準備ニュース10
準備ニュース 9
準備ニュース 8
準備ニュース 7
準備ニュース 6
準備ニュース 5
準備ニュース 4
準備ニュース 3
準備ニュース 2
準備ニュース 1

1.流域の従来の変遷

2.がんばれ可部線
【準備ニュース1号】

2.がんばれ可部線!! (可部線沿線案内)

開通式を喜ぶ町民と加計中心街、昭和二十九年
開通式を喜ぶ町民と加計中心街、昭和二十九年

撮影土橋 鶴吉さん、松田 和彦さん提供


仮事務局より

 現在廃止問題に揺れる可部―三段峡間ですが、線路は川に沿って、川の蛇行を縫うように走っています。
 中流域では駅は左岸に偏っていますが、両岸に存在する集落にとって、可部線は太田川を軸にした人と心のつながりを守るかけがえのない財産です。

 幸田先生のお話と資料をベースに、沿線の集落を紹介してみます。
 川の流れに従って、下流に向かって紹介していきます。

 

【三段峡】
 山県郡戸河内町。駅名は景勝「三段峡」の入り口という意味だが、本来の地名は「柴木」。地域では「しわぎ」と呼ぶ。
 三段峡が観光化するまではこの川は芸北各所から木材を管流しする作業の根拠地で、柴木集落の人はほとんどがその職人、関係者であった。

【戸河内】
 とごうち、とがわちの両方の呼び方があった。
 吉和川筋と柴木川筋から運ばれる木材を筏に組む浜が数ヵ所あり、電柱材と鉄道の枕木とが大量に搬出された。醸造蔵を利用した民具の資料館もある。かつては、簗が町内の数ヶ所にあった。

【土居】
 戸河内町内。吉和川筋のダムから引く水路による発電所(土居発電所)と、柴木川筋のダムから引く水路による土居第二発電所がある。土居を出ると本流を離れて筒賀へ。

【筒賀】
 山県郡筒賀村。筒賀村は90パーセント余りが山林で、その大部分が村有林であり、村が計画的な山林経営を行っていることで知られている。
 近年は龍頭峡を目玉として森林公園を造って山林をアピールし、森林館、木工陶芸館、レストハウス、キャンプ場などの施設も加えてハイキング客の誘致に乗り出している。18世紀には温泉が湧き、その施設があったというが今はわからない。
 上筒賀の大歳神社境内の銀杏は高さ50メートル、幹の周囲10メートル、樹齢700年?、県の天然記念物に指定されている。筒賀を出ると筒賀川、本流を渡って上殿へ。

【上殿】
 
山県郡戸河内町。上殿はかつて山崩れの被害に遭われた場所。
  

【殿賀】
 
ここから山県郡加計町。上殿とともに、かつては麻の生産と紙すきが盛んであったところ。山からの湧水を引く水路を各所で共同で掘り、この水路はのちに稲作に使われた。

【木坂】
 かつて四十五軒の全戸数のうち二十三軒が船持ちであり、その他の家でもアトノリやノリオクリなど何らかのかたちで船に乗っており、船に乗っていないのは四軒だけという最も船に関係の濃い集落だった。

【加計】
 滝山川と本流の合流点の広い河原を渡る。加計の町は、旧市街地が丁川・新町・本町・旭町・古市・空条・神田町・天神町・道の口・巴町などに分かれている。駅は旭町にあり、町の商店街は新町・本町・天神町である。
 中国山地の鉄の生産が盛んだった時代には、丁川沿いの険しい道が背に鉄を積んで通う馬と馬子の多くで賑わっていた。明治以後、昭和初年までは木炭の生産と搬出で賑わった。
 駅のある対岸は「見入ヶ崎」で、この間の川は「中の渡」といい、筏の中継浜であった。
 香草との間に近世簗があった。
 駅を出て右の車窓から見えるのは「月ヶ瀬公園」。加計と丁川の合流点「月ヶ瀬」はもとの加計の浜で、隅屋の鉄の積み出し浜であった。「城下まで行こ十三里、炭負うて行こ十三里」と鈴木三重吉が立ち寄った場所でもある。
 丁川(よろかわ)は豊平方面から流れてくる川の名であるとともに、その川の川口にある集落の名でもある。「丁川」を渡るとき左の車窓から船着場のあとが見える。
 加計で合流する滝山川の鮎は、急流に揉まれ、肩のところが盛り上がった立派な体型をしていて、特に高い値段で売れたという。

香草】
 中国山地の鉄生産が盛んで加計の町がにぎわった時代は船乗りが多く、また、色町があって芸者がいた場所でもあった。対岸は「遅越」、「辻の河原」と集落が続く。

【津浪】
 ここの地名は山津波がかつてあったことを物語る。
 また、空から眺めると古い時代に川の流れが小さく湾曲していたことがわかる。現在、かつての流れのあとは村となり、その中央に円形の岡が残っている。住民はほとんど船・筏に関係していた。
 

