「地域」

(第一話)

(第二話)

●郵便配達の見た町と人の暮らし(第二話)  栗栖昌好  2005年10月 第54号

〒 配達の苦労

 前に言うたように加計郵便局の集配する地区は旧加計町内の所とそうでない所もある。太田川の西側の鮎平から辻河原までと左岸の津浪、香草で一区。街中が一区。川登のある丁川筋が一区。土居や上調子の川北地区。それい加えて温井、猪山が加わるんです。平見谷の郵便も持って行くんですが、平見谷のだけは雇い人がおって猪山の局へ受け取りに来とるんです。

 私が郵便配達を始めた頃は自転車でした。この自転車へどういうように積むかというのも技術の一つなんです。猪山の日は荷物が多いんです・・猪山は戸数は70戸ほどでも新聞が全部郵送なんです。折り込みは郵送しないが正味の新聞だけでもすごいんですよ。これくらい(10センチ)幅に折って封して家の名前書いてあるのをかばんへ郵便と一緒に詰めて、他に補助郵帶いうリュックのようなものがあるんです。それへもいっぱい詰めて、他の小包もある時はどう積むか・・登り下りの多い所じゃけえバランスをうまいこととっておかんと前が浮き上がる。それにね、当時はゴムの紐がないので麻紐で縛ってた。道路は舗装はしていないから洗濯板でしょう。荷物を落とさんように気を遣いました。あの頃は新聞には休刊日はなかった、毎日休みなしで配達しよりました。
 
 自転車の時代は私は3年で、それからバイクになりました。これは地方により多少の年代差があり、車種も違っていたようです。加計の局がバイクになったのは他の局より早かったが、BSという50ccの軽バイクで燃料がガソリンとオイルの混合というぶんじゃけえ、度々カーボンが着くんです。その度にプラグを外してカーボンブリッジの掃除をせにゃあならん。けっこう手間がかかりよりました。のちにはバイクもチェーンが付けられるようになったり、ハンドルヒーターが付いたりもしましたが。

 犬がねえ、私の場合は特に犬が苦手でねえ困りました。初めはねえ、かっぱえびせんを食わせて手なづけるんです。すぐになついて私が行くと尾を振って来るものもおるんじゃが、ずーと吠えるのもおって、犬の為に2回怪我をしました。一回目はバイクに吠えかかって来たので避けようとして石畳の上にこけて脚の肉離れ、2か月の公務傷害ですよ。二度目は家の人がおらんで、スピッツが離れとって吠えて来るけえ、追っ払うつもりで長靴で土を蹴ったら親指骨折。これも二週間休んだ。先輩の一人が「うちの犬を貸したるけえ家へ連れてって暫く飼うてみいや。犬の臭いがついたらああよう吠えられんようになる。そしたら他の犬も可愛い思うようになる。」言われてやってみたけど、どの犬もというようにはならん。やっぱり怖い犬もおるし、夢にまで犬に追いかけられる夢を見る。テレビ見よっても犬が出る番組はすぐ替える、いうように犬との相性がずっとなおらんです。
 
〒 雪・雪・雪

 配達の苦労の中でもやっぱり雪は格外ですよ。猪山は特にね、加計の町なかでも30センチも積もっとったら猪山は1メートルもありますけえ。それでも毎年一月一日、年賀状の配達36年間休んだことはないです。昭和38年のあのサンパチ豪雪の時は行っちゃ危ない言われて私らも1月末には1週間よう入らなんだが、1月1日には入りました。バスが芸北へ行く言うけえ、下山の発電所まではバスで、そこからは歩いて登るんです。多いところはねアゴまで雪がありました。そういうような雪の中をどうやって歩くんか、道が分かるんかと思われるかもしれませんが、山と谷の間、木と木との間の道なのない道を歩く訳ですよ。雪をこう掻き分けると言うか漕いで進むんです。それでまあとにかく辿り着いた。加計をバスで出たのが朝7時で、向こうへ着いたのが1時半。局で合羽を脱がずに弁当を食べて、直にまた雪を掻き掻き引き返して、温井を配達して回ったらもう7時。国道へ出たら今度は滑るんです。何べんか滑って転けて、加計へ戻って来たらもう夜8時半で、局員が道ノ口まで迎えに出てくれてました。もう40年余り前のことになるが今もよう憶えとりますよ。

