写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(69)元安橋東詰め 『広島諸商仕入買物案内記』より


 この案内記は明治16年に発行されたもので書名は『広島諸商仕入買物案内記・并名所しらべ』という長いもので、小型だが分厚く131丁の中に249軒の商店の他に官公庁や学校や名所などが紹介されている。当時の広島市内の様子が見える資料である。残っているものは極めて少ないが、後に復刻されたものがある。本誌のこの項では6年前の第5号で「明治初年の広島にあった高層建築」というので一部を紹介したことがある。

 中島側から元安橋を渡れば細工町。上の絵はその橋東詰めにある「広島県里程元標」で二階の屋根にかかるくらいの高さがある四角柱で、広島から○○まで何里何丁と言う際の出発地点(到着地点)である。柱の西面には「廿日市駅三里壱七町三十二間二尺五寸」と東面に「海田市駅弐里十町三拾間壱尺一寸」と書かれている。(尺寸まで測ったのか?)

 里程標の背後は制札場で、当時はまだ藩政時代の流れが続いていたようだ。

 この絵にある大店は秦伊三郎の「汽船乗客荷物取扱處」である。まだ鉄道が出来る以前で人も貨物も蒸気船や和帆船による搬送であった。定期航路も不定期航路もあったが、いずれにせよ船問屋が取扱い、各地の産物は川船や荷車でこの問屋へ運ばれ、そこから海上に停泊の船まで上荷船で運んで積み換える。

 秦伊三郎の他にもこのような船問屋は大手町に武田勘助店、中屋常助店、鳥屋町に沖常助店、立石長吉店。さらに本川筋には岩田三兵衛店、大久保忠右衛門店などが描かれている。

 この絵をもう少し見ると看板の右側に帳場があり、その横には関係の船の名が並んでいる。店の前を往来する人の他に人力車が一台と荷車が二台見える。この頁の他にも人力車や荷車は数多く描かれているのだが、人力車はどれも同じ形なのに対し、荷車は大きさも形も違う。一本柄、二本柄、押し型、引き型、柄なしの綱引き型など様々だ。荷車は明治以前は一部の郡内では使われていたが、町の中では禁止されていた。轍が道路や橋を傷めることを嫌ったからで、祭りの時に大きな山車を引くことはあっても、運送の目的で町の中でも使われるようになるのはそれ以後である。しかし押し型は通行人を傷つけることがしばしば起きるため県条例で禁止した。十年代にはまだ両方あったということのようだ。因みに山代巴の『荷車の歌』の中でもこのことを裏付けるセキさんの話が出ている。

 元に戻るが、この秦伊三郎店の表の棟は平入りで幅が何間か分からないが妻の方は梁が四間という建物である。しかしその北側に川岸に面して別の棟が二つ、送り荷を収納する倉が二つ別頁に描かれている。別棟は船に乗る客人が泊まる建物のようで、そこから雁木を下りて小船で汽船まで出たのだろう。なお、元安橋の東南詰めは『駅逓局出張所』(郵便局)の看板があり、四か所の窓口が描かれている。
(幸田光温) 
 
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