|
|
|
|
|
|
|
蒸気饅頭ってなあに?
なぜ安芸太田だけなのか…
〜謎を解明する吉尾耕治さん〜 |
2008年 5月 第85号 |
|
中国自動車道の戸河内ICの周辺は「道の駅」がにぎわい、三段峡など太田川上流を訪れるほとんどの人々が車を停め休む場所になっています。立ち並ぶ売店の片隅に田舎名物「蒸気饅頭」の看板を掲げる小さな店が目に付きます。
「蒸気饅頭ってなあに?」
安芸太田町のお年寄りに聞けば「子供の頃から祭りの屋台で焼いていてよう買って食べたもんじゃ」と答えが返ってくるでしょう。その本体は「たい焼き」と同じ。形が軍艦(1個100円)です。中身は餡とクリームの2種類。お店を出しているのは安芸太田町上殿にすむ藤本喜代一さん。土・日曜に開いています。
「蒸気饅頭」の由来を尋ねると「ようわからんが、日露戦争に勝ったことに関係していると聞いているが…」という話。そもそもの由来を調べた人がいるというので戸河内・土居にその人、吉尾耕治さんを訪ねお話をうかがいました。 (取材・篠原一郎)
|
|
吉尾耕治さん(53)は「薫風窯」を名乗る焼き物で神楽人形や花瓶などを作製する陶芸家。自ら販売するほか、地元の土産店に卸しています。旧戸河内町で生まれ、立命館大学で東洋史(近代中国史)を学び卒業後、帰郷。家業を継いで現在の仕事を続けています。
なぜ蒸気饅頭の由来を調べたのか動機をうかがうと「なんとなく興味があり、なぜここにだけ伝わるのか謎を解明できれば」と、歴史専門の人らしい答えでした。以下は吉尾さんのお話です。
安芸太田は蒸気饅頭文化圏
祭りの時とか、何かのイベントで食べる以外普段は食べないのであまり話題にならないけど、昭和30〜40年代には戸河内、加計、筒賀の各町村で2〜3軒ずつ蒸気饅頭を焼く家がありました。11月の加計の「五サー市」では、今でもグループや個人で4〜5つの店が開きます。
ところが、いろいろ調べると安芸太田町以外の周りの他町の商工会の人や教育委員会に聞いても全く知らないし、見たことも聞いたこともないというのです。これは安芸太田町にしかない。ここに限って「蒸気饅頭文化圏」が形成されていたということです。
いつ頃からこの地域で食べるようになったのか?
昭和10年ごろ「猪山」で焼いている風景を撮影した写真が町史編纂室に残っていたのと、知り合いの増谷芳五郎さんという84歳になるおじいさんが小学校の頃、打梨の市で親に買ってもらって食べた記憶があるというので、昭和の初めごろには定着していたことは確かなんです。
インターネットの検索でも調べる内に山口県の萩市を中心に今も売っていることが浮び上がり、萩まででかけました。もう3〜4年前のことです。「蒸気饅頭」を探して萩まで行くなど思いもよらないことでしたが結構楽しい旅でした。萩周辺では阿武町の道の駅と萩の道の駅「シーマート」で売っていました。阿武町では「蒸気船饅頭」という名前でおばあさんが1個ずつ炭火で焼いていて、お客さんが次々来てよく売れている様子でした。萩の道の駅ではたい焼きのように6個分か連なった器具で焼き(1個100円)ます。量を売るのには、これでないとできないそうでした。
日露戦争の露軍艦が由来?
萩史料館の人の紹介で60年間蒸気饅頭を焼いていた岡村茂作さん(当時83歳)に話をきくことができました。岡村さんによれば昔は縁日などに10〜20軒の店が出ていたそうです。また100歳になる人から子供の頃からあったと聞いたことがあるそうなので、おそらく明治時代からあったと思われます。いずれにしても萩では昔から定着した郷土の食べ物として人々に親しまれていたようで、蒸気饅頭は、萩から安芸太田町に伝わったと考えてよいでしょう。
その後も続いて調べたのですが、萩で伝えられているその由来をまとめると、日露戦争の時の日本海海戦で萩沖にロシアの軍艦が出現し、それを焼いて食ってしまえということと、日露戦争に勝利したことで誕生したという話(萩では「軍艦焼き」ともいう)や、幕末に黒船(蒸気船)がやって来て、当時の攘夷的な雰囲気の中で外国船を食ってやれというので作られたというような説が言い伝えとしてあるようです。いずれも文献として残っているものはなく確証はつかめません。
日露戦争の時、萩では日本海で軍艦が大砲で打ち合う音が聞こえ、遭難した外国人が泳ぎ着いたということはあったようですが、蒸気饅頭には日の丸の旗がついているので、外国の軍艦を食ってしまえというのとは一致しない。まあ、その後の殖産興業=軍備増強の世の流れの中で日本の軍艦に代わってしまったのかもしれません。
イベントでは4〜5団体出店
1960年ごろ書かれた萩市の史料に明治のころに岡山の人が店を借りて蒸気饅頭を焼きだしたという記録が数行書かれているのが唯一の史料と思われます。
それにしても、なぜ萩から広島の山の中に?
江戸末期からたたら製鉄のつながりはいくつかあるものの、別ルートがあって萩から伝わった様には見えません。
日露戦争のことで考えると、有名な旅順攻略の203高地の戦いで、戸河内の打梨、那須筋の木だしの仕事をしていた人が参戦していて、大砲を山の上に上げるのに木だしの技術が役に立つたというので「金鵄(きんし)勲章」をもらっているんです。当時としては名誉なことで地元でも戦勝機運の盛り上がりの中で蒸気饅頭を関係付けて焼いたのでは、というような推測なんかもしてみるのですが…。まだまだ、疑問が残ります。ここから先はもっと本気になって調べないとね・…
今でも、安芸太田町では藤本さんと他に筒賀のお好み焼き屋「あまんど」が焼いているほかは、イベントがあれば、4〜5団体が出店し、昔懐かしい雰囲気を盛り上げています。最近、加計の町で行列のできるたい焼きで評判になっている「よしお」たい焼き店も昭和45年創業の時には「蒸気饅頭」にしようかと考えたそうですよ。
|
|
|
|
|
|
|
|
|