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連載 環境問題の羅針盤Y 藤井 直紀
2008年 6月 第86号
【今日は雨?】
今年も梅雨の季節がやってきた。出勤・通学するとき、洗濯物を干すとき、あるいは外に遊びに行くときには、どうしても天気予報を確認してしまう。ひと昔は、テレビやラジオ、新聞の記事などを見て確認していた。お天気番組を見過ごしたときはなんとショックだったことか。今では、パソコンや携帯電話でネットに接続して簡単に見られるようになったし、テレビでもデジタル放送はボタンをピッピッピッと押すだけで天気予報ぐらいならどこのテレビ局でも見られる。便利になったものである。
天気の情報はいつでも見られるようになったとはいえ、予報が当たっているかと言われると、なかなかイエスとは答えられない。昔に比べて当たっているかと言われても「どうだろう。」と答えてしまいそうだ。というのもここ最近、私は天気予報に裏切られ続けているからだ(苦笑)
何故、天気予報は当たらないのか。実は、これは現代の科学の「特性」ともいえる。
【得意なことと不得意なこと】
雪の学者であった中谷宇吉郎氏(1900〜1962)は、著書「科学の方法」の中で科学にとって取り扱い安い問題とそうでない問題を挙げている。それを次のように表現している。
「再現可能性の様相が強くて、再現されない要素が少し効いている問題は、取り扱い易いが、その反対の場合は、なかなか扱えないのである。」
彼の著書の中ではもう少し具体例が挙げてある。それは鉄球と紙の落下の予測だ。地球上でモノを落下させるときに考慮するのが、重力と空気抵抗だ。重力とはモノを地球に引きつける力であり、おそらくそれを表現した法則(数式)は中学校や高校の教科書に出てきたはずだ。一方、空気抵抗の方はたいていの場合「今回は〜とする。」というような文章の端っこに出てくるような存在だ。おそらく、空気抵抗を表現した法則(数式)なんて教科書には出てこなかつただろう(私か覚えていないだけか?高校までは物理学に強かったんだけれど・・・)。実際、空気抵抗を表すことは難しい。空気の温度、湿度、気圧が変われば、抵抗も変わる。表現できなくはないだろうが、非常に難解になりそうだ。
さて、話を戻すが、鉄球の落下を予測するのと、紙の落下を予測するのとではどちらがやりやすいだろうか。鉄球の場合、スト〜ンと落下していく。つまり空気抵抗よりも重力の影響の方が勝る。法則は教科書に出てくる程度だし、予測できそうな気がしてくる。一方紙の場合、ピラピラとゆっくり落下していく。空気抵抗の影響を結構うけていそうである。さて、空気抵抗はどうやって表すんだっけ・・・・。なんだか難しそうである。
実際難しい。なぜなら、紙を落とした場合、毎回異なった落ち方をする。同じ落ち方なんておそらく二度とない。一方、鉄の落下はほぼ再現できる。中谷宇吉郎氏が指摘しているのがまさにそれである。
前回までに科学とは、統計学を用いて比較することを手法としていると説いた。つまり、関係性があることを見つけ出しているのが科学なので、再現性がない事象だと、なかなか科学としては不得意な分野だと言わざるを得ない。
気象も実は「空気抵抗」の例のように関係する要素が多い。どれか一つの要素が強ければ科学の得意とするところとなるのだが、そうは問屋が卸さない。
「不得意なことは克服したい」
『科学』としては、不得意な分野が出来ることが非常に「くやしいです!」(お笑いコンビ『ザブングル』風)といった感じだ。そこで、この再現性がない、予測不能な振る舞いがなんで起きるのか、その再現性のなさにはなにか法則があるのか、それを予測できないのか、というようなことを追求する人々が現れ始めた。「カオス」という言葉があるのをご存じだろうか。カオスを辞書で引けば「混沌、混乱、無秩序」といったような言葉が出てくる。まさにそういう言葉が当てはまるような現象のことを指す。
カオスという事象は、現在様々なところに登場する。経済の中でも、生態学のなかでも、気象のなかでも。ただし、天気予報を見る限り、やっぱりまだ我々はこの事象をまだきちんと科学として翻訳出来ていないような気がする。(なんてことを書くと、カオス理論研究者に怒られるだろうか)
