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【準備ニュース9号】

白木町のごみ処分場計画にあらたな動きの可能性−その2−

 「広島市議会経済環境委員会で、広島市が安佐北区白木町大谷(太田川水系三篠川の一水源)に市が計画していたごみ処分場計画について、「大谷以外の他の候補地の選定も並行的に進めていく」と答弁―」(九月二十七日付中国新聞朝刊)。

 先日、この処分場建設計画の現在までの経過について、当初から一貫して建設に反対しておられる「白木町の自然環境を考える友の会」会長の中村 智彦さんにお話をおうかがいすることが出来た。「友の会」に残された資料から、事業計画者である広島市は、「ごみは埋め立てて処理するべきなのか」という問題以前の、公共事業を計画・実施していくうえであってはならない過ちを犯していると感じた。(原 哲之)
 

大谷地区の計画は最初から破綻している

 これまでの経過を克明に記した資料をみるかぎり、広島市は計画を展開していく際に、明らかに二つの大きな過ちを犯している。一つは、計画を地元の方々に説明していくときの手続き、もう一つは、大谷地区を埋め立ての適地である判断したことである。
 
手続きの問題  計画が明るみに出た当初の大まかな動きをみると、
 
 平成四年(八年前)の十月に、地元井原の社会福祉協議会の定例会で、「大谷開発」という形で埋立地建設の話が持ち上がった。

 十二月に、その検討のためにわずか二十人を選んで(「志屋・井原を考える会」、二十人といえば白木町の人口の1パーセントにもならない)、市環境事業局との協議の窓口になった。

 翌平成五年の七月に、社協の幹部と「志屋・井原を考える会」だけの同意で計画地の環境調査を認める「覚書」に調印した。この覚書のことは97%以上の住民が知らなかったという。もちろん、計画地の土地所有者(地権者)の同意をきちんと取ったわけでもない。しかもこの覚書には、「志屋・井原を考える会」が段階的に合意すれば建設を認めるという流れが設定されている。

 地域のごく一部(社協幹部、なぜ社協なのか、非常に不透明である)と市との間で話がどんどん進められ、それはほとんどの住民に対して「秘密裏」の形で行われた。市議会で広島市は、このやり方で住民の大方の同意を得たと判断している、と発言している。
 
 
 覚書の調印が発覚した直後の九月には、計画に反対する「白木町の自然環境を守る友の会」が発足、十二月には、7982名分の反対署名を広島市議会に提出している(白木町の7割世帯の署名分をはるかに上回る)。 
 
 ここまで地域住民を無視した(馬鹿にした)やり方は珍しいのではないか。

 現在ごみの埋め立てが行なわれている、玖谷埋立地の調査・設計に関わられた小島 丈兒博士(広島市廃棄物処理施設技術検討委員会の委員長を二十年勤められた)が、「玖谷のときは、一つとなりの谷に当たる筒瀬の集落の全住民に対して説明を行なって意向や要望を聞いて納得して頂けるようにし、全ての民家の井戸も調査した。今回のように、一部の代表だけと話をするようなことはしていない。これは今までにないことではないか。」と発言しておられる。

 ごみ処分場は建設されると間違いなく周囲の環境を悪化させる。
 それだけでなく、地元の方々は、目の前をひっきりなしに工事用の車両やごみを積んだ車両が何十年も毎日走り続けるという、計り知れない苦痛を味わわされることになってしまう。

 こんな大きな問題について、地元のごく一部の人間だけとの間で交渉が行なわれていたというのは許されることではない。

 だから、「今出ているごみをどうするんだ。」という論理を受け入れたとしても、こういう手続き違反の計画が実現されることはあってはならない。もし実現されれば、事業を計画する側に非常に都合のよい前例を残し、今後の広島市の公共事業のあり方にも悪い影響を及ぼすことになるのではないか。
 

大谷地区をごみ埋め立ての適地であると判断したこと


 ごみを埋めると、汚染された有毒の水がしみだしてくる。私たちが日常使ってごみに出しているものをみると、実にさまざまな物質や薬品が入っていて、埋立地にはそれがごちゃまぜに積み上げられる。実際に三滝の埋立地の下では、付近の民家の井戸水が使えなくなり、井戸水で飼育していたコイが背骨が曲がったりして死んだという。

