廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA

廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA (幸田光温)

 ◎参の巻 *松江藩士の見た廣島* 2006年 2月 第58号


 慶応元年、松江藩の儒学の教授、桃文之助という士が藩の命を受けて二人の同僚と共に広島を訪れ、熊本藩士安井左平次らと合流して熊本まで出掛けた。この時期は所謂「長州戦争」がくすぶっており、松江藩では熊本藩の様子を確かめたり密かに打診してみる意図があったと思われる。この時桃文之助は34歳。一緒に行った和多田淵蔵、渡部善一のうち和多田は砲術の技師であった。

 前回に広島を通過した太田南畝の手記を書いたが、桃の場合は10日間も宿泊して町を見物したり遊んだり飲んだりして『西遊日記』という手記を残している。これは当時の広島を見るには欠かせない史料である。主な部分をなるべく現代風の表現に変えて書いてみよう。

 この時期の広島藩は財政面でどん底にあって、藩内の鉄を何とか他藩に売り込もうと計画しており、桃と落ち合う約束の安井左平次はその交渉に熊本藩から招聘されていたもののようで、桃が広島に10日間も逗留したのは安井と広島藩との交渉が長引いた溜めのようである。

 
一、可部から広島へ

 桃文之助一行(同行3人とにもちもち人足)が松江を出発したのは7月17日。三次、吉田を経由して20日に可部に泊まる。この途中の記録も面白いのだが、紙面の都合で略す。21日朝五ツ半(9時)に宿を出発。船場まで歩いて船に乗るのだが「川は小田川と云う由」と書いている。「おおた」を「おた」と聞き「小田」の字を当て込んだのであろうか?乗合船にて船賃は1人が1匁2分ずつ支払っている。広島まで4里。

 城下に近づいて先ず驚いたのは左に見える城で、
「広大の仕懸りである。矢倉が大層あるので尋ねたら四方に48ありと云う」・・これは船頭が説明したのだろう。確かに外と内で48の矢倉があった。船は本川に入って猫屋橋の畔に着いた。昼前である。

 それから松江藩の常宿へ行くと、只今彦根藩の御方が泊まっておられるので別のお宿をご案内しますと云われ、堺町4丁目の山澤屋忠次郎宿に案内される。
「山澤屋は脇本陣とも称し大名も泊まっているというから立派な造りかと思ったが、至って粗末也」と不満を漏らしている。

 昼食後、肥後藩の安井の泊まる二文字屋という宿を訪ねる。西横町というから猫屋橋を渡り、中島からさらに元安橋を渡った所で菓子屋であった。二文字屋では安井が酒肴を用意し、安井の知人も加わって賑やかに飲み、宿に帰ったのは五ツ半(9時)だった。その後に当日の広島の見聞をこう書いている。

 
「廣嶋を一覧すると町屋の模様など万事浪華の風によく似て随分繁華である。夜も通行人多く、夜店も多く、聞けば芸者も大分いるとの事。夏はそういう女連れで舟遊びする者もあるが、近年は段々と規制が厳しくなり弦歌を盛んにして酒宴するなど固く禁じられ、帯刀の者が料理屋へ入る事も禁じられるようになった。しかし密かにはそこそこ行っているようである。また、絹布の売買は厳しく禁じられている。さらに驚いたのは諸物価の値段の高いこと。当節は何処も高いが特に廣嶋は甚だ高い。例えば、梨一つが一匁前後、味悪し。西瓜八ツ切り一つが1匁二〜三分、味は随分よろし・・・」これは途中の夜店で食べたものだろう。さらに安井が聞いた事は、

 
「安井左平次曰く、この国は随分疲弊している。米は5月より買い食いしており、出来秋には一旦売り払い翌年に買い入れる方針でいるようだから万事推して知るべしである。鉄と絹とで財政を賄い来たが、近年は鉱山も掘り尽くして着た様で、そんなこんなで諸物価が高値になり倹約を叫ぶのも分かる。しかし上下の区別なく絹布を禁ずるのはどうか?」と肥後藩との比較をしている。物の値段がいろいろ出てくるが、現代との比較は難しい。
 
 二、東照宮に参詣に出発・・・

 2日目は安井をも伴って東へ一里歩き、東照宮・八幡宮・饒津神社へ向かったが、

 
「三社が各一丁程ずつ離れ、何れも結構なお宮の趣。そのうち彼是空腹になってきたので途中、松原にて遥拝して引き返してはどうかと云うことになり遂に遠望しただけで終り。それから鳥屋町の釣燈屋新蔵の店で酒肴を命じ一同楽しむ。この店は同行の渡部善一が春に泊まった宿で、川辺で納涼に宜しき所・・・」

 と、東照宮は遠望で済ませて昼から番まで酒宴を楽しんだ。

 
 三、「氷かけ金平糖」と地蔵祭

 3日目は昼間で雨。昼頃安井が来て話す。
 4日目、3人で安井の宿へ行き、肥後まで安井に同行する附属の役人清藤政右衛門と従僕の助右衛門の2人に挨拶し、心付けを渡している。
「清藤には菓子一箱、氷懸金平糖、代金一歩三朱。助右衛門には酒代として金百疋。」これは菓子箱の中身がコンペイトウなのか、或いは別に付けたのか解釈し難いが箱の中で氷が融けても困るから別物だろうか?それにしても当時このような菓子があったというのは面白い。