【田之尻】
 ここは山県郡筒賀村。川を渡って「砂ヶ瀬」の集落を横切って田之尻に入る。ここから山越えして筒賀、山の廻りにでると戸河内の近道になるので古来多くの通過客があった。
 対岸の附地とともに筏乗り職人が多く、「つけじ・むかわ衆」として知られていた。
 「附地」の簗は一時期太田川最大の簗で全国的にも紹介されていた。

【坪野】
 山県郡加計町。田之尻から向光石の集落を通り、光石の集落を対岸に見た後、吉ヶ瀬を通って川を渡ると坪野にはいる。向光石は一般には「むかわ」で通っている。筏の時代はここが上流から流してくる筏の中継地だった。
 吉ヶ瀬には発電所がある。この発電所は、戸河内・筒賀境の正地の取水口から山の中を送られた水を使って発電している。坪野にも発電所があるが、この発電所は建設当時、強制連行した韓国人や中国人に酷しい労働を強制して造ったとして知られている。地元の日本人とともに昼夜交代の突貫工事で建設した。
 坪野は古くから太田川流域の他の地区と同様に稲作はほとんどなく、麻の生産が主であったが、度重なる洪水に悩まされていた。そこで左岸の水際に水はねを造って水流の方向を変えようとした。この水はねがいつごろ造られたのか、全貌がどのようなものであったのか、明らかではないが、今、その痕跡が善福寺の沖に残っている。かなり大規模な土木工事であったと思われる。
 坪野の対岸は念仏谷(ねぶたに)。

【水内(みのち)】
 水内駅は湯来町久日市(さかいち、地元ではさかあち)にある。ここは湯来町になる以前は水内村に属し、それ以前は下村に属していた。
 対岸の「小原」との間に現在は安水橋が架かっているが、それ以前は県営の渡し場だった。湯の山温泉につながる交通の要衝であり、近世賑わった。
 また、水内川の合流点で、水内川筋の木材はここに集められて筏に組まれた。小原までは水内川を小さな筏で流されたが、他に、木材搬出用のトロッコ列車が活動していた。
 水内川の小原の対岸は大前。
 久日市と津伏の間に発電用の取水ダムがある。水内から宇佐を通って川を渡り、程原(ここはつい先日まで渡し舟があった)を通る。
 宇佐は西半分が佐伯郡・東半分が山県郡に属しながら、講や交際すべてをいっしょにやるという特色がある。
 そのまま下ると対岸(左岸)に三谷川、豊平方面から来る西宗川が合流する「三谷」・「澄合(すみや)」がみえる。澄合は、安野組と呼ぶ船組の拠点で、西宗川筋から搬出される薪がこの浜から積み出された。また、荷車の時代になると、豊平方面から来る荷車や荷馬車が米を積んでこの川筋を加計へ往復した。

【安野】
 山県郡加計町。さらに進むと津都見を通り、川を渡って左岸の安野に到着する。安野駅のある船場は加計町に合併する以前は安野村だった。
 舟運の盛んだった時代に毎朝、加計を出発して川を下り広島へ向かう船と、前日に野冠などの船宿に泊まって、加計へ帰って行く船とが行き違う場所であったことから「船場」の地名がついたといわれている。
 船場の対岸に家が四軒あるところは安佐町多良子(たらご)で、数年前まで繭の飼育をやっていた。

【小河内】
 ここから広島市安佐北区。安野を出て来見(くるみ)の横を通って川を渡ると、鹿の巣トンネルを通る。 この間右岸には、追崎(おっさき)、鹿の巣(かのす、かなす)と集落がある。追崎は、かつて船大工が五軒もあって太田川造船のメッカであった。
 鹿の巣トンネルを出ると、右岸の下流には瀬谷(せだに)、宇賀と集落が続く。
 宇賀は現在奥に高山川に宇賀ダムがあり、吉ヶ瀬発電所から水路で水が運ばれる。宇賀ダムの水はさらに水路で間野平へ運ばれる。
 宇賀の対岸(左岸)は槙原。鹿の巣トンネルを出ると川を渡って槙原を通って小河内に到着する。小河内方面から流れてくる小河内川賀本流に合流する小浜(古くはこんま)に小河内駅がある。
 対岸の集落は野冠(ぬかずき)。小浜と野冠の間には、昭和初年まで長さが百メートルもある簗が設置されていて、落ち鮎の季節には賑わった。大漁の記録として大正9年一日に二千貫(約七千五百キロ)の魚が獲れたという。簗というのは川全体を堰きとめて流れを一ヶ所に集め、そこに竹を編んだものを置き、流れてくる魚をことごとく捕らえる漁法で、川の水量が多く、魚の多かった時代には川の各所に設営されていた。
 鹿の巣・野冠は加計の船が広島から帰りに二晩めの宿泊地になっていて、鹿の巣に五軒、野冠に四軒の船宿があった。野冠は明治末に住民の手によって上水道を敷設し、現在に至っている。