 瀬野川埋立地でもよう壁のわきの岩の割れ目から汚染された水がしみ出したり、下流の簡易水道が使えなくなったりした。だから、埋立地は、土壌(地盤)が水を通さない地質で、漏れない(にくい)器である。 地下水が集まって流れる通り道(みずみち)が存在しない。 汚染された地下水が川や井戸を汚染しない(汚染を防ぐことが可能である)。

 この三点をクリアーしていないと、汚染された浸出水を下流に流してしまい、大変なことになる。特に地下水が汚染されるとそれを除去するのは難しく、しかも汚染が長期にわたるので、私たちの子孫にまで被害をまわしてしまうことになる。

 大谷地区は、これらの点をクリアーしているのだろうか(もちろん、三点はお互いに深く重なり合っているが、視点を整理しやすくするために、ここでは三つに分けて考える)。

 専門家の間では、白木町にはごみ埋立地の適地は存在しないのが常識のようだ。「白木町の自然環境を考える友の会」は、平成六年にこの問題のことを広く知ってもらうために、チラシを広島市域に配布された。それをご覧になった前出の小島博士(広島大学名誉教授)が、これは大変だ、と直感されて自ら「友の会」に手紙を認めておられる。

 その手紙には、広範囲・長期にわたる地下水の汚染が起こる可能性が指摘されている(「友の会」意見広告より)。ちなみに小島博士は、広島大学の地質鉱物学教室(現地球惑星システム学科)の基礎を築き、広島の地質学界を長年リードしてこられた方である。

 大谷地区が埋立地として「ふさわしい」か、「友の会」では、小島博士とともに、現地調査・市が調査会社に委託して行なったボーリングなどの調査結果・国土地理院の航空写真を利用して、多角的に検討された。そして、大谷地区が埋立地として適していないことを明らかにし、広島市の「環境影響評価」の問題点を指摘しておられる。

 編集子は地質学には全くの素人だが、資料の豊富さ、論理性(考えの筋道が通っているかということ)において、広島市より「友の会」(小島博士)の方が、はるかにまさっているように感じる。そして、広島市は自らの調査で大谷が埋立地で不適であると宣言してしまっている、破綻をきたしているようにみえる。

 先の中国新聞の報道による限りでは、大谷地区にごみを埋め立てるという計画は、まだ完全に白紙になったわけではない。もし埋立地を造ると、下流 (太田川本流)域まで広く取り返しのつかない汚染に見舞われる可能性が高い。絶対に大谷に埋め立てるべきではない。その根拠として、意見広告や現地調査のビデオから、小島博士のコメントをまとめてみた。

 

大谷地区は漏れない器か?

 
 計画地は刈田層という約二億数千万年前に堆積した地層からなっている。

 この地層の特徴は、堆積物が崩落や海底地すべり、土石流によってかき混ぜられていることである(乱層堆積物といわれる)。そのために、ボーリング地点Aの結果から分かるように、全面的に破砕された岩層になっている。

 また、A点とB点の水漏れ試験(ルジオンテスト、ボーリング穴に5メートル単位でパッキングして、一定の水圧をかけて漏れる水の量を調べる)では、深いところまで相当量の水が出ている。

 つまり、この地層は非常に透水性が高い(小島博士は、スポンジ状態とか、竹かご状態という表現を使っておられる)。


 また、計画地の(少なくとも多くの部分の)岩盤は熱で焼かれていて(ホルンフェルスと呼ばれる)、見かけは一枚岩でも全部裂け目が入っている。そして土がない。土(粘土質)は「天然のシート」の役割をするので、汚染された水が岩盤の裂け目に入るのを防いでくれるが、それがないので、水はざるの中に入り込むように岩盤の中に入ってしまう(つうかつうか入り込む、と表現されている)。

 普通岩盤は水を通さないと考えがちだが、むしろ土のほうが水を通しにくく、岩盤の上にマサ土があった方が汚染されにくい。瀬野川や玖谷はまさ土があるから、透水性が低い。瀬野川では埋め立ててから十年たっても1メートルほどしか汚水がしみこんでいない。かりに防水シートをしいても、傾斜のあるところにシートを張ると、破れてしまう。
 

 
「みずみち」はないか?

