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1.流域の従来の変遷

2.がんばれ可部線
【準備ニュース1号】

 1.流域の往来の変遷


仮事務局より

 現在、特に都市に生活する人々の多くにとって川とは、おいしい飲み水を与えてくれて、梅雨や台風時には洪水や鉄砲水のような「悪さ」をせず、時々釣りをしたり遊んだりするときに心を和らげてくれる快適な場所であればいい、という便利な「道具」のようなものとしてしか感じていません(あるいは感じられません)。
 生活の意識に川という自然は密着したものではなく、川に対する尊敬・畏怖の念は忘れられてしまいました。
 しかし、かつてこの土地に暮した人々にとって川や山は、その利用の仕方はまさに生命線といえるほど重要なものでした。

 今回は、流域における私たちの移動・輸送手段−往来−の変化について考えてみます。

 私たちはもっぱら自動車に頼り、地形を無視して直線的に掘られたトンネルを通ってあっというまに目的地へ到着します。風景の変化はまさにデジタルで、都合のよい景色をきり絵のように求めます。
 地表のひだを縫わない、風景の微妙な・連続的な変化を体感しないー「自動車」とトンネルの出現が、人と山・川の関係の変化とも密接に関わっているのではないでしょうか。

 可部線の三段峡−可部間に乗れば分かりますが、可部より上流の太田川は深い谷を流れ、現在でも本流に直接面した形でいわゆる宅地開発をされているところはありません。
 しかし、蛇行する川が作ったわずかな平地には必ず集落が存在しています。
 これらの集落はかつて太田川流域の物資の輸送や漁業などに重要な役割を担い続け、そこに住まうかたがたが川を守ってきた、といっても過言ではありません。

 では、自動車が出現する以前の太田川流域住民は川とどのように関わりながら往来してきたのでしょうか?
 

船場の集落 現在可部線安野駅がある(幸田光温さん撮影)
かつては、「入船百はい、出船百はい」といわれるほど賑わった

 

荷車の出現以前 水運の発達

 江戸時代から明治中期にかけての太田川流域では、上・中流域(たとえば加計)と広島城下の往来は、物資の輸送は主に船を使って、人の移動は主に徒歩でできるだけ近い距離でいけるよう山道を通っていました。
 太田川は特に大きな川ではありませんが、当時水運利用率は高かったようです。

 それは、河口に広島という消費都市を持っていたこと、江戸時代には広島城下がたびたび洪水や大火にみまわれ復旧に大量の木材を必要としたり、明治になると軍需や鉄道の延長による木材・木炭の高い需要があったことだけでなく、可部より上流の本流筋では雑穀をわずかに作る程度の極めて零細な農業で、麻や藍の栽培によって生活を維持し、川下へ林産物などの物資を輸送する代わりに、上り荷としてさまざまな生活必需品を輸送する必要があったことが理由としてあげられます。

 江戸時代から、上中流域にとっても広島城下にとっても太田川とそれを利用した水運は生命線だったわけです。
 また、当時は太田川の両岸を結ぶ渡し場は現在の橋の数より多いほどで、それが左右両岸やその後背地を結び付けました。
 

明治16年の東西相生橋の様子 
←明治16年の東西相生橋の様子

 「広島諸商仕入買物案内記」より           
筒賀松原浜 大正15年撮影 
←筒賀松原浜 大正15年撮影

 「山県郡写真帳」より


 戸河内以南のほとんど全ての集落が川船による舟運に何らかの形で関わっていました。

 当時の船乗りの生活は、たとえば加計を朝の五時頃出た船は昼過ぎに広島に着き、そこで商売をしてその日は宿に泊まります。
 翌朝(深夜)に広島を出て川をさかのぼり、その日は野冠(安佐北区)の船宿に泊まって次の日の夕方に加計に帰っていました。
 船乗りの仕事は非常に厳しいものでしたが、一定の収入があり、米の飯が食べられ、都市の空気に触れるということで流域の人々にはある種羨望の的だったようです。

 
引用文献、「広島市における木造船の建造と民俗」広島市教育委員会、1986.

 「川船」広島市郷土資料館、1997.「川は見てきた」幸田光温、「広島民報」に連載.続「川は見てきた」幸田光温、「広島民報」に連載.

