私は昭和5年、広島の丹那にうまれ、広島第1中学(現在の国泰寺高校)卒業後、18歳で家業のカキ養殖を継ぎました。57歳でリタイアー後広島湾で釣り、網などを続け海との付き合いは60年になります。
<太田川と広島カキとのかかわり>
広島カキは太田川河口三角州の干潟がふる里です。
1619年(元和5年)浅野長晟が和歌山から広島入封の折、和歌山のカキを広島に移入したのが養殖の始まりとつたえられています。
その50年後16 773~81年(延宝年間)草津村の小林五郎左衛門によって竹を使ったヒビ建て式が開発され、カキ養殖の基が確立されました。
いずれも太田川によってつくられた干潟がその養殖場でした。
それから約400年間広島湾のカキ養殖はつづいているわけですが…最近の広島湾は、干潟がなくなり、太田川からの豊富な栄養を含んだ清水も流量が少なくなり、コンクリートで固められた海岸ではアマモ場と浅場がなくなりました。
太田川からの水もダムなどの影響か?珪素や鉄分などの栄養塩が不足して植物性プランクトン珪藻類の発生のサイクルを狂わせています。これは広島カキだけでなく広島湾北部海域の生物すべてに打撃を与える原因の一つになっていると思います。
<広島湾北部海域受難の歴史>
カキ養殖が行われる広島湾北部海域は、西は宮島、南は能美島、江田島、中央に似島があり典型的な閉鎖水域です。
昭和30年代になって、カキのふる里である干潟で埋め立てが始まり、まず丹那沖から、続いて草津沖、五日市沖、海田湾、坂、出島沖とこの50年間にすべての干潟、藻場、浅場が埋め立ての泥に埋もれ果てました。当然、浅野長晟以来伝承してきたヒビ建て方式、それにつながる簡易垂下養殖はなくなりました。
<イカダ式養殖の登場で生産量伸びる>
丁度その頃、孟宗竹で組まれるカキ筏とそれを浮かすフロートに発泡スチロールが開発され、筏の台数が2400台に増加生産量も干潟養殖当時の5,000t余から昭和62年の31,900
tという史上最高の生産量を上げるまでになりました。
<新しい害敵の出現>
筏養殖に移行してから、昭和40~50年代は原因不明のへい死やカサネカンザシの大量発生などがあって、それでもそれらを乗り越えてきましたが、平成2年突然、麻痺性貝毒が発生、この時は1ヶ月余休業を余儀なくされました。続いて平成7年2枚貝のへい死をもたらす悪性プランクトンが初見参 それは平成10年になって大発生を招き、広島湾全域に広がって38億3,000万円もの大損害をもたらしました。
生産量も27,000t前後で推移していたのが一気に2万tを割り、そのジリ貧状況は現在まで続いています。
<これからのカキ養殖> ~養殖者自身が科学の目を!~
① 採苗
カキの種取り=採苗 は次年度の生産を大きく左右するポイントです。
今は、大黒神島で集中的に行われていますが、養殖者自身が科学的な囗をもって研究し、他の採苗海域を開拓する必要があります。
② 密殖
密殖はカキの餌が減り、養殖場の海底を汚染する原因になり、筏養殖が始まって以来、筏の垂下する本数を減らすことなどが課題になっていますが、一向に改善、適正化が行われていません。
③ 宮城たねの移人
宮城のカキは殼の成長率は広島カキの倍近くで、殼が大きくなります。そのため早期殼付きカキの出荷用と採苗不良の時のピンチヒッターとして以前から移入されています。最近はこれと広島カキの混血が見られ、広島湾でのカキの成長プロセスに狂いを生じさせる恐れが多分にあります。これも自然破壊の一つだと認識を改めるべきだと考えます。
最後に…
最近、ラニーニャ現象という言葉が流行しています。地球温暖化による海水温の上昇、塩分濃度の上昇、貧酸素水塊など、環境の悪化で、特に去年から今年にかけてカキのへい死の被害は大きいものです。
しかし、それだけが未曾有の大減産をもたらしたものではありません。
その原因はあくまでもこの数十年にわたる太田川の水量、水質の貧弱化であり、速やかな回復がない限り広島湾のカキ養殖の将来はないと思います。
|