廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA

廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA (幸田光温)

 ◎七の巻 *幕末から明治へ* 2006年 7月 第63号

 
 前の回に真宗僧侶東林の見た広島藩として藩士を酷評した数行を紹介したが、他にもある。東林より少し後の嘉永4年に広島を通った熊本藩士横井小楠はその諸国情勢見聞録に「士風限りなく傾廃し、文武の衰弱すること山陽道第一に御座候」と東林以上に酷評している。さらにまた、「賄賂の公的にあること甚だしく、一例を挙げれば豊島屋何某と申す者は元は大工に候ところ、諸有司に賄賂を入れて御用達となり、諸問屋の株を潰してその利を独占し、且つまた宮府の金銭を取り出し御殖し方と申し立て、或いは貸付け、或いは諸物をとり抱え、二十ヶ年位で七〜八万両の豪商になり・・」と一部の商人の跋扈を名前を挙げて語っている。

 近世末期には財政面で行き詰まった藩では大坂の豪商との商いに力を入れ「大坂御役人」という役職を置いて折衝に努める一方、藩内の特定商人に御用を仰せつけて大きな利を得ようとした。豊島屋の場合は旅人がたとえ噂であるにせよそうして話を聞くくらいだから、相当知れ渡っていたのだろう。このために生産者との間に摩擦が起きる。弘化2年の大田庄で起こった農民との衝突はその発端であった。これは時の流れをよく語っている出来事と言えるので簡単に触れておこう。
 

 大田麻は農民の生計を支える重要なものであり従来は荒苧・扱苧は生産者が買い取り商人を自由に選んでいた。つまり高値で買ってくれる業者の所に持って行った。しかし、広島藩では弘化2年2月より自由売買を廃止し藩の認定する商人を39人に限定し、その他の商人に売ってはならないとした。このため値段は急落し7月には以前の1/6にまで下がり、農民から不満と共に自由売りを認めてほしい嘆願書が出た。この時の御用商人「改所頭取」を仰せつかっていたのが白神一丁目の豊島屋円助であった。

 豊島屋は8月に大田庄の数カ所で農民の代表者を集めて、藩が行った統制の理由を説明して廻る予定であった。その内容とは・・・

 藩では麻を大坂の豪商である丹波屋に買い取ってもらっているが、大田麻は荷仕立が粗末だと言われている。丹波屋の評価は今後の藩の立場を不利にする。藩は今は財政の赤字が増えその立て直しに我々も力を入れている。どうか国を救うつもりで暫く辛抱してほしい・・といったものであった。

8月4日に先ず木坂の長百姓十右衛門宅で説明会を開いたが、この統制が御用商人である豊島屋らが発頭となって進められていると考えている農民側では今こそと続々詰めかけた。凡そ600人が家の回りを取り囲み遂には話中の豊島屋へ草履や下駄を投げつける、水を掛けるなど興奮してきた。
加計の割庄屋佐々木八右衛門が間に入ってなだめたが一同は収まらず、危険を感じた豊島屋は庄屋三郎左衛門に従って裏口から脱出した。
その後農民は鮎平た上原方面からも続々集まり、また逃げた豊島屋を追って夜遅くまで加計中を探し回る集団もあった為、恐怖に駆られた豊島屋は道ノ口の与頭清次郎の家に匿われた後、翌朝早くに城下へ下る船の荷物の中に潜って辛くも脱出した。


 この事件は当然その後がある。麻生産者側は統制を解除し自由売りを求めるために城下に乗り込もうとする。割庄屋や庄屋・与頭ら村役人連中は支配機構の末端にある立場上それを抑えなければ自分たちの管理不足として罰せられるから必死である。一方の藩としては、商人が現場を納得させられないなら藩の役人を派遣させる、ということである。

 以後の経過は此処では省略するが、結果としては生産者側の要求の激しさに押されて自由売りが復活した。しかしここに見られたような三者、四者の関係というものは形や名称は違っても現代にも続いているように思えてならない。

 豊島屋の事件の後、20年足らずで明治の時代に移り変わる。溜まりに溜まった矛盾は一挙に噴き出る。しかしその前に長州戦争があった。この時広島藩は征長の名分が明らかでないとして反幕府ムードが藩内にあり、常に消極的態度をとって第一線には出なかった。これは東林の言ったように「戦陣の用に立つべき者」がいなかったことになるのか。或いは殺し合いを避けた賢明さを評価する方が良いのか。それでも他藩の兵士が小瀬川での戦いで長州藩に敗れたために大竹・小方・玖波村などの村人9000人が兵火の被害を受け、この領民への給米をする等の出費を迫られた。