 岩盤内に断層によって破砕された状態のところ(断層破砕帯)があると、そこをみずみちとして地下水が通る可能性が高い。

 市が提出したボーリング調査の結果をみると、埋立地に造るダムのところで、五本のボーリングのうち三本で断層破砕帯を掘り抜いている。これらの破砕帯について前出の水漏れ試験を行なった結果、極めて大きな値になっていて、さらに、地下水を調べている地点の地下水位のデータからも、発見された断層破砕帯を地下水が貫流していることは疑いない。


 五本の垂直方向のボーリングで三本の断層破砕帯が見出されたということは、大谷川に沿って断層が集中している可能性が高い。谷沿いに断層破砕帯が存在するのはトンネル技術者や鉱山技術者にとっては常識で、たとえば安芸トンネルでは毎日一万数千トンもの湧水が流れ出している。

 大谷川の地下にも、破砕帯を通って毎日少なくとも数百トンの地下水が流れていて、これらの水が下流の栄堂川や深井戸に現われると考えるべきだ。また、過去の断層に関する研究から、経験的に、ダムサイト予定地のボーリング調査で見つかった断層は地下数百メートルから1キロ程度の深さにおよんでいて、ダムで数十メートルの深さまで遮壁しても、地下水はその下・左右を自由に抜けると考えられる。

 空中写真で断層破砕帯の分布を解析した結果でも、計画地には縦横に断層破砕帯が走っている。
 

川や井戸は汚染されないか?


 大谷地区のように岩盤の割れ目から入った水(岩盤れっか水といわれる)は、山の等ポテンシャル(水位)面に垂直に水は移動するという理論によれば、高いところ(山頂近く)から入った地下水はより深いところを通って川底に湧き出、低いところから入った水は裾野の井戸に湧き出る。

 山の中腹(標高三百メートル地帯)に埋め立てられたごみから出る汚染水をダムの堰堤で遮壁できるのはごく一部で、広範囲に井戸や河川を汚してしまう可能性が高い。

 広島市が調査会社に委託して作成した報告書は、以上のような「友の会」(小島博士)の指摘を全く見逃した形になっていて、「みずみちが存在する可能性は低く、地下三十メートル以深は不透水性岩盤であり、地下水汚染はない。」としている。しかし、記録を見る限り、「友の会」(小島博士)の指摘に対して、説得力のある反論を全くしていない。

 事業計画者が出す資料は、計画する側に有利なものになりがちだが、この場合、市側の調査報告自体が、大谷地区が大変透水性の高い地域で、埋立地としては不適であることを雄弁に物語ってしまっている。

 そして、大谷地区が全くの不適地であると指摘しておられるのは、広島市の廃棄物処理技術を指導され、玖谷の埋立地に建設サイドとして関わってこられた方なのである。小島博士は、「地下水を汚さないでごみを埋め立てるにはどうしたらいいか、という考え方でなく、最初から地下水を汚す前提でないと、大谷地区は候補地にならない。」と指摘しておられる。

 被害に遭うのは地元の方だけでなく、三篠川の水、その下流の高瀬堰の水を飲む百数十万人全てになる。

 「友の会」の中村さんは、「とにかく私たちは、白紙撤回をされるまで、この土地の地質の動かしようのない事実、確実に地下水が汚染されるという『事実』を主張し続けるだけです。地下水は一度汚染されると長い期間にわたって回復しない。未来の子供たちへ汚れた水を渡すわけにはいきません。」とおっしゃっている。

 それにしても恐ろしいのは、たとえ専門家からみて極めて見落とし・矛盾の多い報告書でも、素人が説明されればそんなものかな、と思ってしまわざるをえないことである。大谷地区の場合でも、「友の会」が配ったチラシが小島博士という碩学の目に止まらなかったら、そのまま埋め立ての適地である、と認められてしまったかもしれない。

 これは、全ての公共事業や開発事業の環境アセスメントに共通して起こりうる問題である。アセスメントを公正に評価できる、あるいは独自にしっかりした調査のできる、地域住民が気軽に相談できる専門家の組織のようなものを、私たち自身が立ち上げていくべきなのかも知れない。
 

ごみはなぜ減らないのだろうか(みんなで知恵をしぼろう)