 雪の季節の配達は私らより前はスキーを担いで行きよりました。スキーの講習会をやっていました。行きは郵便物のかばんを背負って、スキー担いで五輪山を登り、スキーで猪山へ下る。この五輪山は加計からは真北になるが高さ800メートル余りあります。私の時はスキーで行ったことはないです。私らの頃はバスで行け言うことになっとりました。ほいじゃが帰りはバスが戻るやらどうやら分からん。戻っても何時になるか分からんけえ歩かにゃあしょうがない。滝本の方まで歩いて戻った頃にプープーいうて戻って来て、やーれ待ちよりゃあ良かったというようなことがありよりました。猪山の局までいうたら15キロくらいありますが、行きも帰りも歩いたことが3回あります。危ないけえ行っちゃあいけんいう時もありましたがバスが出る日は今言うたように、、バスで行って帰りは歩くことが多かった。とにかく使命感で行きよったんです。今頃は歩いて行けじゃの言うたら、やめます、いうてすぐ言うけえね。
 
〒 水の美味い場所

 加計局の配達区域は前に言うたように5区に分けてあって、全体では1300戸ほどになるけど地区で差が大きい(密集地区と分散地区)のと、それに伴って郵便物にも特徴があります。加計の市中は500戸もあって密集しとる上に官庁や商店の大型郵便がかなりあります。津浪はだいたい平均しとったが。この津浪は夏の思い出があります。私が始めた頃の津浪は170戸もありました。今は20戸くらい減っていますが。牛の角のように左右分かれて急な登りがある。自転車の頃は押して上がるのに特に暑い時分は喉が渇く。津浪という所は水がないんです。横山、安野からトンネル掘って水を取りよるんです。奇数日と偶数日とで両方の谷が分けて交代で水を流す、上の田んぼにも水がない。谷も干っからがっちです。そういうような所はどこに美味しい水が出るということを知ってます。先輩から習うてます。

 津浪のほかにも美味い水いうと、温井の方へ行きよった頃は発電所の近くに湯ノ森いう所があって、そこの水が美味かった。今頃は冷蔵庫から冷たい水を飲む時代だから水場の周りをそんなにきれいにして使ういうこともなくなったですよね。
 
〒 人命救助の経験

 あっちこっち走り回りよるけえいろんなものに出会うことがあるが、大雪の時に打梨の発電所の中電の社宅が雪で押し潰されて人が死んだということがありました。その葬式があった時に、そこの親戚の人が車で行く途中に車ごと川に落ちて、おばちゃんが溺れよるのを助け上げたことがありました。
 葬式へ行く途中とかいうのは後で聞いた話で、私が気がついたのは砂ヶ瀬橋のしもの淵でね、軽四の車が水の中でピッカリピッカリウィンカー出しよる。その上に一人の男が立っとって、その脇へおばちゃんが浮いとるんです。おじちゃんがプカプカしよるおばちゃんをよう助けんのですよ。こりゃ大事になるで思うて通りよった車を止めて、ちょうど加計の人だったんで崖を降りて、おばちゃんをロープで括ってその人には押してもらう、私は引っ張るして引き揚げました。慣れん雪道を軽四で走って滑って川へ飛び込んだんでしょうが大事になりよった所でした。
 
〒 人とのつながり

 この仕事をやったために隅から隅までどこにどういう人がおってか、加計の人の所帯をだいたい憶え込んどります。1日何百通も人の名前書いたのを読みよった。誰が書いた字かいうのも、誰を書いたかいうのも判る。選挙の投票で読みにくい名前があるいうけど判る思いますよ。それから郵便物の目方ね、もう10円余分に切手を貼りますかいうて聞いてじゃけえ、左手で持ってみて20グラムか23グラムか、1グラム差は判らんが3グラム以上の差は判る。封書の内容も大体想像がつく、まあ請求書はすぐに判りますがね。それと現金入れちゃあいけん事になっとる、疑われるのでいうて返します。