 

川船 
太田川橋から上流に向かう川船(「川船」)より


徒歩による往来

 物資の輸送は舟運によっていたのに対し、人々は徒歩で遠方に往来していました(下りは船に便乗することもかなり多かった)。筏乗りなども帰りは徒歩で家に帰りました。
 最短距離を通るよう山道を通っていましたが、山道は地域の人にはとても大切な存在で、総出で整備(道ぶしん)をしていました。
 どの道を通って往来するかはその人の職業や思いにより、加計⇔広島で丸一日から一泊の行程だったようです。

引用文献、「川は見てきた」・続「川は見てきた」
 


 かつての加計−広島のメーンストリート、宇賀・瀬谷―津伏への最短ルート。

 瀬谷から西へ一時間ほどの山中に中倉という集落があった。写真はそこへ通じる道。

 現在この道は国土地理院の地形図にも記載されていない。(続「川は見てきた」より)


荷車の出現以降

 陸上輸送の多様化

 明治中期になると、荷車(人力でひくものはシャリキと呼ばれた)による輸送が盛んになり始め、太田川筋も左岸(現在の国道191号筋)は県道として整備され始め、二十年代末には本流筋は戸河内まで、支流も鈴張川筋や西宗川筋が通行可能な道路になりました。
 加計あたりでは一部に船から荷車に乗り換える人も出てきました。
 また、明治中期以降荷車を馬にひかせるのが盛んになり、道幅も九尺から二間になると、四輪馬車が主役になりました。
 明治二十年には初代太田川橋も架橋され、明治中期以降、陸上の輸送力の拡大、手段が多様化しました。

 

大八車(二輪馬車として使われたと思われる) 
 大八車(二輪馬車として使われたと思われる)
四輪馬車、大正年代の中ごろから昭和十年ころまでは四輪馬車の全盛時代だった 
四輪馬車、大正年代の中ごろから昭和十年ころまでは四輪馬車の全盛時代だった。(「山県郡写真帳」より)

引用文献、続「川は見てきた」

自動車・鉄道の出現、軍都広島の電力利用

 明治二十七年には日清戦争が勃発し、広島には大本営が置かれ、その後軍都としての道を歩むことになります。明治二十七年には山陽鉄道が広島まで開通、電灯が一部に灯りました(火力発電による)。

 電力の利用は人間の川の利用の仕方に新たな局面をもたらしました。
 軍都の拡大にとって電力は必要不可欠のものとなり、大量の電力の獲得のために太田川の豊かな水量に目がつけられます。
 日露戦争後の明治四十五年には太田川最初の発電所である亀山発電所が完成、付近は取水中は水量が減少、川船は水待ちをしなければならなくなりました。
 さらに大正十五年には間野平発電所が完成しました。
 昭和に入って吉ヶ瀬発電所の建設によって筏運送から自動車運送への転換が進みました。

 一方、人と物資の輸送手段にも決定的な変化が始まります。一度に大量の人や物を従来より速く輸送できる鉄道と自動車の出現です。
 明治三十六年、国内最初の乗合バスが横川・可部間を走り、四十三年には可部軽便鉄道(後の可部線、可部まで)が走り昭和十一年には安芸飯室まで延びました。さらに大正七年にはSH自動車が広島・浜田間を運行し、徐々に自動車輸送も拡大を始めました。

 このように「近代化」の進展とともに川を利用した舟運に対する逆風は強まり、昭和初年には加計方面より上流への舟運は途絶えました。 引用文献「川は見てきた」・続「川は見てきた」・「川船」
 


戦後、さらなる川の分断、自動車専用道路(高速道路)の出現(仮事務局より)

 第二次大戦後、発電や利水を目的として、上・中流域の流量はさらに減り、また多くの堰の建設により、船による太田川の移動は物理的に不可能になりました。
 戦後も下流域には肥船による下肥の輸送が行われていましたが、これも生活様式や農業のあり方の変化により1950年代に消滅しました。

 陸上輸送についてみると、道路の拡幅・舗装が進み、道の主役は人間ではなく、自動車に取って代わられました。
 さらに、昭和五十年代に入ると「自動車のみのための道」−中国縦貫道が流域に建設され、さらに近年山陽自動車道・広島自動車道が完成し、広島と上流域の往来は(列車のように)時刻に制限されることなく著しく高速化しました。
 可部線は昭和四十四年に三段峡まで開通しましたが、可部−三段峡間は赤字区間であるとして廃止問題に揺れています。

 図5に仮事務局が明治以降の地図から、広島―加計方面の主要道の変化を追ってみました。
 加計−広島の所要時間は、徒歩だと丸一日、川船だと(荷物を積んで)往復二泊三日、可部線だと片道およそ二時間弱で時刻に制限され、下道で行くと片道およそ一時間半、高速を使うと片道一時間弱です。
 時間の短縮という「効率・便利」を得た代わりに、私たちは何を失ったのでしょうか。
 

 
 便利にはなったが… ところどころに松枯れも見える


 なお、ここで紹介した内容は、上述の引用文献により詳しく、生き生きと描かれています。読みたい方は、仮事務局にご一報ください。

 
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