 どう考えても、大谷地区にごみ埋立地を建設することはできない。しかし、今現在も私たちはごみを出し続け、玖谷の埋立地はあと五年で満杯だという。広島市によれば、次の埋立地も市内河川の取水源の上流にならざるを得ない(市議会での答弁)という。それは、太田川か、八幡川か、瀬野川か、あるいは新たな合併があればそこにある川の上流ということになる。私たちはこれからも過ちを重ねてしまうのだろうか。子々孫々のことを考えても、候補地にされる地域の方々の苦しみを考えても、これは何とかして避けなければならない。刻々と玖谷のごみの量は増え続けている。どうすればいいのだろうか。

 なぜ埋め立てごみは減らないのだろう。どんな問題が潜んでいるのだろう。 編集子には、この問題について深く論じることのできる知恵は全くないが、どんなつまらない意見でも、出し合うことで何が生まれるか分らないのだから、自分自身の身近なところでおぼろげに感じていることをとりとめなく書いてみる。
 

行政の考え方はどうだろう

 最初に、ごみを集めて処分して下さっている広島市はどう考えているのだろう。
 市民に配布されるパンフレットをみると、「一人一日百グラム減量」など、ごみ減量のためのPR・啓発を市民や事業者に対して熱心にされている。しかしそれはあくまで「啓発」であり、個人の「環境に対する意識」に求めるもので、それが具体的なごみの減量にどうつながるか、はっきりした目標は感じられない。「百グラム減量」は、現在市民一人が一日に排出するごみの量の十分の一程度で、このような申し訳程度の目標だと、できるだけごみを減らそう、と行動を起こそうという人は少ないのではないか(編集子自身が決してほめられない生活態度だからよく分る)。それに、十分の一程度の減量では、埋立地を延命する効果はほとんどない。事業者が排出するごみに対する指導についても同じような傾向があるようだ。

 「ひろしま市議会だより」第181号(平成12年11月)を読むと、広島市の基本姿勢は、埋め立て処分場の確保を前提とした上で、その延命のために減量の努力を続けるということのようである(非常に悲しいことだが、市の幹部の中には、地下水が汚れるなら水道を引けばよい、という暴論をおっしゃった方もおられた、という噂も耳にした)。こんな姿勢が、広島市のごみの減量のための努力・呼びかけを、及び腰で、抽象的な形にとどまらせているのではないか。

 もちろん、埋め立て量を完全にゼロにすることはできはない。しかし、ここまできたら、市民と一緒にもてる知恵を総動員して、たとえば、埋め立て量を来年は今年の半分、再来年はさらに来年の半分になるように、ごみのひとつひとつの品目について、具体的な数値目標を設定して実現への強い決意の表明をするべきではないか(ごみの量が半分になれば、玖谷の埋立地はかなり長期間利用できることになる)。「百グラム減量」では、今の危機的な状況を訴えることは難しい。むしろ、この四十年の慢性的な「ごみ非常事態」を素直に認め、「私たちはもうこれ以上埋立地を増やしたくはありません。今は大変なピンチにあります。ごみの埋め立ては必ず環境を悪くします。だから、みんなで知恵を出し合って、とことんごみを減らす方法を考え、行動しましょう。」とアピールした方がいいのではないだろうか(もちろん、ここでみんなとは、商品を生産して売る立場の事業者の方々も含んでいる)。新たな埋立地の確保を前提にしている限り、ごみの量が劇的に減ることはないと思う。

 いずれは埋まってしまう埋立地を探し続けることから方向転換して、埋立地を探さなくてすむ、長続きする方法を確立すべき時期に来ているのではないか?もしかりに、環境を悪化させたり地域の方々にご迷惑をかけない形の埋立地を確保できたとしても、遅かれ早かれその埋立地も満杯になってしまうのだから、その時慌てるよりは、今のうちに行動を起こすにこしたことはないのではないか。そのために市民の知恵を広く集めるべく、「これ以上埋立地を増やしません。」という断固とした決意表明と、そのための具体的な厳しい減量目標の設定が必要な気がする。

(広島市の資料によれば、平成十年度の家庭系・事業系の可燃ゴミのうち、生ごみ類が26.7%、紙・布類が49.1%を占め、平成八年度の家庭系の不燃ゴミの84.1パーセントをプラスチック類が占めている。厚生省の調査では、5政令都市の一般廃棄物の22.3%(湿重量)を容器包装廃棄物が占めている。)
 

