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水内川に昨年の土砂災害の影響残る

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【準備ニュース7号】

川の曲がり角がおもしろい

「野冠で川遊び」レポート


 当会主催の初の野外例会「夏の川遊び 野冠で太田川をたのしもう」は、去る八月二十日に、25名のご参加を頂き、盛況であった。


 可部線小河内駅に午前10時に集合。野冠在住の渡 康磨さん(太田川水系の水を考える会)のご案内で、すぐ上流にある宇賀ダムを見学した。

ダムのある宇賀峡は林業の盛んなところで、かつては、谷から運び出した木材を、本流と高山川の合流点あたりで筏に組んで、広島へ運んでいた。切り出した木材を搬出するのに、一時的に堰を作って木材をため、その堰を切って一気に流すという、近辺では珍しいやり方もみられたという。今でも宇賀ダムの奥には人工林が広がっている。


宇賀ダム湖


 夏の高温少雨で植物プランクトンが大発生したのか、湖水は「どろ緑色」によどんでいた。

 ここの水はトンネルを通って、高瀬堰のすぐ上流に放水される。上流で取水された水が右手中央で放水され、白く光っている。

 宇賀ダムは、昭和34年に建設された。例の中電の「太田川一貫完全開発」によるものだ。建設により数軒の家が立ち退きになった。はるか上流の、戸河内・筒賀境の正地の取水堰からトンネル(ヒューム管)に入った水は、本流右岸(上流から下流をみて右の岸)の山々の下を通って、吉ヶ瀬発電所で一度利用される。
 
 
津伏で取水した水が流れるヒューム管


 ヒューム管は、途中筒賀川や水内川の水を取り込みながら、この宇賀ダムにやってくる。宇賀ダムの堰堤からダム湖を見ると、右手からとうとうとその水が流れ込んでいるのが分かる。左岸系の水(主に滝山川で取水された水)は、坪野の安野発電所で利用され、いったん本流に戻されたのち、わずか一キロほど下流の津伏の取水堰で再びヒューム管に入り、直接間の平発電所に送られる。


 左岸系の水が走る太いヒューム管は、宇賀ダムの堰堤のすぐそばに架けられていて、ダム堰堤とヒューム管が並んで建っているのをみると、人間のあくなき欲望と、それが生み出した「技術」のすさまじさを感じる。この日、ダムの下流の高山川には、ほとんど水が流れていなかった。
 

ダムの下流では水がほとんど流れていない
 
宇賀ダムがある高山川


宇賀ダムは、現在、出力調整の難しい火力・原子力発電を補完する目的で使われ、発電量の調節に重要な役割を果たしているという。しかし、ダムの放水量の調節は難しく、昨年(平成11年)の水害時には、急に大量に放水(本流の普段の流量の数十倍といわれる)せざるを得なくなったため、堰堤下流の田畑や道路は被害を受けたという。太田川水系では、本流だけでなく多くの支流にも取水用のダムや堰が設けられている。

 しかも近年、非常に局地的に、短時間に集中してゲリラ的に豪雨が降るようになり、さらに山が荒れてしまって、降った水がすぐに大量に出水してしまう。こんな条件の中で、災害を引き起こさないよう取水・放水量を調節するのはとても難しいのではあるまいか。
  
 
応急処置が進む昨年の土砂災害のつめあと

 その山について、野冠周辺で、昨年の災害で山が「ずった」場所を教えて頂いた。渡さんのお話では、この界隈では、土砂崩れが起こった場所は、針葉樹植林後に間伐などの手入れがなされなかった場所に集中しており、山の手入れに力を入れない限り、同じような災害が繰り返されるおそれが高い、とのことであった。

  この話は、この川のどこに行っても耳にする。人命を守るためにも、山の手入れを進めること、それが持続するような経済的な仕組みを作ることが、流域で私たちが取り組まなければならない最重要課題の一つであるのは論を待たない。

 今回のイベントの参加者は、ほとんどが河口の広島市都市部在住の方だったから、山や川の現実を肌で学ぶ意味からも、宇賀ダム周辺の見学は非常に有意義だったと思う。それにしても、川というものは右岸から眺める景色と左岸からとではこうも違うものか。「蛇口の向う」は、いろんな角度から見ないと・・・。
 
 
 午後は、いよいよ野冠の河原で川遊びだ。天気も、雲が広がって、この猛暑の割には暑すぎずちょうどよい。

 子ども達は早速川に入る。大人たちは何はさておき、まず、「鮎」とビールである。太田川で獲れた鮎に舌鼓を打つ。味が落ちたとかいろいろ言われても、鮎がいた川の河原で焼いて食べると味も感謝の気持ちも格別だ。鮎を提供してくださった渡さん、金口さん、ごちそうさまでした。
 
 美味「鮎のひらき」

 川漁師の渡さんがまさに「手塩に」かけられた鮎の「ひらき」を頂く。海の魚の干物とはまた違う美味である。誰かが、太田川名物になるね、という。

 ちなみに、対岸の小河内の小浜というところには、この曲がり角の上流に設置されていた大簗で、落ち鮎が大正九年に一日に二千貫(およそ七千五百キロ)獲れたという大漁の記録があるらしい。

