「地域」

(第一話)

(第二話)

●郵便配達の見た町と人の暮らし(第三話)  栗栖昌好  2005年11月 第55号

〒 配達の苦労(追加)

 これは前の回の郵便や小包配達に関わるいろいろな苦労話の追加という内容になることではありますが、郵便配達の仕事はバイクで出発する前に道順の組み立てをやります。「順たて」と我々は呼んでいますが、この家の次はこの家という配達順に整理する。出勤して1時間くらいこれをやるのに全精力です。全戸配布のダイレクトメールや選挙関係のものは大きさも統一されているので簡単だが「アラモノ」といって普通より大きい配達物は別に組むから、普通の手紙などと一緒に届けるのを忘れて残っていたりすることもあるんで神経を使うんですよ。で、その日によって大きな配達物を届ける家を先に廻ったり、自分なりの歩き方で順番を組んで行くんです。中元やお歳暮の時期は小包が多くて大変でした。中国電力の社宅があったんで、そこへは1日に2回も3回もバイク山盛り積んで運びましたよ。
 年賀状の配達では5日前頃から皆で分けて順たてをやっておいて31日の夕方から皆で全体の調整をするんです。残業手当は月に30時間ときまっていてそれ以上は出ないから、サービス残業ということです。
 
 
〒 同姓同名の多さ

 ここの加計管内には佐々木姓が180戸、栗栖姓が150戸、河野姓が90戸。この3つの姓で全戸の約40%を占めているのでしたがって佐々木と栗栖には名前まで同じ人があります。特に女性に多くて、佐々木スミ子さんが7人、栗栖ヒロ子さんが6人いました。同じ集落に2〜3人いる所もありました。それでも加計町大字□□があればよいが、加計町○○番地で来る手紙もある。加計町は6つの大字があったので同じ番地の所もある。それで宛名のご本人探しに時間がかかりました。一度などは宛名がローマ字で来たのがあって1軒ずつ訊ねて歩いて4人目に確認出来たことがありました。そんなことを長年やっているうちに、どこから来たかによって大体判るようになりましたね。
 

〒 複雑な飛び地

 前に話ししましたが、今の安芸太田町には集配局が5局(戸河内、筒賀、上殿、加計、安野)あってそれぞれの縄張りがあります(猪山は加計局の範囲、杉ノ泊は上殿の範囲など)。これはそれぞれの局から近い所を担当するということのようだが、必ずしもそういう区切りでもない。これは「飛び地」ということで昔に隣の地域の人が開拓に入って、行政が税金を取る時、そういう土地は開拓者の持ち分になるので、結局、所番地もその人の出た地域のものにした〜という歴史があるようです。

 この辺りはそういう飛び地が多くて、明治時代以降何度かの町村合併でかなり整理はされても、まだ名残が残っているんでしょう。それが夫々の局の縄張りになって、大字単位の配達区域になっとるもんじゃけ、附地では津浪の大字の家が5軒あって、他は安野局の配達になるがこの5軒だけは加計局の配達になる。念仏谷では筒賀局の配達になる家もあるなどで、よく筒賀や安野の配達員と一緒になって昼飯を食べましたよ。

 今の郵政民営化で「合理化を進める」というけど、こういう点はは大いに合理化していけばいいと思うんだが・・結局それは昭和30年頃の町村合併の時に、人員確保のため夫々の局の縄張りを少しでも減らしちゃあいけんというようなことだったと思います。加計局は私の勤めた昭和40年代から最近までは今の安芸太田町の町長さんの兄さんの佐々木正清さんが局長で、全国の特定郵便局局長会の副会長をされた方です。いろいろお世話になってよくしてもらいましたが、厳しい面もあって、郵便局は官庁でも営業が商売で、競争です。簡易保険の加入じゃ目標の300%達成できんと郵政大臣表彰をもらえないのですが、その賞を7年連続して獲ったんです。私は前に言ったようにそれが苦手だったんで早くに辞めたんです。

