廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA

廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA (幸田光温)

 ◎六の巻 *真宗僧侶の見た広島の人と町* 2006年 6月 第62号

 
 今までの稿で近世の広島城下を訪れた他国の人が見た町の印象を二、三挙げた。他にもいくつか資料はあるが、それらを通して廣島が他国と比べて目立つことを箇条書きすれば、

 1、賑やかで人が多い。夜も人出がある。
 2、瓦屋根の家(民家)が多い。
 3、富裕な商家が目立ち、諸品が自由。
 4、土産物としてカキ、海苔、紙などの品質が良い。
 5、寺院が多い。

 次にマイナスのイメージとしては、

 6、物価が高い。
 7、人の言語はあまり上品でない。
 8、城の周囲(石垣や外側)が汚い。

 これらは主に18世紀後半から次第に目立ってきたと思われる。富裕な商人が増えるというのは逆にその陰には貧困層も増えていったであろう。また、寺の数は文政年間に町中の寺院総数113寺。内、真宗西本願寺派は32寺で、東本願寺派も含めると総数は30%になった。その他の宗派では、浄土宗が20寺。真言宗が17寺。曹洞宗16寺。日蓮宗12寺。と続く。特に廣島の三大寺と言われたのは

 「鳳来山国泰寺」曹洞宗(小町)
 「龍原山佛護寺」真宗西本願寺派(寺町)
 「紫雲山誓願時」浄土宗(材木町)

 の三寺である。なお佛護寺はその後明治41年に「本派本願寺派廣島別院」と改称されている。

 今回は天保3年(1832)に京都本山西本願寺からの使僧として派遣され、佛護寺に四カ月間滞在した東林という僧の手記から広島を取り出してみた。実はこの手記は本山への報告とか出版目的などではなく、自分の親しい友人への個人的なお知らせとして書いたものなので、他の誰の文より辛辣な批判があったり、率直に感じたことを述べているのでなかなかおもしろい。
 
 
 
◎「三業惑乱」(さんごうわくらん)

 東林の来広の時期は真宗の歴史で最大の争乱となった「三業惑乱」が決着して十数年後で、本山としては争乱に一方の旗頭的な活動をした安芸門徒のその後の様子を窺うという意図があったと思われる。そこでまずその争乱に触れておくべきだろうが、筆者は先祖が真宗門徒ではあったが自分は信仰心極劣で教理には全く無知である。葬儀の時に会場で参列者に経本を配られても、難解な字を拾って読む気になれない。これを翻訳して字幕で流してくれないかなと思うくらいである。でも、真宗は安芸門徒という人々を結束させ、広島を中心として安芸国の歴史を一方で動かして来たという見かたで言えば粗末にできないわけだ。

 まず「三業」という語を調べると、身業・口業・意業の三種のことで、真宗の根本となるこの三業の解釈を廻って論争が起こった。発端は1797年に本願寺派八代目の学林総長に就任した智洞という僧の唱えた新しい解釈が間違っているとクレームを付けたのが広島の僧侶であった。以後、他の国の僧たちの間でも新義派と旧義派とに別れて論戦が続き数年後には議論では済まなくなり暴動が起こる。このため幕府の寺社奉行が裁きを行って決着をつけるという他の宗派ではないような紛争となった。この時の広島の僧侶の旗頭になっていたのが可部勝円寺にいたことのある廓亮という僧侶であった。正確に言うとこの時の彼は広島に出て私塾を開いていた。また一般には彼の名は勝円寺住職になる以前の名である大瀛(だいえい)で知られている。
 

 
◎東林、佛護寺に驚く

 さてここで東林の出番である。彼は越後の高岡の僧であったが、仏学、漢学などで本山から高い評価を得ていたことが選ばれた理由のようだ。彼は初めて佛護寺に入ってみてその構えに驚いた。

 「堂宇広大、敷地も広く、松樹数十株、北に竹林あり、その中に棕櫚があ数百株あり。また垂絲桜45株、これらは大木にして枝垂れて地上に至る。玄関前に鉄蕉2株、甚だ高く北国にては見ること能わざるもの。」

 と、この寺の広壮さに感心している一方、人物批評としては、

 「十六代住職本順の内室は徳山藩主毛利大和守の息女とて、すこぶる姿色あり。人品高く凡下の者にあらず・・」と褒めている。その他の寺内の人物評を書いていないのは宿泊で世話になるから悪口は言えなかったのか?
 

