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◆水内川に昨年の土砂災害の影響残る
◆関川ダム建設事業に中止勧告
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準備ニュース 1【準備ニュース7号】
関川ダム建設事業に中止勧告―中海の問題はよそ事ではない―
太田川水系三篠川の支流関川に計画・調査されていた、多目的ダムの建設事業に中止勧告―。
九月一日付中国新聞朝刊によると、与党三党が中止を勧告した公共事業公共事業二百三十三件のうち、建設省管轄分で事業名が未公表だった四十四件が明らかになった。
その中に、「実施計画調査着手後、十年以上経過して未採択の事業」の一つとして、広島市安佐北区の関川ダムがあげられた―。
「広島県の河川開発」(平成九年、広島県土木部河川課)によると、このダムは、広島市安佐北区白木町秋山(左岸)・同小越(右岸)に建設が計画され、集水面積は62.5平方キロ、総貯水容量は1、000万トンである。
現在湛水中の温井ダムと比較すると、集水面積は温井ダムのおよそ四分の一、容量では八分の一で、決して小さなダムではない。このダムは「三篠川総合開発」の一貫をなすもので、貯水した水は、工業用水として、最大日量5万4千トン広島圏域に給水される予定であった。
このダムは温井ダムとほぼ同じ時期に計画され、予備調査を昭和47年度、実調は昭和49年度に開始している。
「広島県の水道事業」(昭和六十年、広島地方自治研究センター)によると、太田川水系では、高度経済成長期に温井ダム・吉和郷ダム・関川ダムという多目的ダムを建設することで、水資源総量110万トン/日の開発が計画された。
その後水需要の伸びは鈍化し、温井ダムは建設、吉和郷ダムは立ち消え、関川ダムは未採択のまま事実上放置された形で現在に至った。
今回本ニュースでは、この事業の詳しい経過について、きちんとした取材を行うことが出来なかったので、計画当初の新聞記事をピックアップしてみた。
昭和四十八年八月一日付中国新聞の記事を要約すると、「学園都市『東広島市』建設計画の中で、水需要に対する給水計画として県が関川に予定しているダム建設に対し、水没予定地区と下流地区の白木町住民百七十戸がダム建設反対運動に乗り出した。
県は昭和五十五年完成を目標に建設を計画している。これに対して反対住民側は、生活の手段と永年住み慣れた郷土を失う、関川の流水を利用している住民の水資源を奪われる、水量の減少で下流地域の漁業が脅かされ、地元農協経営の関川発電所も機能を失う、としている。
白木町議会も反対住民の提出した請願書を採択した。」
一方、同八月十八日付の記事を要約すると、「広島県内では、八田原、温井、下金田、灰塚、関川ダムなどの建設計画が目白押しだが、どの建設計画地でも反対運動が起きており、計画や調査を進めていく上に大きな障害になっている。
そこで県は、『ダム建設関連対策協議会』を近く発足させ、水没地区の福祉対策や地元市町村の地域開発などを総合的に検討することにした。
同県では『全国でも始めての組織』と鼻高々である。」建設予定地の白木町の方々が大変苦しまれ、反対しておられるのに対して、行政側が懐柔策を練ろうとしていたのが分かる。
「広島県の河川開発」より
非常に恥ずかしい話だが、編集子はこの計画を昨年まで全く知らなかった。
もちろん、編集子自身の無関心、不勉強の問題なのだが、その「無関心」の中に何が潜んでいるか、少し考えてみた。
公共事業の計画書は、「受益者」が求めるものがいかに重要で、早急にその事業をおこさなければならないか、を謳っている。
河川開発や電源開発では、「受益者」(ダムであれば、水道水を頂けるとか、洪水を防いでもらえるとか)は下流域の都市民(編集子もこれにあたる)になることが多く、ダムや発電所などの建設予定地に離れて住んでいる。
そのせいか、見方を変えれば、自分たち「受益者」のせいで、ある地域で集落が消滅したり、住民が田畑や漁場を失ったり、なりわいを変えなければならなくなる、とはなかなか実感しない。おそらく広島・呉・東広島の住民で、関川ダムのことをご存知の方は少ないだろう。
しかし、発想を全く逆転して、私たち都市民が、「ダム、あるいは発電所を作れないから、電気を確保できません。洪水を防げません。だから、ここには都市を作らないで下さい。そこに住まないで下さい」といわれたらどうだろう。
人のすみかや生活の糧を奪う以上、このぐらいの立場を変えての自問は当然必要なはずだが、少なくとも編集子はそこまでつきつめて考えたことはなかった(想像力の欠如を嘆かずにはいられない)。
ある公共事業が計画されたとき、「受益者」とされる側の住民が、まず自分がその事業の「受益者」になっている、ということをもっと深く問うことから始めるべきではないのか。
その事業が自分たちに本当に必要なものなのか(ある地域の集落を水底に沈めたり、住民の生活の糧を奪うにふさわしいことなのか)、必要な場合その方法しかないのか、あるいは自分たちは、計画を正当化するために、不当に「受益者」とされているのではないか−。
そんなものが欲しいと言った覚えはない、と感じる「受益者」も少なくないのではないか−。
ちなみに、関川ダムが供給する(はずだった)工業用水については、グラフをご覧になれば分かるように、すでに現在完全な水あまりの状態にある。今の社会では、「必要性」は、刻々と変化する。
広島市・呉市・安芸郡・東広島市の工業用水の実績使用水量(日平均)と計画給水量の変化