 
 その後で安井とも出会い、元安橋で納涼。西瓜を食い、甘酒を飲み、何処かへ行くような所はないかと聞くと、今晩は国泰寺の内の楠地蔵の祭りだというので、それを見ようと清藤も誘って5人で出掛けた。国泰寺は藩主の菩提所で去年長州の三大夫の首実検をした所である。境内は随分広く寺内に多くある坊の一つが楠地蔵であるという。世俗の伝えでは楠正成手植えの木であるとか。廿年ほど前に生えた侭の木に高さ一丈の地蔵を掘り、その上に屋根をした。祭りは賑やかで、生け花、覗き、跳び、その他通行筋に夜店が続く。

 それから引き返し、銘酒屋で銘酒を飲み、さらに猫屋橋にて枇杷葉湯店に腰掛け納涼。別れて家に帰ったのは五ツ半過ぎ(9時半)頃であった。

 四、「忍傘」

 これはやはり4日目だが行動とは別に記述してあるので、ここでも別記しておく。

 
「当地に忍傘というものがある。出雲で芝居の触れが被っているような笠で、あれよりもう少しすぼまっている。そんな笠を被って刀を差し、白衣で往来し、或いは種々の荷物を担い通る者が多い。地元民に尋ねると、足軽躰の者が忍び歩くのだそうで、この傘を戴く時は誰に行き遇うとも辞儀するには及ばず。さらに如何なる買物をし、如何なるものを担い歩いても妨げられることはないと云う。」

 さて、この便利なカサはどんな物なのか?桃文之助は字にあまり拘らない人物だったようで、傘と書いたり笠と書いたりしている。笠は頭に載せる方で、傘は柄がついているもののことを云うのではないかと思う。廣島は近世に柄のある傘を量産して大坂方面に売り込んでいたのは確かだが、この内容から想像すると多分笠の方ではないかと思われる。しかし笠の方のカサは傘のカサ以上に種類が多く、編笠、組笠、縫笠、押之笠、張笠、塗笠とあり、夫々に更に種類がある。因みに古語大辞典に「忍編笠」というのがあり、「近世遊里へ行く者が顔を隠すためかぶった編笠で、これを貸す編笠茶屋があった」と書いてある。それと同じものかどうか詳細は不明だが、当時の広島藩内の規律が他藩より比較的緩い状態になっていたことは伺える。
 
 五、他藩士との交歓

 5日目(旧暦7月25日)以後も安井左平次の仕事が済むまで待つ間毎日出歩いて遊んでいるが、安井を通じて会津藩士と交わったり、自ら彦根藩士の宿泊先を訪れて挨拶したりと積極的な交際をしている。この時期の廣島には各地から外交の士が来ていたようで、「名刺を相通し・・」から始まり、「店に酒肴を命じ・・」となり、宿に帰るのは五ツ半(9時)頃になっている。

 町内見物は天満町天満宮祭りの見物。寺町に参詣。7日目には安井の他に会津藩の望月らと一緒に己斐の山に登って城下の展望を楽しみ
「この山に城を設えたら廣嶋を攻めるに便利だろう。ライフル、カノン砲なら城まで達するだろうなどと笑談・・」したり。

 9日目には彦根藩の大和田ととの別れに宴会を開き、安井らと4人の連名で大鯛を一尾贈っている。
「この代金三拾弐匁也・・」これはかなり張り込んだ贈答だが、彼等には自藩からのかなりの資金が出ていたのだろう。

 翌日7月晦日にはさすがに疲れたか、前夜の鯛か何かが悪かったのか
「朝より腹痛、下痢。夕刻に至り漸く快し・・」と、それでも安井の宿を訪れている。
 
 六、大まかに、確かに・・

 桃文之助が船で江波から出発したのは8月2日だったから他にもあるのだが、紙面の都合で以下は略す。彼は生涯日記を続けていたので気付きの要点をまとめているが、現在それを読む方が不勉強な点もあり、解釈に苦労する所もある。また当時の人が大まかな部分もあるが、確実に時代は進み、それを意識して活動していた壮年達の動きを彼の日記から感じるのである。廣嶋の藩主や重役達が何を考えていたかは分からない。

 先の絵、「江山一覧図」(『広島市史』などより)の中の「矢倉の下」(現在の相生橋東詰の位置)より下流元安橋手前までの区間に当たる。ここに米蔵があり、さらにそれに続いて現在ドームがある位置に長い平屋建てがあるのは厩舎、今流に言えばガレージである。雁木の前に停泊している二階屋台付き十六丁櫓の早船は特別の人物用であろう。この絵は桃が来るより57年前の様子だが、城回りは大きな変化はなかったと思われる。
 
 
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