市民の経済活動から考えるとどうだろうか


 では、物を買ってごみを出す市民の側からすればどうだろうか。編集子は、物を作る・売る・買うところでは欲望に任せておいて(欲望を煽っておいて)、捨てるところだけに「良心」とか「環境に対する意識」を求めるのは土台無理な話だと思う。買った物が効率・お金儲けをとことん追求したものなのに、捨てる時は、人に地球に優しくなれ、というのはおかしな話ではないか。このおかしな話を揺るぎないものにしているのは何だろうか。

 今は、お金という仲立ちがないと、物を手に入れることはできないようになっている。ほとんどの人が、お金(私たちだと「円」)がないと、ご飯も食べられない、生きていけないようになっているが、働いてその代わりにもらえるお金の量は限られている。ほとんどの人の場合、働いてもらえるお金の量は、自分を雇っている人や、より多くのお金を右から左へ動かしている人の都合で決められる。

 ここのところ、ほとんどの人が手に入るお金の量が減っているようだ。それどころか、お金をもらえる手段を失っている人も増えている。当然の心理として、物を買う時にはできるだけお金を使いたくなくなる。ところが、少ないお金で買えるものほど、一ヶ所で「効率よく」大量に作られた物になる。そしてそれこそが、土に還らない、生命の通わない使い捨ての「ごみの素」なのである。

 使った後に土に還せる品物を作ったり、「土に還せない」物以外で品物を包んだりするには手間がかかる。今はかかった手間もお金「円」で計らざるを得ないから、特に都市では、土に還せる品物はお金をたくさん払わないと手に入れにくい。極端にいうと、物を買う立場で考えた場合、貧乏人ほど悪いごみを出さざるを得ない、そうしまいと考えると、かなり精神的な努力をしなければならなくなる。

 もちろん、思いを込めて作られた品物の値打ちが高いことは当然のことだと思う。しかし、編集子やその身近には、こういうジレンマを抱えた方がとても多い。たとえば、野菜を「ばら」売りしてくれる店や、魚や肉がトレーに入っていない店の方が値段が高くて手が出ない、といったことである。「円」を仲立ちにした商品の流れは、物を作って売る時点での効率や、大量に物を作って売る者の利益に有利に働くように出来ている。たとえ悪いごみを出したくないと感じていても、買う側の選択肢を狭めてしまっている。景気が悪くなると、低所得者がかえって使い捨て商品に走り、ごみを増やしてしまうのは非常に奇妙な話である。

 物を売っている立場からするとどうだろう。大量生産・流通で暴利を貪る大手企業は論外として、身近なところではどうだろうか。たとえば編集子は新聞配達員だが、毎日毎日新聞には大量のチラシが入っている。チラシはほとんどの読者にとっては不要なものである。販売店に、チラシはのぞいて新聞を配達してくれ、と言いに来られる方もいらっしゃる。

 新聞広告がごみに占める割合はかなり大きい(「資源ごみ」になるというのは全く別の問題だ)。いますぐにでも折込チラシを禁止して、紙面に印刷する広告だけにした方がいいのは明らかである。しかし、販売店は、販売エリアに独自に入れる折込チラシで経営が成り立っている。現にここのところの不況でチラシが減って、配達員の給料はかなりカットされている(ごみの面から見ればいいことかもしれないが)。折り込みチラシをやめると生活できなくなる(さらにいうと、このチラシに書かれていることのほとんどが、最終的には悪質なごみになるしかない品物の宣伝である、販売店が生活を守るには、ごみを増やすためのコマーシャルを流さざるを得ないのである)。

 問題になっている容器包装物などについても、多くの中小の業者が同じような矛盾を抱えているのではないか。「円」を仲立ちとした、地球規模の圧倒的な物と情報の流れが、小さい業者がごみの減量と生計の維持を両立することを難しくしているような気がする。

 私たちの何気ない生活が、いかに他の地域の方々や自然に苦しみを与えているかよく学び、生活のあり方を反省することはとても大事なことだと思う。しかし、それが現在生活している世の中の仕組みの問題よりも、むしろ個人の「精神」の問題にばかりされてしまう、というのはどこか問題のすり替えのようなものを感じずにはいられない。

 編集子自身は刹那的な欲望のかたまりだから、環境に対する「高い」意識がないとごみが減らない、という考え方には何か不遜なものを感じてしまう。少なくとも、自分自身という人間を眺めた限りでは、「意識」(だけ)でごみが減るとは考えられない。
 