 持ってってくれだけじゃない、薬を買うて来てくれ言うて頼まれたりね。買うだけじゃない、銭がないけえ払うとってくれ言うようなのまで頼まれたことがあった。今は配達場所を毎日変えてますが、前には1週間交代という時期があったんで、その頃はいろいろありましたよ。それから川登とか猪山とかの一人住まいの年寄りは冬だけ新聞を取るいうような人がおるんですよ。それは配達のための家への雪掻きをやってもらえる言うことで、それに人が来て話もできるしいうことですよね。

 まあそれでも配達に行ける所はええですが85条適用いうような、配達に入らんでも何処かに置かせてもらういう所もありました。黒滝に3軒、これは下山から松原へ入る途中です。それから観音いうて安中の東側に家があった。今は廃村になっとりますが・・・まだ豪雪までは寺尾7軒、水谷9軒、都賀尾はもとは23軒もあったのが私が入った頃は7軒ですがまだありました。安中は加計と豊平の両方あって加計分だけで7軒あった。それらが豪雪以後どんどん出て行って廃村になったんです。

 中には嫌なものもありました。極った家なんですがね。NHKの受信料の集金に行く。これも郵便局の仕事なんです。明日来い言うので次の日に行ってみると「ああ、今家内が出たけえ昼に来いや」と言う。昼に行くと「ああまだ戻らんのう。3時頃には戻ろうけえ、また来てみいや」言うんです。大体の気配で判ってるんですが、こっちも火になりますけえ5回行ってとうとう向こうが負けて出してくれた。私だけじゃあない他の先輩達も皆かまわれとるから、まあ行ってみいやー言われて、初めは何のことか知らずに行ってみてひどい目に負うた。他にも保険料の集金で日に3回くらい行ったこともあります。
 
〒 早くに退職した訳

 私は定年になる前に辞めました。まだ定年には6年も早い時期でしたが辞める気になったのはセールスに嫌気が差したからです。郵便屋はセールスでさあね。貯金じゃ保険じゃ勧誘して新規に入れて来る。それが成績になるんです。郵便物の集配だけしとったんじゃあ一人前でないんです。上から各郵便局に割り当てがある、ノルマを課せられるんです。それを局の中で内勤の者は2割やって、あとは人数で割るとかする。その辺は局によって違いはあるが、お前は何万円以上新規加入とって来いと言われんでも感じさせるようになっとる。セールスいうのはみなああいう仕組みになっとるんじゃないですか。どうしても個人差ができますよ。保険、貯金専門の職員は上司にチヤホヤされて、手当もたっぷりもらう。そういうのに興味を持つ人は本気になってやりますよね。私は商売人じゃあないし、人のふんどしで相撲を取りとうないけえ・・・はあ息子は大学卒業して結婚もしたし、娘も学校出て職に就いたし・・私は人より早く22歳で結婚しましたけえ・・家内は長年役場へ勤めて、初めは有線放送の係だった。当時、有線放送の全国コンクールで優勝したいうような記録もあるが有線放送が廃止になってからは防災無線係に拾うてもろうたし、まあ私が無給になっても食うていけるか思うて退職したんです。

 退職してからは後はいろいろやっとりますが全部ボランティアです。お金をもらうために仕事をしたことは一切ない。車を社協のを使ういうだけ、コーヒー代もない。はあ社会奉仕じゃいう使命感といいますか、健康であればまだそういうボランティアを続けるつもりでおります。

☆栗栖昌好さんの現在の活動

(財)日本レクリェーション協会公認インストラクター
(財)日本ゲートボール連合一級審判員
(財)日本体育協会スポーツ指導員
広島県社協
安芸太田町老人クラブ連合会理事
  保健体育部会副会長
安芸太田町郷土史研究会理事
安芸太田町中央一区区長、丁川部落長
安芸太田町サンサンネット給食配食
安芸太田町シルバー人材センターお出かけ支援(車イス)
加計ヘルスコミュニティデザイナークラブ代表
 
 
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