(日最大使用水量について、資料のそろっている呉市について検討したら、日最大使用水量は日平均のおよそ1.04倍で、最大値と平均値に大きな差はない)
これまで、事業予定地との交渉が始まる前に、「受益者」側でこの問題が徹底的に討論されることはほとんどなかったと思う。
渇水や洪水などの目立った不都合があると、行政や財界などから事業の「必要性」が要望され、注意を怠っていると、いつのまにか具体的な計画が決まり、発表される。
計画書には事業の必要性を否定しないデータしか使用されない。
しかし、計画書に明記される「受益者」は、あくまで私たち一般住民なのである。「『受益者』のために、他地域の住民の生活を変え、多額の税金をつぎこみ、広範囲に環境を悪化させる可能性がありながら、工事を行わざるを得ない」、ということになるのである。
私たちは、このことの意味する恐ろしさにもっと敏感になるべきではないか、これまで無関心でい過ぎたのではないか−。
私たちが「受益者」であるのなら、私たち自身の手で、自分たちが真に求めているものを知り、それを得る方法を検討し、決定すべきではないのか。
たとえば、渇水対策としては、多大な犠牲を払うダム建設以外にも選択肢はたくさんある。
少しでも雨が降らない日が続いたら、すぐに節水を始めるようにすれば、既存の施設で事足りる場合が多い。これまでに放棄してしまった自己水源・小水源を生かす方法もある。日常的に節水意識を徹底させる方法もある。
あるいは治水の問題なら、ここで軽率に無責任な議論をすることはできないが、都市(「受益者」)側に遊水池を作るとか、予め洪水の発生を想定した災害に強い都市づくりを徹底するとか、採りうる方法は一つではないはずである。
自分の命を守るために、よその集落を永久に水底に沈めるべきか、自ら主体的にすみかを移すべきか、そこから始めるのが筋だろう(こうした議論を尽くさずに、あまりに多くの山村が犠牲になってきたことを忘れてはならない)。
本来、考え得るあらゆる方法を提案して、住民投票なりを利用して最も犠牲を伴わない方法を採用するのが「受益者」の義務(=権利)ではないか。「必要性」の不確かさ、移ろいやすさに比べ、ダムや発電所などは、一度建設されると、人の心や自然につける傷跡は半ば永久的なものになる。
計画以前の段階でいくら時間をかけてもかけ過ぎることにはならない。そして、その段階から住民が参加するのはごく自然なことである。
しかし、現時点では、このような手続きを組み込んだ、公共事業決定のシステムを作るのは不可能に近い。
水や電気についていえば、計画以前に、今どれだけの水や電気を使っていて、それは妥当か、場合によっては削減できないか、ということから日常的にシビアに議論しておくべきだが、あらゆるデータの積極的な公開や、問題の投げかけは行政からはもちろん、住民側からもほとんどなされることはなかった。
ダムや発電所の計画が持ち上がってから、それに賛成か反対か、という次元でしかそういう議論はなされない。
普段は、水道局や電力会社にお任せである。あるいは、治水の問題などについては、専門的な知識が必要なこともあってか、住民が手を出すことはできない、という空気もある。
しかし、自分たちの生命に関わる問題なのだから、本来、住民がその土地の治水のプロを育てるべきなのではないか。つい百数十年前までは、流域住民自身が治水の大きな役割を担っていたはずである。
さらに、その事業に付随する雇用や、道路や関連施設の建設による別の「受益」の問題によって、話は難しくなる。
事業の本来の目的は水や電気を供給したり、洪水を防ぐことであるが、その点では必要がないと分かっていても、「雇用を創出したり、過疎や不便に苦しんでおられる事業予定地を活性化するためには、ダムや発電所を作らなければならない。」
人口の増加も頭打ちになり、すでにさまざまな施設が建設され尽くされた現在では、むしろこちらの方が公共事業を行う理由として、前面に押し出されつつある。
私たちは、この議論に対して、どう考えたらよいのだろうか。
編集子個人としては、これは問題のすり替えではないか、と思う。道路や福祉施設といったものは、ダムにくっついているものではない。
ダムがなくても、単独にそれらを作ることに何ら差し障りがあるはずはない。問題は、そこにダムを建てよう、という話でも出てこない限り、都市から離れた地域に住まわれる方々の生活に全く見向きもしない、津々浦々の生活に思いを馳せることのできない行政、あるいは私たちの姿勢にあるのではないか。
雇用の創出にしても、本質的に不要なものをつくるための雇用しかありえない社会を、まともな社会と呼べるはずはない。これまで壊してしまったものの回復のための仕事など、私たちが取り組むべきことは山積みなはずである。
私たちはもっともっと想(創)像力を豊かにするべきではないか。
しかし、具体的な代案がない今のこの時点で、過疎や高齢化に苦しんでおられる地域や、たくさんの失業者(編集子もその一人である)の当座の生活のことを考えるとどうだろう。
少なくとも、編集子には何も言うことはできない。ただ、これからは、その具体的な代案を、流域(水圏)の住民みんなで探っていくための議論の場をつくることに、水圏全体で力を合わせていくべきではないだろうか。
「受益者」にされているからには、関川ダムの中止勧告の結果をしっかりと見つめ続けねばならないと思う。
(原 哲之)
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