廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA

廣嶋◇廣島◇広島◇ひろしま◇ヒロシマ◇HIROSHIMA (幸田光温)

 ◎四の巻 *町民の祭り* 2006年 3月 第59号

 
 舟運のあるところでは船が安全に通る幅と深さに澪(みお)を確保する必要がある。中流域では「川掘り」と呼び、各船組が相談して受け持ち区間を掘る。年に数回である。下流の汽水域は大量の砂が流されてくるので砂川と呼び専門に掘る人がいる。彼は常に出ていて砂を掘り、細竹を立て船道を示す。砂川は流水量、風向き、潮の具合などでこの澪が常に変わる。砂川の川掘り人だけは専門職人なので先に袋のついた柄の長い道具を突き出して通る船から2銭くらいの駄賃を取っていた。
 
 しかし町に入ってから、「町川」と呼ばれる川域では海から上がってくる船もあり、大量の砂を掘るのは大仕事である。船を持っている武士や一部の商人が人を雇って掘るのでなく、これは川の恩恵を受けている町民全体の仕事と位置付けて各町に共同での川ざらえを課した。これはおそらくは城下町の形成以後程なくからの事であろうが、武士の権力による統制が破綻してゆく過程の中で、ぱっと派手に騒いでうっぷんを発散しようという人々には格好の材料となった。

 文久2年(1862)の「本川川ざらへ町中砂持加勢」の行事は各町様々な出し物で練り歩く町民祭りとなり、5月7日から10町ずつ順番に出場し、14日以後はさらに新開地の村や近郊の数か村も出て来て20日過ぎまで続いた。その様子は瓦版で報道され、各町の演出の評定まで行われた。この瓦版は広島城博物館の展示室に引き伸ばし展示されているので絵は見ることができるのだが、説明文から当時の文化を掘り出してみると意外な所に、へぇ〜、と感じるものがある。

 なお瓦版はおそらく幾つかの版元が出したであろうが、ここに残るのは広島市立中央図書館蔵の播磨屋町井筒屋書林の版である。

 まず紙面右肩の『町中砂持加勢圖』の下に次のような断り書きがある。

 「町中の加勢毎日十町余つつ屋台作りあるく幟の結構に手をつくし噺し手踊り着付衣装等いづれ劣らぬ好みのこしらえ中々委しくは書きつくしがたく、其のあらましを記すといへども元来板元の見聞に随ひ図にとり彫かかり候、間違ひあらば許し給へ追て再吟味して出すべし(中略)猶もれたる町内は早々板元へ御申越下さるべき様願い上奉り候」

 見て来て描いて彫って摺るのだから見落としも間違いもあったことだろう。

 どの町も面白いが紙面の都合で堀川町、天神町、堺町一丁目、中島本町、白島東町の五町を取り出した。その説明文は読み難いので現代の文字に換えて以下に列記しておく。
 
1、堀川町
 前作りもの、ほうらい亀(蓬莱亀)
 踊り子、好みの衣装。若手、漁師のこしらえ。ヒフクリンの襦袢、ビロウド切り抜きの肩掛け揃え、50人。首振役者、手踊り。後作りもの「船」。若手船頭揃え80人、おのおの惣はやし。引き屋台。

2、天神町南組
 つくりもの、大象。引き屋台、惣はやし。おはらい傘もち。若手、住吉踊り、90人。子供そろえ、惣人数150人。

3、堺町一丁目
 作り物、大柳たる。次に大鯛(四間長さ)引き手、子供、紫はかま、かりぎぬ50人、はやし提屋台、女の子、10人。若手、踊り50人。ちりめん揃え。

4、中島本町
 作り物、花生け。ぼたん、藤。
 引き屋台、若手・子供、ヒフクリンじゅばんゆかた。しゅすの足具。
 砂持ち踊り、都合100人ばかり。
 はやし方、美人揃え。

5、白島東町
 作り物、銀の獅子頭。長さ三間、幅九尺、大ダンツウにて包む。
 子供、花笠。好みの衣装、50人。
 引き屋台、惣はやし。若手、砂持ち踊り。 

 このように各町の出し物、扮装、人数など簡単に列記している。出し物は町々多彩で、橋本町「弁慶と牛若」。研屋町「滝に鯉」。細工町「竜宮・宝珠・魚」。新川場町「鵜と鵜飼装束」。胡町「恵比寿大黒と酒壺と猖じょう」。平田屋町「俵藤太と大ムカデ」。鍛冶屋町「安珍清姫と釣鐘」。立町「生きた牛と草取り装束の子供大勢」。猿猴橋町「ゑんこう百人踊り」。十日市町「七福神」。竹屋町「子供の虎百十人・若手の虎百人余」猿楽町「大桃・若手と子供三百人猿の出立」その他様々。
殆ど同じ出し物がないのは或いは事前に他町の様子を聞いたのか?天神町の大象はこれより30数年前に草津で見世物があり、象、駱駝、虎などが来たことがあるので当時の人々には記憶に残っていたのだろう。

 作り物は台に車を付けて引くものと提げ台とがあり、衣装を着けた大勢で動かす。またその前後に揃いの衣装の踊り子が並ぶ。

 各町が屋台の作り以上にこだわっているのがヒフクリンとか、ビロウドとか、シュスとか衣装の材質である。白島東町にはダンツウというのもある。各町の先頭に立つ町名を掲げた幟にもラシャとかヒラシャとか書いてある。頭に「ヒ」があるのは「緋色」であろうがこれらは言わば舶来の布地で当時の人々には強い関心があったものと思われる。辞書で探してみると何れも当て字が出来ている。

▽「襦袢」
 ポルトガル語「ジバン」の当て字で肌につける単衣。

▽「羅沙」
 ポルトガル語「ラシャ」羊毛で地の厚く密な毛織物。

▽「服綸」
 オランダ語「ゴロフクリン」「呉絽服綸」を略して江戸でゴロ、上方でフクリンと呼んだ。羊毛その他の粗剛な毛で織った。明治以後にはオランダからもっと細く柔らかい毛織物も輸入され、それもフクリンと呼んだらしい。詳細は服飾専門家に聞いてみたい。

▽「緞通」(ダンツウ)
 中国から来た厚い敷物用の織物で、種々の折込糸を用いて模様をつける。「毯子」(タンツ)という中国語の当て字らしい。

▽「襦子」(シュス)
 中世末に中国から入った技法で上方の職人が作り始めたもの。綿も毛もあり、滑らかで光沢がある。

 この図の説明文にはこれらの名称が多くはカタカナ、ひらがなで書いてあるのは画数が多いからかもしれない。舶来でも衣偏の当て字にしてあると国産のように思ってしまう。これらの織物が当時の人々に注目され、渇望されていたことは伺える。

 各町の参加人数は100人未満は少なく、2〜300人の町もあり1日10町が出ると1500〜2000人の人が練り歩き、見物人も加わって大賑わいであったろう。そしてこれは侍の時代の終わりを意味するものでもあった。
 
 
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