 前後2回に及ぶ長州戦争で広島を通った他藩の兵士、人夫の実数は不明だが、その宿舎に使われたとして経済的補助を受けた数は、町内の寺院80ヶ寺、民家926軒であった。先の豊島屋はこの時期すでに失脚していたが、新しくこの機会に大儲けした商人もいたであろう。他藩の下級武士の中には国へは帰らず、刀を売り払って広島町人に紛れ込んだ者がかなりいたという。人も物の広島の町を動き回った数年であった。
 
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 その後、明治に懸かって領内各地の農民が長い時代に積りに積もった諸不満を激しく吐き出す事件が起きた。いわゆる武一一揆である。この事件は県史、市史、各町村市など近世の歴史に触れた書物には必ず出てくるのだが、にもかかわらずよく解らない。

近世250余年、一揆は何度も起こったが、それまでのは目的がはっきりしていた。それが武一一揆では全く前例のない様々な不満、不安、要求が積み重なって各地から噴出したと言えるもののようである。多い少ないの差はあるが領内全部の農民の何%かは参加して打ち壊しなどの実力行使を行った。
この一揆で主に槍玉に挙がったのは権力の手先として働いた割庄屋や庄屋など村役人であった。特に打ち壊し件数の多かった地区は三次郡、恵蘇郡、三谿郡などで29〜21軒。次いで沼田郡が14軒。広島の町の場合は壊されたのは36軒で、うち、33軒が豪商の居宅であった。豪商の中には危険を感じて握り飯を多量に作って押しかける群衆に食わせたり、酒を振る舞って歓迎の態度を表したりして破壊を免れた者もあった。最後には広島の町に押しかけた領民数千に対して軍隊が発砲して追い払うことで決着がついた。

このあと暴徒として573名が逮捕され、9名が死罪となったのだが、この9名のうち最も重罪としてさらし首にされた山県郡有田村の武一郎は一揆に参加したのではない。彼のしたことは農民の困窮を軽減する為の具体的な方策を訴える建白書を書いたことで、そういう行動派ご政道を批判する不届至極−というものであった。
また、豊田郡本郷村の勘三郎も一揆に参加してはいない。彼の場合は農民に対して年貢を出す必要はないと言ったことだ。それは数年凶作が続き村民の苦渋を見兼ねて言った訳だが、与頭という村役人の身でありながら年貢納入の拒否を教唆・扇動した−との罪状によって絞首刑となったのである。

武一郎の建白書も、勘三郎の農民助成も筋としては割庄屋が行うべきことであるが、その割庄屋は完全に権力に懐柔され、その下の庄屋も多くはそれに従属していた。割庄屋・庄屋以外の方面から権力批判が出たことで慌てて口を塞いだ訳である。下から噴き上がった不満はやはり権力で抑えられ明治の時代へと移行した。
 
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 広島の町のことに帰る。
 明治4年は7月に「当藩以後広島県ト相唱候事」という廃藩置県が行われ、8月に一揆。10月には逮捕者が出て11月には処刑された。翌5年12月には暦も太陽暦に改められる。最後に旧暦時代の広島の町の夏の主な行事を記しておく。

 5月・川浚え(砂持加勢)
 6月・1日、正月餅をかい餅としたものを焙り食う。

   16日、翌日の宮島管弦祭に参加する為大勢が棹に灯りを掲げ、
       飾った船を連ねて本川から出発する(絵図参照)

   17日、夜、川へ出て汐を汲み持ち帰って飲む。

 7月・7日頃、井戸の水汲み干して新井とする。幼児は川に出て硯を洗う。

   14〜16日、材木町の家毎に家の前に形さまざまな灯を高く吊って見せる。

   15、6日、一本木の土手(白島)で踊り。
         陸上から数百年、数十艘の船の上からも見物する。

 七月・初めより「うら盆の踊り子かけ」といって幼女十数人を連れ団扇太鼓で唄い、
        町々を歩き家に入って踊る。

 これらの行事から、当時の町の人の暮らしと川との深いつながりが分かる。

(参考資料)
 『広島県史近代資料編』
 『新修広島市史』
 『山県郡巡り道中記』
 『知新集』
 『紀要第九号』
 『加計町史資料編』
 『地方社会の自己証明』
 『広島諸商仕入買物案内記』など
 
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