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連載 モーッアルトと広島湾の魚 川上 清

第5話 出世旅とスズキ
2006年12月 第68号

出世魚、広島湾ではスズキ

 秋も深まり天高く腹膨らむ候となってきたある日、Kさんから電話が入った。
 「出世魚というのはブリの他にどんなんがおるんかいのお」
 「スズキとボラとサワラじゃが、それがどうしたん」
 「モーッアルトは旅を重ねるごとに大音楽家に出世していったんで、この周りの魚でそんなんがおったらちょっと結びつけてみたらどうじゃろうか」
 「そうじゃのお、ブリやサワラはこの辺にゃあおらんけえ、スズキかボラがええんじゃない。ヤズ→ハマチ→ブリがブリ、サゴシ→サワラがサワラ、セイゴ→ハネ→スズキがスズキ、イナゴ→イナ→カイナ→ボラがボラじゃが、スズキとボラのどっちがええか言うたら漁格から言うてスズキが数段上じゃけえ、スズキがええんじゃない」
 「よいしゃよう分かった。モーッアルトの旅から旅への出世街道なんか話すけえ、ちょっとおこんかいのお」

 午後kさんは早速胸を弾ませながらKさん宅を訪ねた。Kさんはニコニコ顔で待ち構えたように言う。

 「まあ、ちょっとシモン・ゴールドベルクとリリー・クラウスのヴァイオリンソナタK379を聴いてからにしようや」

 モーッアルトには珍しく第一楽章が緩やかなテンポで始まり、終章近くかなり長いピチカートでピアノを引きたてながら終わる感動の名曲であった。素人のkさんにもその優しい凄さが何となく判りしばし絶句の時が流れた。
 
旅の中の人生

 Kさんは晴れやかな顔で語り始める。モーッアルトの旅については第2話と第4話でも少し触れたが、今改めて検証すると、人生の3分の一以上を10代までは父親と、以後は一人で、東はチェコ、プラハから西はパリ、北はロンドン、オランダ、ベルリン、南はイタリアと、ロシア、北欧、スペイン、ポルトガルを除くヨーロッパの主要都市をそれも複数回旅をしており、その移動の広さや旅のスケールは当時の交通事情を考えると実に驚くべき至難の行動力であったと言えよう。

 よく旅をしない人間、特に芸術家は…という俗諺がある。しかしモーッアルトに限っては全く当てはまらない。彼の人生で旅と父親の存在は決定的な役割を持って大きな支えとなっていたのである。

 5歳から始まった旅は、最初は父親が我が子の類まれなる神童ぶりを広く世に知らしめ、それと共に音楽家としての修養を積ませるもので、モーッアルトは父親の期待通り行く先々で王室や貴族、音楽家、楽師たちや新しい音楽、そして優れた芸術文化に出会う、見聞を高める壮大な修学の旅であった。

 また旅先のパリで同校の母マリア、アンナを亡くすなど、波乱万丈の苦難の旅でもあり、まさに人生究極の証として頂点を探求する旅でもあった。

 パリで母の死を悼んで創った曲がヴァイオリンソナタ第28番ホ短調K304、バイオリンソナタによる唯一の短調でモーッアルト22歳の秋のことであった。

 ウィーンに定住するようになってからも、ザルツブルグへの里帰りや各地でのオペラ公演など、多忙を極めまた、ウィーンでも1カ所に定住せず、幾度も転居するなど、これ程移動と共に生き変化を求めた人物も稀である。

 神童から大天才、そして最高の音楽家へと旅と共に進化して出世していったモーッアルトは、それまでのお抱え楽師からプロ音楽家第1号として注目を浴び、有名なオペラ「フィガロの結婚」のアリアなどはウィーンやプラハの街中で、貴族から庶民の間にまで親しまれ口ずさまれるようになっていった。
 
古事記にも記録が…

 成長に従い呼び名が変わる出世魚スズキには出世を象徴する色々なエピソードがある。

 平清盛がまだ安芸守であった頃、熊野詣の船中に大きなスズキが飛び込んできた。それを見た近従の者は「これを目出度い吉兆です。昔々、周の武王の船にも飛び込み、それ以後天下をとったという故事もあり、スズキが飛び込んだのも熊野権現の御利益に違いないので、早速料理して召し上がってください」と清盛に奨めた。清盛は大いに喜び一族郎党と共に食し、その後吉事が続きついには従一位太政大臣にまで出世したのである。

 また「古事記」にも「口大の尾翼魚 鱸を釣りとて天のまなぐい奉らん」と大国主命が恭順した時の宴会にスズキ料理が出されたことが記述されている。その他「応仁記」でも足利義政が舟遊びをしていた時にスズキが船に飛び込んで大いに祝ったとか…。

 中国でも周の武王の他、「松江の鱸」で有名な晋の時代、洛陽の高官、張翰がかって故郷松江(江蘇省呉松江)のスズキの味を思い出し、富も名誉も捨て帰郷し、スズキを共に酒を酌む生活に戻り、その後松江のスズキは天下一の美味と一躍国中に名声を馳せるようになったという。

 スズキは石器時代あたりから好んで食べられ、全国の貝塚からも骨が同じ汽水域のチヌのものと一緒に出土しており、当時スズキ族は犇めきあうほど大量に生息していたのではないかと思われる。
 