 昨今耳にする鮎の状況からすれば、隔世の感がある。
 

 食事をしながら、渡さんが、この場所がどんなところか教えてくださる。川の曲がり角(蛇行点)では、地形と水の相互作用で流れのダイナミズムが凝縮される。それが人との関わりの中でいろんなドラマを生む。この曲がり角を七十余年にわたり見つめ、この川で生きて来られた渡さんが、身振り手振りも交えられてお話される。そのお話には、「川」を体で感じてこられた、理屈を超えたものを感じる。

 やはりいまだに信じられないのは、川船の話である。下るのはともかくとして、あの重たい木造船を、人力で引っ張って上流に上ったとは・・・。とても人間業ではない(流域の庶民の暮らしに詳しい幸田先生のお話では、斧のような山仕事の道具なども、時代が下がるにしたがって軽くなっているとか、飽食の時代になればなるほど体が堕落するのはどういうわけか・・・)。

  川筋に暮す人々はできるだけ上りやすいように様々な工夫をこらされた。曲がり角の上流側にある瀬には、「ノボリミオ」という船の通り道をこれまた人力で川の石を動かして造ったという(これは丈夫なもので、その跡は昭和47年の大水の時まで残っていたらしい)。また、陸上から船のオモテを引っ張る時に通る「センドウミチ」と呼ばれる道が川沿いにあったという。

  下る時もこの場所は急カーブの難所で、船乗り・いかだ乗りさんの腕の見せ所だった。下手ないかだ乗りだとトモを沈めてしまう。上流の瀬から下る時に、野冠側の河原にのりあげるくらいにオモテを振っていかないと、淵にかかったときにトモを沈めてしまうらしい。一時期でも操船を生活の一部としてきた者には、こんな話をその場所で見てきた人に教えて頂くのもとても興味深い。
 
「都志見往来絵日記」に描かれた野冠

 川のそばでの生活の最大の問題は、いうまでもなく水害である。野冠のように、大きく蛇行している地点では、遠心力でカーブの「外側」(小河内側)に水が寄せられ、野冠側より水面がずいぶん高くなる。野冠は過去本流の洪水による水害に遭われたことはないという。

  より危険な小河内側の川岸には、百年以上前までは民家はなかったとのこと。古い家ほど安全なところにあり、その後少しずつ危険を冒したところに建つらしい。やはり昭和47年の大水はものすごいもので、あのような洪水があると、川の様子が大きく変わってしまうという。

  最近では昨年9月の台風による出水が大きなものだった。戦中戦後は頻繁に洪水があったが、それは、雨が降っただけでなく、戦争中に木をむちゃくちゃ切ったことが影響している、というお話であった。

  そのほかにも、この蛇行点にまつわる様々なお話を聴かせていただくことが出来たが、川のそれぞれの曲がり角がそこにしかない特徴を持ち、地元の方はそれを利用し、あるいはうまく折り合いをつけながら、共存して来られたという、「知恵」を感じた。

  川の瀬音を聞くと、人は元気になる。食も進み、口も滑らかになるようだ。テントの下では、鮎とビールを両手に、フリートークが盛り上がった。どうやってこの会の活動を宣伝するか、最近の公共事業見直し問題について、これからは太陽・雨・風・山・川・海といった地上型の資源を社会の中心軸にすえるべきだ、といったことまで、気勢が上がった。

  おなかが落ち着いて、話も一段落すると、昼下がりを思い思いに過ごす。自称「元河童」のおじさんが、水めがねをつけて、巨体を揺らして川へ。子ども達は対岸の岩場まで泳ぐのが面白いらしく、もっともっととさすがにお疲れ気味のお父さんの手を引っぱる。

  野冠の少年はよく知ったもので、水めがねがくもらないよう、草でふいている。野冠のこどもたちとよそから来たこどもたちが一緒に水遊びをしている。河原の下流の岩肌では、高校生がどこまで高いところから飛び込めるか、競争している。飛び込む時に大声を出して気合を入れるのが面白い。可部行き列車の窓からみんなが手を振る・・・。なかなか贅沢な午後であった。

  地下埋蔵型資源と地上型資源の話が出ていたが、この川の瀬音や岩、大きな淵こそ立派な地上型資源ではないか。やっぱり川は、曲がりくねってでこぼこしているのがいい。ここは「カワラツツジ」や「ユキヤナギ」も美しいという。また違う季節にもゆっくり来てみたいと思った。午後4時17分小河内発可部行きの列車に間に合うよう、みんなで片付けて帰った。 (原 哲之)

 ただ一つ残念だったのは、自分たちの荷物を引き払ったあとをよく見ると、砂に埋もれた空き缶やタバコの吸殻、花火のやりのこしが出てきて、拾い出すときりがなかったことである。一ヶ所にまとまって大量にあるのではないから、だれかがまとめて捨てたのではないのだろう。河原に来られた一人一人が、ちょっとならいいか、と半ば無意識に置いていったのだろう。「ちりも積もれば山となる」
 
 
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