何かいいアイディアはないだろうか


 どんな人でも、刹那的に快適な暮らしをしたいという欲望と、身の回りの水や土や空気や生き物を守りたいという二つの気持ちを持っていると思う。しかし現在の生活を支配しているお金―「円」は、ほとんど前者の欲望を満たすための道具にしかならない。後者の思いを生活の現実の中での喜びというか具体的なメリットの形で表現する物差しは存在しない。都市に暮らす私たちのほとんどが最終的にたちの悪いごみになってしまう物を作ったり売ったりすることで生計を立てているという現実の中で、後者の思いが具体的な形で循環し、増幅するような仕掛けは作れないだろうか。

 ごみを減らしたり、再利用した方がいいことがあるよ、という仕組みは有り得ないのだろうか。ごみを減らした方が心の底から生活が豊かになったと感じられる、ごみを減らすことを楽しむ方法はないのだろうか。

 「円」による物に対する価値付け・流通とは違った角度の価値付けの仕組みを作り、ごみを出来るだけ出さない暮らしや、再利用しようとする努力や、商品の生産・販売での良心的な努力が、ある「メリット」として地域の中で循環するような方法はないだろうか?

 全く無理な話かもしれないが、思いついたことを書いてみる。真に無害な、生命の通ったリサイクルは、生ごみを肥料として利用することである(本来はし尿もそうだが、し尿は現在都市ではほとんど下水道で処理されてしまっている)。現在広島市では、生ごみを堆肥化するコンポスト容器を購入するのに、補助金を出しているが、このやり方は消極的過ぎないだろうか。市民の多くは庭もない住宅に住んでいるから、自宅で堆肥を作るのは難しいし、堆肥を実際に利用できないので、意欲も起こりにくい。逆に、家庭菜園ができるだけの土地のあるほとんど人は、肥料代も節約できるので、既に生ごみを堆肥にしている。新聞を配りながら観察すると、こういう傾向がはっきりみえる。

 町内に生ごみを投入するステーションを作って、ステーションに生ごみを持ってくると、その量に応じてポイントを与えたらどうだろうか。集めた生ごみを堆肥にして、近郊の生産者に売る。もらったポイントは、その生産者が作った野菜などを購入する代金の代りになる。その堆肥を利用する生産者にもポイントを与える。

 このポイントは、ごみが出にくい品物や、安全に土に還せるような品物の流通のための仲立ちをしてくれるようにする。これが、地域内のさまざまなごみ減量への取り組みが具体的なメリットとして循環する仕掛けになってくれないだろうか。これは、今流行の「地域通貨」「エコマネー」のようなものなのかもしれない。

 現在、「円」という仲立ちは、「効率化」と「刹那的な便利さ」の味方しかしてくれない。だから、「円」とは別に、土や水や空気を守りたい、という思いの「仲立ち」を作るのである。

 このポイントは、生ごみに限らず、いろんな形で利用する。たとえば、地元の牛乳などの生産者や販売店で、返却可能なビンを使っている業者や、そういう品物を買う市民にもポイントを与える。大手の業者は紙パックを使うが、そのポイントを使えば、結果的には地元の牛乳を、大手の大量生産した商品と同等の「安さ」(の感覚)で買えるようにする。

 今のところ大量に出回っている容器がリターナブルにならないのなら、そういう容器を取り扱わない店舗や生産者の競争力を上げてやる。こうすれば、大手業者も競争するためにデポジットに踏み切らざるを得なくならないか(こんなやり方をする地域が増えることが、大手の業者も変えていくことにつながれば、とても楽しい)。

 スーパーでも商品をパックやトレーに詰めるのではなく、「ばら」で新聞紙に包むなどして販売する店と、そこで購入する市民にポイントを与える。新聞販売店では、チラシを極力減らす販売店にはポイントを与え、従業員にはそのポイントを給料の一部としても使えるようにする。

 読者のいらない新聞やチラシを回収する販売店にも、ポイントを与え、集めた新聞紙をリサイクルに回す前に、スーパーの包装紙などに使ってもらうよう、ポイントを使って流通させる(新聞紙の使い道は大変多い)。つい三十年程前は、デパートで高いものでも買わない限り、品物はほとんど新聞紙などに包まれていて、誰もそんなに不満には思わなかったはずである。