モーッアルト熱は永続する

 モーッアルト死後200年、今やオーストリアの国民的英雄となり、ザルツブルグ音楽祭(毎年7月20日から8月31日)が催され、オーストリア観光の目玉として様々な貢献をするようになった。また、250年債はご存知の通り大盛況で、映画、コマーシャルに最も買う多く使われ今や大ブームを巻き起こしている。

 最近リタイアした映画の名監督 篠田正浩の最後の作品「スパイ ゾルゲ」でゾルゲが日本の女性に恋をし、初のデートシーンのBG音楽に、監督が「これしかない」と先ほど聴いたばかりの、ヴァイオリンソナタK379、第1楽章、SP盤(V)シモン・ゴールドベルク(P)リリー・クラウスの名演奏を使っている。

 時を経るに従いモーッアルトの名声と評価は限りなく上昇を続けていくものと意を強くし、期待に胸を弾ませているとKさんの口は滑らかである。
 
モーッアルトもスズキを肴に…

 日本のスズキを簡単に検証してみよう。学名は、Lateoiroisnitscjapnicusu(cuvier)とややこしい。英語でsea bass。分類はスズキ目スズキ科スズキ属で広島湾にはスズキとヒラスズキの2種が生息している。

 スズキ目の魚は、真鯛からハゼまで数多くいるが、その生態、分類、来歴から見てもスズキ目の王様はスズキでなければならないのに真鯛に一歩も二歩も後れをとっている。

 主食は鯵。鯖。鰯と贅沢の限りを尽くしているのに、生息帯が汽水域や内湾であるため水質汚染に極めて弱く、このため各地の漁場では軒並み水揚げが激減し、また上がっても脂臭くて出荷できないものが増えてきたのが原因でもある。こうした天然ものの現象に対応して栽培漁業化を進め、稚魚の放流で名誉回復を図っているが、いま一つ及ばないのが現況で王様の座は更に縁遠のくばかりである。

 EUでの通り名はヨーロピアン シーバス。スズキ亜目モロネ科の魚で日本産のスズキとは異種であるが、大きく分類するとスズキには間違いないので細かいことには拘泥しないでおこう。

 イタリアではヴェネチアの方言で「ブランツイーノ」、フィレンツエで「スピーボラ」、ドイツでは「ツアンダー」。

 第4話のカワハギと同じく6,7千万年前の化石が数多く出土しているので歴史は古い。現在でも地中海沿岸での漁獲量は多く日本と違って不人気な真鯛を尻目に、EU全域、特にイタリアでは高級料理から田舎料理の食材魚として、カルパッチョや揚げ物、特にブランズイーノ アルフォルノなど有名なオーブン料理に使われスズキ目の王様の位置を確保している。

 モーッアルトもイタリア旅行の際、ヴェネツィアあたりで、スズキ料理を肴にヴェネスト州産の高級ワインをあおったのではないかと想像している。

 
モーッアルトと共にスズキの復活を!

 再びモーッアルト研究の第一人者として著名なわがアインシュタイン博士にお出まし願ってその名言をご紹介したい。

「モーッアルトの万能性は、人間の領域をはるかに越えたもので、音楽の全ての分野、全ての楽器に精通し、モーッアルト以降の音楽に与えた影響は計り知れない。もしモーッアルトがいなかったら、ベートーベン以降『古典、ロマン派、近代、現代』の音楽は今ほど輝くことはなかったであろう」

 と…。この万能性を具体的に紹介しよう。音楽の全分野でこんなにも数多くの曲を創っているのである。

 交響曲58、「セレナード、ディヴェルティメント、行進曲ほか」を合わせて76、協奏曲(ピアノ、ヴァイオリン、管楽器ほか)61、管楽器、弦楽器による室内楽52、ピアノを伴う室内楽(ヴァイオリンソナタ、三、四重奏ほか)55、ピアノ曲(ソナタ、変奏曲ほか)180、宗教曲(ミサ、教会ソナタほか)85、声楽(リート、コンサートアリア、カノン、重唱ほか)164、オペラ22、とあり、Kさんが大全集から数えた曲数、K番号がついていない曲を含め、なんと大小985曲にもなり通説の800曲を遥かに超えている。

 5歳から35歳までの30年間によくもこんなに!とただただ驚くばかりで何と考え何と論じてよいか判らないとKさんはシャッポを脱ぐ。しかしこんなにも多くの曲を世に出しながら、天は二物を与えずとでもいおうかモーッアルトには経済観念が全く欠如、それに輪をかけたような女房コンスタンツエの「大ザル」が重なり、最期は尾羽うち枯らす状態で、共同墓地に葬られる悲劇となった。現在ウィーンやザルツブルグにモーッアルトの墓とされる大きく素晴らし像が建てられているものがあるが、中に当人の骨が一片もないと思えば一寸白けた気分にさせられると嘆きながら、それでもモーッアルト崇拝は終生高まり続けることだろうとKさんは総括する。

 最後に似島廻りでは刺し網に殆ど掛からなくなったスズキだが、いつの日かモーッアルト効果で復活のあることを願って終章としたい。
 
おわり
 
(モーッアルト指導 木本敏雅)
(註)ピチカート=弦楽器の弦を指ではじく、アリア=オペラなどの独唱、リート=ドイツ歌曲、カノン=宗教歌曲(教会の音楽)
 
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