 ◇参考・現在の安芸太田町内の郵便局は、加計局、戸河内局、上殿局、筒賀局、安野局の他に、坪野(無集配特定郵便局)、猪山、寺領、松原(簡易郵便局)があります。
 

加計町内の廃屋
1969年撮影

〒 離村の進行・
   人口の移動


 私が局に入った昭和30年代以後、この地域が変わったことは、山の上の集落がどんどん町へ出たことです。人が減ったから配達の仕事が楽になったわけでもない。歩く距離は殆ど変わらないし、郵便物が減ったかというとそうでもなかった。昭和50年頃に電話が各家に入って、電報だけは少なくなりました。「挙家離村」なんて言葉が新聞に出て・・・やはり「三八豪雨」で出た家が多かったですよ・・・豊平に抜ける丁川筋から山奥に入った所では無くなった集落が4つあります。安中は加計局分が7軒(豊平分7軒)、都賀尾も7軒、水谷が9軒、寺尾もが7軒あった。寺尾は中世の頃から銀や銅の鉱山があって「寺尾千軒」といわれて大勢の人がいたこともあったそうですが、寺尾には飲んで良い湧水とよくない水がある所で、やはり砒素なんか含んでいたんでしょうね。都賀尾は昭和39年、寺尾は53年、水谷は57年に最後の家が出て廃村になりました。その他に丁川沿いの上流に観音、猿押、頃木という1軒から3軒くらいの小集落があったのも皆無くなりました。
 
 
 丁川筋というのは炭焼きをやって暮らしていたのが、燃料革命で石油に時代になったことや、昔のタタラ製鉄の時代はその仕事もあったし、丁川の河口が川船の浜でそこまでの各種産物を運び出す仕事もあって、多くの人が住み着いたということもあるようです。

 郵便の仕事からいえば、配達する集落が減ることは外務の定員が減らされることになるから、1軒でも残っていてほしい気持ちでした。出て行かれた先は広島も多いでしょうが同じ町内の移動も多いんです。38年当時に出た人は7割位は町内に移っているでしょうね。若い人が家を出て町内で働いていて、独立して家を持つ時に両親も一緒に町に家を建てて移るのが多かったですね。やはり遠くに行くより馴染みのある所にいたいという気持ちが強いからでしょう。

 広島では加計町出身者「在広加計町友会」があって800人からの会員がいるそうです。廃村になった集落では殆どの所でその村の略歴や昔の思い出などを綴った文集を出版されていて、私も貰って読んで、配達していた地区のことを思い出しています。しかし今も2〜3軒の所がありますけえ、これからも無くなってゆく所があるでしょうね。
 



内モンゴルでの
植林

〒 将来への心配


 郵政民営化が国会で決まりましたが、過疎地でも郵便局はなくさないと言っているが、今までは国が貯金や保険と一体運営の中でやってきたから続いてきたんで、保険や貯金が別の会社になって、民間の経営ということになりゃあ採算・効率いうことがすぐに問題になってきて、そりゃあ当面は今のままで行くでしょうが10年ごとに見直す言うんじゃけえ将来はわかりません。小泉さんは行政改革、公務員削減というが、郵便局員は税金は全然使っちゃおりません。全部一体運営の中で独立してやってきたんですけえ。民間となりゃあ、国鉄がJRになって、JR西日本が申請すればローカル線の廃止ができるようになって、可部線がなくなったように、鉄道の二の舞になるんじゃないかと心配しとりますよ。


老人給食の配食
 
 加計郵便局もわしらの頃は職員が18人で皆地元の者だったが、今じゃあ2人と局長だけで、後は他町村や他県の出身者です。若い人は公務員試験を受けて郵便局員になる資格を取っても地元の局に勤めたがらない者が多いんです。それで他の地域の人が多くなるし、そうなると転勤も多くなります。地域の人達も「挨拶はようするが、その後の話が続かないんであまり会話もしなくなる」いうています。郵便局と地域の人達の間が遠くなっていくような気がします。私も退職して、これからお世話になった地域へのお返しをしようと地区の部落長や区長などを引き受けてやっとりますが(前号のおわりに紹介)、数年前にボランティアというのは何か精神を考えるつもりで、内モンゴル自治区にポプラの木を植林して砂漠を緑化する「アミダの森、緑の協力隊・第10次隊」に参加して1週間作業をしました。そこで10年前に第1次隊が植えたポプラ並木が青々とした葉を茂らせ、小鳥が飛び交う風景を見て生命の触れ合いに感動しました。生命あるものの共に生かされ、生きていく喜びを感じて帰ってからも、広島の「森と水と土を考える会」に入って吉和の山で植林をしています。


 また、これから年をとって年寄り同士が支え合って生きていかにゃあいけんと思って、老人給食の配食の仕事や、車椅子の方のお出かけ支援などに生きがいを見つけて楽しくやっています。先日は国勢調査の指導員の仕事を頼まれました。町内のことを頭に入っていますけえ、そんなことでも昔の経験がお役に立てばうれしいんです。
 
おわり
 
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