廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA

廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA (幸田光温)

 ◎五の巻 *西国街道沿いの街並み* 2006年 5月 第61号

 
 西国街道(山陽道)は廣島の城下町が出来てから城下に取り入れられた。今回は当時の地図を持ってそれを歩いてみよう。

その前に地図の事だが、藩政時代に作られた『廣島城下絵図』は作られた侭で残っていることは稀なようで、後の時代に元の絵図が何枚か手書きで複写されて伝わっているが、それらが一つの絵図から出ても少し違いがあるとか、製作年代に疑問があるなどの問題も見られるようだ。

 例えば正保3年(1646)に牛田川には猿候川と京橋川との分流により川上にもうひとつ東側に分かれる川があったのを埋立て大須賀地区が造成されたと言われるが、その川の描かれた地図は寛永年間、福島時代のものだけで、元和5年(1619)「浅野氏御国入之砌御城下絵図」にはこの川が描かれていない。これは後の時代にこの絵図を筆写した人物が年代を誤記したものではないかといわれている(『概観広島市史』)。明らかに年代の分かる絵図が少ないと言える。また、城下町の様子を描いた絵はどうだろう。民家や人の暮らしを描いた絵を探してみよう。

 この稿で今までに『江山一覧図』や『本川川ざらえ砂持加勢』など絵・版画を紹介したが、砂持加勢はお祭りだから町の様子は殆どでていない。江山一覧は太田川の右岸を描いて河口まで下り、更に左岸を描いて上がった景色だから縦には見事に表され、民家や人々の生き生きした繁盛ぶりが分かる。但し横方向の西国道を交差する「猫屋橋」だけである。

 城下西国街道を描いた絵でよく知られているものとしては広島城天守閣に陳列されている『広島城下絵屏風』がある。六曲二双屏風に南から俯瞰した風景として猿候橋東詰から八丁堀まで(一双目)。平田屋町から天満橋まで(二双目)を描き、かつ西へ行くにつれ季節が移って西端の堺町は雪景色となるように描いている。西国街道沿いの街並み全容を描いた近世の絵としてはこれが唯一ではないかと思われる。

但し、東の端から西の橋まえ一里四丁の距離を画面に入れるために縦と横の比率を操作し、かなり消去したり変形させたりしてある。それでなくても旧来の日本画は写実とは離れた行き方であったのだから、気にせずに見ればあまり・・と思うのだが、やはり気になる点がいくつもある。

この絵には署名がなく、作者も年代も不明である。作者は上方のあまり流行らない画家で、実際は廣島に来たこともなく説明を聞いただけで描いたのではないか?
歴史の研究者の中には町筋や木戸の位置などから判断して1820頃だろうと言う人がいる。とすれば佐々木駿景の江山一覧図(1808)よりも後ということになる。駿景は西洋画の透視図法取り入れた写実で当時の店並を描いており、宮島管弦祭も加わっているが全体に町民の生き生きした情景が蘇る。それに比べるとこの屏風絵は元気がない上に疑問も多い。

 1.1820年頃の作だとしたら豪商の店舗が幾つもあったはずだがこの絵の商家は殆どが間口二間未満である。

 2.京橋町の道幅が異常に広いこと。また銀山町〜八丁堀の間だけ道が幾つかの鍵型になっているのはどうして?

 3.倒れかけているように見える家がある屋根の棟や軒の傾斜の度合いが一定でないため・・(図1)

 4.猫屋橋とその両岸の様子(図1)が57号の壱の巻に掲載した江山一覧図と同じ場所とは決して思えない。全く違う。

 まあ疑問を含んだ参考資料としていこう。
 
 
 
*描かれた猿候橋

 他に町の情景を描いた絵として『芸備孝義伝』の中に断片として見える。第三編に『大須賀村、新蔵』の事があり、挿絵に猿候橋が描かれている。この第三編は1843年に成立し山野舜峰斎が挿絵を描いたという来歴がはっきりしている。(図2)屏風絵にも見た方向は違うが猿候橋がある。しかし比較してみると孝義伝の絵の方は橋の東詰の民家が平入りなのに屏風絵の方は妻入りだし、橋の取りかかりの石垣が屏風絵の方は川が正面からぶつかるような角度となっている。これは実に不思議というほかない。