 トレーやパックは、大量を作ったものを遠くへ大量に運ぶのに便利なだけである。しかし、地元で丁寧に作られたものよりも、そういうパック詰めのもののほうが「円」で計ると安くなることが問題なのである。

 地元のトレーやパックの業者に対しては、土に還せたり、安全に焼却できる包装物を作る方向へ転換する業者にそのポイントで補助を与える。たとえば、古新聞で袋を作る、なんていうのは馬鹿馬鹿しいだろうか。方向転換することが、積極的な意味でいいことがあるよ、という形にする。パックやトレーをリサイクルする前に、それらを作らない、使わない方がはるかに効率よくごみを減量できるはずである。そして、生ごみを投入したり、使い終わった品物でも他に欲しい人がいれば交換できるようなごみ(資源)に関するあらゆる情報を提供するステーション(「ごみの店」?)を郵便局なみにきめこまかく配置する。

 編集子は全く無知だから、こういう「地域通貨」(的なもの)が、今書いたようにごみの減量に本当に大きな力になってくれるのか見当がつかない(大きな力になりうるのなら、大手業界からの、「流通の自由を妨げる」といった反発も必至だろう)。「円」とどういう関係になるのか、法律的にはどう定義されるのか。

 何より、どういう基準でポイントを与えるのか、それは誰がどうやって決めるのかという大問題があるし、そこに利権が絡んでくると、「円」と同じような意味しか持たなくなってしまうだろう(こんなことを際限なく考えていくうちに、編集子にはお金というものが何なのかさっぱり分らなくなってしまった、なぜお金がいるんだろう)。同じような考え方で既に取り組まれた例はないだろうか。

 いずれにしても、いわゆる「リサイクル」という紋切り型で考えるより、まず物を使い切ることができる仕組みになるよう、頭を柔らかくして、具体的な生活の一つ一つの場面でみんなの知恵を集めることから始めるべきではないだろうか。「決して新しい埋立地を造らない」と決意して、物を作るところまでさかのぼって、現実に地域のごみが減っていくような仕組みを作ろうと知恵を絞ることこそ、今求められている「意識」なのではないだろうか。
 

いますでにあるごみはどうするのだろうか


 もうひとつ、とても大きな問題がある。今既にあるもの、あるいは作られつつあるものをどう処理するか、ということも考えなければならない。今地上にある、人間が作った物はすべてごみになる、と言われる(編集子はある方に指摘されて初めて気が付いたが、考えてみれば当たり前のことだ)が、すでに地上にあるコンクリートやプラスチックなどだけでも、玖谷などの埋立地は満杯になってしまうかもしれない。それをどう無害に処理するか、これはほとんど「技術」の領域にならざるを得ないと思う。

 現在、プラスチックの処理やごみの燃料化など、日進月歩で新しい技術が開発されつつあるようだ。しかしその一方で、新しい処理方法にもまた環境を悪化させるさまざまな可能性が指摘されている。たとえば、ごみを超高温で焼いても、今度はダイオキシン以外の、新たな発ガン性の物質が発生することが指摘されている(「技術と人間」、1999)。

 新しい技術が導入されてもそれだけにとりつかれてしまうと、あの高度経済成長期の失敗と同じ轍を踏むだろう。ごみの燃料化などの新しい技術については、当面の埋め立てごみの削減、埋め立ての回避のための緊急的・一時的な措置としては必要だろう、しかし、それに頼れば、いずれは大量廃棄による新しい汚染を引き起こし、資源の枯渇によって行き詰まることになる。

 今あるゴミの緊急的な処理とこれから悪質なごみが出ないようにすることとをしっかり分けて考えるべきではないだろうか。

 これからは、埋め立てという安易な方法に走ることはできない。自分の家の目の前で、ごみをうずたかく積まれたらどうか、という想像力から始めるべきだと思う。

 残された五年間、玖谷周辺の方々には大変なご迷惑をおかけすることになるが、その出来るだけ早い時期に、どれだけ具体的な方法を見つけ出されるかにかかっている。

 何はともあれ徹底的に議論して、もてる知恵を出し尽くすことだろう。本ニュースが、少しでもみんなでごみを減らしていくための活発な議論の場・提案の場になれば、と思う。
 
 
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