写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(5)明治初期の高層建築


 藩政時代が終わって明治になって、広島の町はいろいろと新しいものが現れるが、その一つがそれまでの町家風にない高層建築である。明治16年出版の「広島諸商仕入買物案内記」の中に五階建の料亭が2軒、四階建の料亭と遊技場(揚弓店)が1軒ずつ描かれている。当時の広島の町に現われたこのような建物はさぞや人々の注目を浴びたであろうと想像される。
 この買物案内記という本は懐に入る小型だが、138丁の分厚い和装袋とじ本で、市内の257の商店が丁寧に描かれている。多い業種を挙げてみると、酒酢醤油醸造販売店27。薬種店20。旅籠商16。呉服反物店13。漆金銀細工店12。菓子店12。鬢付油紅白粉(化粧品)店11。他に、汽船・運送問屋7。料理8などで、このうち料理店は旅館を兼ねているものが多いし、この数字は適当に判断願いたい。
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 さてそこで五階建料亭のことである。左が細工町の「五階楼」で高さ拾壱間半(約20メートル)と書いてある。経営者の名は書いてない。紙面の都合で上下をカットしたが、前の道には人力車や人や屋台が描いてある。細工町とは現在の原爆ドームの位置で、猿楽町と横町との間に南北に細長い町であり、現在の西向寺付近にあったのではないかと思われる。さらにその西側に米田良平の支店で4階建の料理店があった。
 右図の光昇楼の方は西地方町新大橋西詰と書いてある。新大橋は今の西平和大橋のやや北側で、したがって中国新聞社のある位置あたりでは、と推測する。
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 これら明治十年代の高層建築については広島市公文書館の「紀要」第十二号に『五階楼の建築的研究』という表題で発表されているが、建築技術者はむろんのこと、建設年も解体年も不明であるという。建築物に限らず明治の前半期は不明な部分があまりに多い。藩政の束縛から解放された商人の一部がこれまた新しいものを求めた棟梁たちを刺激して完成させたものであったが、それは長くは維持できないで消えてしまった。
(幸田光温) 
 
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