 ともあれ、この猿候橋を渡って町に入るのだが、ここへ来るまでに矢賀村の端の岩鼻と呼ぶ所を通る。廣島の入り口であり名物茶店の藤棚の下で休憩したり馬の世話をした。岩鼻から猿候橋までは八丁(800m)。木戸があって街に入る。絵にある松は明星院や東照宮方向につながる並木で東松原。(街を抜けた先の己斐の手前には西松原がある)
 

 
*『廣島町々道志る遍路圖』(図3)

 今まで述べた城下絵図はいずれも一部特定の人が見る為に描かれたもので、町人には縁のない地図である。ところが幕末1864年に幕府が長州藩を討つことを各藩に命じ、所謂征長軍が多数広島に入ってきた。広島藩ではこれら他の藩の下級藩士を町に泊める事となり、そお案内の為の地図が必要となった。そこで書店に刷らせたのがこれで、何枚刷ったのかは分からないが多分大勢の人への案内を目的とした広島地図はこれが最初であろう。城内は他藩には知られては困るので略して、そこに版元のメッセージが書いてある。曰く

 「あい色凡寺院、大川筋なお相洩れ候とも御容赦下さるべく候」「廣島町々道しるべ略図」「この外町々数多く有りといえども悉く町名しるしがたし、依って之を略す」

 藍色で寺院と川を、黄色で家並みを、黒で町名や説明を、三度刷りにしてある。
 

 それではこの地図を持って西国街道を通ってみよう。

猿候橋より東野ガラガラ橋から描いてある。尾長の小竹で編んだ橋で、ガラガラなる所から名がついたとも言われる。東愛宕町−西愛宕町−猿候橋町。渡って京橋町。京橋を渡って橋本町−岩見屋町を左に折れて南下し、山口町−銀山町。ここで再び西に向かうのだが、これが二筋ある。早く折れると東引御堂町−胡町の筋。その南側を折れるとちぎや町−堀川町の筋になる。これは時代によってどちらかがメインだったか替わっているいるようだ。(屏風絵がここの筋を段違えに描いているのは或いはそんな含みがあるのかもしれない。)

 次に、八丁堀から続く平田屋川に架かる平田屋橋を渡り、平田屋橋−播磨屋町−革屋町−東横町−西横町と今の本通り筋である。ここで本安川(現在の元安川)を渡り、鍵型の道筋の中島本町を経て本川の猫屋橋を渡る。塚本町から堺町1−2−3−4丁目と歩いて天満川を渡る。天満町に西の木戸がある。猿候橋からこの天満町までが一里四丁(4400m)、それより西は川添村から己斐まで400mの中に西松原がある。

 天満町は小屋町と呼ばれていたが火災に遭ってから縁起を担いで改名した。当時は他にも愛宕町なども縁起改名である。

 この地図、現在との大きな違い色々あろうが町名は別として、二三上げてみると、川が先ずある。横川の先が随分広がっている。これはやや極端だが、ここは広瀬川とも呼ばれていた。広瀬神社を祀る人瀬組の地域を流れる事からで、天満川・川添川・己斐川に分かれる広さがあり、この川だけで船の数62艘もあった(『芸藩通志』)。水も最もきれいだったという。

 また中央から下に二本の堀川がある。広島城造成時に貨物運搬用に掘ったと言われる平田屋川と西塔川(せいとう)である。この地図には西塔川の方はたんに堀川としてある。西堂川と書いたものもある。19世紀初めの文政年間西塔川には21艘の船が川及び近海を廻って活動していた。

 その後交通機関が開発されてくるとこの堀は不用となり遂に西塔川の方は明治末年に埋立てられて電車道となった。この堀川には高巌橋・高基橋・眞薦橋・鷹野橋と5つの橋があった。高巌橋は18世紀に火災で焼失し以後4つになり埋立でなくなった。そのうちの西塔橋は屋根のある橋として有名であった(現在の袋町電停のあたり)。また鷹野橋は名前だけ当時の位置に残っている。

 平田屋川の方は大正4年に埋立てられた。現在の並木通りである。

 なお、天満町には西の番所がありやや高くなっていて俗に「ぼうばな」と呼ばれた。また堺町3丁目から北に折れると十日市町−西引御堂町−西寺町と続いて木戸があり、横川橋を渡って吉田街道となる。
 
 
 
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