効果的な減量方法を開発・実行できるよう、私たちも積極的に関わって大きな流れを作っていく必要を感じる。

 長期的にはどうだろうか。現在、「リサイクル社会」という言葉が、毎日のようにマスコミを賑わしている。この「リサイクル社会」は、現在の生産・消費のあり方はそのままにしておいて、大量に作ったものを大量に買うように煽りつづけながら、工業的に作られたものを大量に再利用・再商品化することを目指しているようである。

 しかし、大量のリサイクルは、再び大量のエネルギーや水、薬品などを使用しないとできない。石油などの埋蔵資源を大量に使いながら、新たな排出物を撒き散らさざるを得ない。それに結局は「大量リサイクル社会」も、埋蔵資源の枯渇とともに、行き詰まらざるを得ない。

 ごみをある程度減らすことは出来ても、ごみの質を変えることは出来ないだろう。工業だけで無害な循環のシステムを作ることは不可能なのではないか。編集子は、社会全体が自然の循環の仕組みの中に入り込んだ形の生産―利用―排出のシステムでなければ、ごみの問題の根本的な解決へ至ることは難しいと思う。

 四十年以上前まで、この土地には、人間自身の「自然」が排出するし尿を中心とした、都市と農村の間の、無害な、生命あるリサイクル、「り」が存在していた。理論的に意識することはなくても、人間が毎日体から出す「ごみ」が土に還り、再び食糧という恵みに姿を変える、という自然の働きの中にいた。

 この「いのちのり」を取り戻してこそ、ごみの問題を解決する道筋が見えてくるような気がする。そのためには、この土地で長い月日をかけて育まれた人間と自然の接点―伝統的な第一次産業―を中心にして、第一次産業と都市が共存しうる社会システムの建設を考えていく必要があるのではないか。

 これまで広島という都市は、周囲に営まれてきた第一次産業からありとあらゆるものを奪い尽くしてきた。ごみ問題とはその矛盾の一つである、といってもいい過ぎではないのではないか。

 しかし、幸いなことにこの土地は、部分的ではあっても、まだまだ美しい山・川・農地・海を持っている。第一次産業を中心に据えた新しい社会のヒナ型作りも不可能ではないのではないか。

 編集子は不勉強で、化学肥料がいかにすぐれたものなのかよく分からない。しかし、化学肥料もいずれ使い尽くされる資源で出来ているのだから、永続きできないことは目に見えている。

 私たちは、太田川から肥船が消えたのちに川が汚れ、子供たちが「野つぼ」(肥溜め)にはまることがなくなってから、O−157のような非常に毒性の強い食中毒が発生するようになったという事実をよく噛みしめる必要があるのではないか―。

 (最後に、私たちが無責任に出し続けるごみやし尿を集め、処分して下さっている作業員の皆様に心よりお礼申し上げます。文献で少し垣間見ただけですが、長年にわたっていかに危険できつい作業を続けてこられたことか、本当に有難うございます。)

 参考文献:「快適で美しい都市をめざして−広島市の清掃事業のあゆみ」・「広島市市勢要覧」・「ごみで斬る」・広島市環境(事業)局「事業概要」
 
 
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