廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA

廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA (幸田光温)

 ◎弐の巻 *大田南畝の市中通過* 2006年 1月 第57号


 近世二百数十年の間に広島に来た他国の人達は孰も廣嶋を見て「繁華」とか「名産品」佳しとか印象を書いている。マイナスの印象を書いたのもあるが、それはまた後に出すこととして、市内のメインストリートを確認する意味でさっさと通り過ぎていった人、大田南畝の文を出しておこう。彼は1805年に長崎から40日かかって江戸へ帰った。
 

「川あり。こゑ川(己斐)橋を渡る。長き土橋なり。松原という所に人家僅かばかりあり。小屋川の板橋(後の天満橋)を渡りて木戸に入れば廣嶋の城下なり。市町の賑はしきこと佐賀に勝れり。左におさん焼餅の札、右に名酒売家あり。川あり根小屋橋(猫屋橋)と言う。左に本屋あり。左に折れ右に曲がりて川あり板橋なり元やし橋(元安橋)といふ。右に本屋二軒、左に名酒屋あり九霞堂といふ。小さき板橋(平田屋橋)を渡り左に曲がり、右に曲がり行けば古着屋多し。左に小社あり、ここを夷町(胡)といふ。左へ曲がり、右へ曲がれば川あり板橋を渡る、京橋といふ(中略)川あり板橋を渡る、ゑんこう橋といふ。人家ままあり。左右とも山あるところを行く。右に人家あり、岩鼻といふ。左に岨に立岩多き故の名なるべし。ここに清らかなる家あり、しばし休みて酒をくむ。」(『小春紀行』より)

 南畝は賑やかな町は店に入らずに通過して「清らかな」所でやっと落ち着いて一杯飲む気持ちになったみたいだ。
 
 
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