 

【布(ぬの)】
 小浜のすぐ下(左岸)は部木谷(へぎだに)。野冠の下の右岸崖は断層があって「地獄谷」と呼ばれ、昔牛鬼という怪物が住んでいたという伝説がある。
 右岸は地獄谷を下ると間野平(まなびら)。ここには宇賀ダムと津伏からの水を利用した発電所がある。間野平発電所は大正末に建設された。発電所前には「コバタ瀬」という瀬に「マスイワ」と呼ばれた大きな岩があったが、火薬で割ってしまった。
 間野平を対岸に見て過ぎると布につく。布の対岸は川井で、吉山川の合流点。かつては久地小学校の辺まで船があがっていたという。

【安芸飯室】
 布を出ると左岸に油木の集落を通過する。ここはかつて原爆の図を描いた画家として有名な、丸木位里氏が住んでいた。父親の金助は船乗りで、母親のスマが船宿を営んでいた。丸木位里は画家として知られるようになってからも折々故郷を訪れ、作品を残している。飯室の浄国寺には本堂内の壁や襖に丸木夫妻が泊り込んで描いた絵がある。妻トシさんの描いた肌の黒い天女の壁画は見事である。
 飯室という地名の起源は、一説によると「氷室」(ひむろ)からきているという。中世に山県郡の高所で切り出した氷を都へ運ぶ途中に、中継点のこの地に貯蔵庫を造って一時的に蓄えていたというが、確証はない。
 可部線の敷設は可部−安芸飯室間は昭和11年であり、安芸飯室−加計は昭和29年である。
 駅のある集落の名は宇津(うづ)。宇津は八重、本地方面の米や、鈴張方面の木材などが集まる湊で鈴張川との合流点に船の浜と筏の浜があった。明治から大正年代には二軒の問屋があり、三十数ハイの荷船がこの浜に来ていた。
 宇津の対岸の集落は長沢(ながさお)。

【毛木】
 宇津で川は急カーブを切る。鈴張川の合流点のきつい瀬は「シシバシリ」、それより下流の瀬を「ヨコバシリ」と呼び、船や筏の難所の一つであった。
 毛木の駅の頭上には広島自動車道の高い架橋がある。
 駅のある側(左岸)は飯室毛木だが、対岸(右岸)も毛木(久地村だった)。  

【安芸亀山(大野)】
 毛木を出ると、左岸は姫瀬、中河内、大野と続く。
 中河内と大野は川端の斜面に数十戸の農家がへばりつくように建っている集落。大野は共栄橋で対岸の浜につながる。この浜には後山(安佐動物園方面)から下りて来た道がある。

【今井田(いまいだ)】
 安芸亀山を出ると、対岸に宮野の集落をみながら、川は大きく蛇行し、今井田につく。川には赤い吊り橋がある。吊り橋の付近は砂の川原で、夏は水遊びの人が多く集まる。
 吊り橋を渡ると筒瀬の集落。筒瀬の宥免家は大正−昭和初年に県内で有数の足踏み脱穀機の製造業で、製品は国内だけでなく、東南アジアにも輸出していた。

【河戸】
 今井田を出ると、再び川は大きく蛇行し、列車はトンネルに入る。蛇行した川の左岸には柳瀬の集落がある。
 トンネルを出ると、対岸(右岸)は、八木町鳴、渡し場(明治20年太田川橋が架かるまではここから渡し舟に乗っていた)と集落が続く。ここには八木用水の取水口があったが、現在八木用水は太田川発電所の水をもらっている。
 左岸は荒下(加計の人はながわと呼んだ、船宿があった)を経て河戸に入る。河戸は藩政時代には柿の生産が盛んで、「広島・河戸柿」として太田川の鮎とともに将軍家御献上品にした。西条柿の名で知られているのは実は河戸の柿であるという。近世−大正頃まで世界的に有名だった。現在はわずかに柿の木が残っている。
 藩政時代、河戸には藩営の簗があった、ここで獲れた鮎を特産品として幕府に献上し、漁期にはここより上流の六里を禁漁区としていた。河戸はもとは山県郡八重、本地方面の米がここを経由して広島城下に運ばれた。明治になってから米の搬出はなくなり、村の産業であるムシロや柿の搬出浜になった。

 引用文献、「川は見てきた」・続「川は見てきた」、「都志見往来日記」、岡 岷山画、1796.

 
鹿之巣トンネルを出て、安野駅に向かう列車 
鹿之巣トンネルを出て、安野駅に向かう列車
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。