 ◎広島藩士を酷評

 広島に来て二週間後に東林は城の門内に入り城郭の中を見物している。これは僧侶身分なるが故に許されたことだろうか。

 「天守五重にして甚だ高大。城また壮麗」と建物は褒めた一方で、
 「城内の藩士みな綿服にて帯剣等何れも廉物に見ゆ。僕徒・儀仗甚だ寒貧らし。馬はたいてい矮小なり。見るところの士みな商人の如く、武士の気象無きに似たり。一人として戦陣の用に立ちべきと思う者は見えず」

 と酷評したうえ更に門内の女性を見ても、

 「婦女もっとも醜く、絶えて目に可なる者はなし」

 と評している。

 この外に、城門の中のことではないが、広島の方言を評したところもある。

 この国にては『のう』という詞を多く使う。上・中・下の差別なく人と語るにみな『のうのう』という。上人に対して失礼なるように聞こゆ」

 この評は1783年に広島を通って「人物・言語は三備(備前・備中・備後)より劣る」と言った古河古松軒と同じところを見ているのだろう。
 
 

 
◎広島の僧徒批判

 安芸国真宗の中では大瀛という僧は親鸞聖人以来の人物と聞かされてきた。ある評伝によれば筒賀村の医者の家に生まれ、幼少にして四書五経を読み、10歳で剃髪、12歳で寺町報専坊の慧雲の塾に入り、18歳から師の慧雲に従って上京し仏法を講釈して廻って有名になった。本山の智洞の新義派に対したときには彼を中心にした真宗僧の基盤を守った。という風な見方がされている。しかし外側からの見っかたは元々そうでもないようだ。東林を派遣した本山では芸州は仏学・文事盛んで漢詩などを作る文人も少なくないが、人の心和せず党を結ぶことが多い。と見ていたようで、東林にもそうした先入観はあったようだ。

 「芸州の僧徒、和合の道破れてごうごうたる故に実なること聞き定めがたし。大瀛方・僧叡方・雲幢方、これら源は報専坊の慧雲の教えから出たものなれど、互いにその師をそしり、我を立てて門戸を張る。その門下の者また互いに争い、異を憎み、また同々相打ち異々相競う。秦は虎狼の国といえども今の芸僧等には及ばず。まことに阿修羅城というべきところ也。本山の威令といえどもこれをいかんともすべからず。」

 と、真宗のイメージを著しく損なうような酷評をしている。
 

 
◎三滝の薬草園のこと

 初めに佛護寺の植木などを褒めた東林は一月には日渉園と呼ぶ薬草園を訪れ大いに感動している。これは藩医であった後藤松aが藩主の命により1800年頃に開園したと言われている。三滝山の山腹にあった。

 「四面みな杉垣を廻らし大山の半分みな薬園なり。広きこと百四五十間四方もありと見ゆ。縦横に水の流れる溝を掘り、石橋、瀑布もあり。紅白の梅、黄金梅等の異種もあり、悟桐林、栗林、柿林、竹群、梨林などあり。石灯籠あり。登り降りして深山を行く如し」

 なお余談であるがこれより後二代目の松軒の代に幕政を批判したことにより追われていた高野長英を匿ったことでも知られている(日渉園は1871年に廃園となり現存しない)。
 

 
◎夜の市内を歩く

 12月29日、夜の街を歩いて驚いた。
 「市中灯を張り、家々夜店をひらく。城下の人多く出て見る。人の肩と肩相接したやすく歩くことを得ず。その賑やかなること京都祇園会の夜中のごとし。藩士ども家内の婦女を携えて、みな覆面して物を買う。植木店、金物、雑具、書物、食物、酒、醤油、鬢付、菓子、薬種、青物古道具、煙管店等一つとしてあらざるはなし」

 これは年末だから特に賑やかだったのか、年中こんな様子だったのかよく分からない。前に松江の医師桃節山が西遊日記に書いた夜の広島をとりあげたが、あれは7月だった。こちらは節山が来たのよりも25年も前のことだが、夜の町はあまり大差はなかったように思える。それにしても武士は覆面して買物をしなければならないのも不便だろうが、東林の目で見ればそんな侍ばかりだから戦陣の用に立たない、ということだろう。

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 この東林の手記は「泛登無隠」(はんとむいん)と題されており、この時代にこれほど権威筋を批判していれば、もし広く知られれば問題化しただろう。実際に佛護寺住職本順に一部を見せたら随分機嫌を損ねたと記されている。

(本稿参考資料『詩僧東林の広島紀行』広島市公文書館紀要14号。『三業惑乱』今田三哲。『真宗大辞典』。『新修広島市史』。より)

 絵は右から左へ続く、寺町を東から見た。右は佛護寺。左は報専坊(向こう側)。光福寺(中央)。浄専寺と続いている。1806年佐々木駿景画より。
 
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