【半年の連載を振り返って】
「環境の年(サミットの年)」ということで、この連載をはじめたのだが(えっ、ホントか?)、はやくも半年が経過した。環・太田川の読者は「環境問題」に興味を持っている方が多いので、毎回ドキドキしながら書いている。毎回懲りずに「自分の行動を振り返ってご覧なさい」なんて生意気なことを”若造”が言っているのだからそれもそうだろう。これまでの六編を読み返してみると、私の心を写しているかのように乱文である。
本連載は(偏った?)私見(藤井的見解)が目につく。実のところ、反論がたくさん来るだろうと覚悟していた。と言うよりも、議論出来ることを期待していた。しかし、実際には驚くほど読者から反応は返ってこなかった。文章が硬すぎて読んでいられないのか、あるいは静観されているのか。きつい言葉で書いてしまえば「無視」されているのか、それは私には解らない。
今月号発行前に編集部からこの連載の感想が投稿されたので、「読者のページ」に掲載したいとの連絡を頂いた。「感想」についてのコメントがしたかったので先に掲載内容を拝見した(本号読者のページを参照)。私か書いた投げかけである「環境とつけばなんでもするのではなく、まず一呼吸を」といったようなことを理解していただけてちょっとぼっとしている。
再度確認しておきたいのだが、本連載は、「活動を辞めなさい」と言っているわけではない。自らがしている行動をしっかりと理解すべきだと主張しているのである。
前々号で書いたように、「自然への理解」は新しい発見により変わりうる。それはどの「環境問題」にも当てはまることだ。もし、新しい発見によって自分の行動が間違っていたとき、果たして皆さんはどういう行動を取るだろうか。国や県、市に「無駄な政策をした」とか、「踊らされた」と責め立てるのだろうか。内容や理由も理解せず責めるというのは、それはちょっとお門違いじゃないかと私は思う。
「しっているだけじゃ、もうすまされない」といった言葉がテレビやラジオで流れるように、我々は「環境変化が急速に進んでいる」と考え、急いで何かをしようとしている。つまり「急務だ」と感じているわけだ。それをその時点での科学的知見に基づいて(というよりは科学的知見に基づいたとされる情報を基にご確からしい’活動をしている。急務だと考えている以上、何もしないわけにはいかないだろう。だから、世界も、国も、県も、市も、急いで政策するのである。しかし、科学にも翻訳限界がある以上、自然の方向性が我々が予測したのとは違う解った時点で政策も変更せざるを得ない。それを責め立てるのは可哀想過ぎるのではないかという気もしなくはない。
お役人の肩を持つわけではないが、彼らも「科学の見解」を自分なりに解釈して政策している。それを住民に提案している。そこから我々は何をすべきか考えるわけだが、実際の行動ってやはり自己責任だと私は考える。「読者のページ」に感想をくださった方はそのあたりに賛同していただけたのだと理解している。
「環境問題」つて純粋な気持ちだけでは政策出来ない。社会的要請という背景もあったりする。政策が自分たちの「生活(もっときつく言えば生死)」に関わってくることもある。それとは別に、「利権」構造に絡められていることもある。最近よく取り上げられるのが「バイオ燃料」。食糧問題が危機的状況なのに、お金になる「バイオ燃料」にしようとする動きがある。本当にこんなことでいいのだろうか。
このように複雑な問題がこの「環境問題」である。テレビで放映されている感動エコ番組っていうわけにはいかないのである。その点を表現するのがこの連戯なのだが、なかなか難しい。
さて次回は、何を語ろう
まだまだつづく!
◆「環・太田川」を愛読している広島市民です。今年から連載が始まった藤井直紀さんの「環境問題の羅針盤」は、内容が濃く、毎回読むたびに目から鱗の思いを昧わっております。記事で指摘されていることで、これまで熱心に、耳を傾け、傾倒してみていた新聞、ラジオ、テレビで報道される環境報道の真実が透けて見えてきたように思えます。
最近のマスメディアの環境報道姿勢は、根拠が希薄な事象を誇大に取り上げ、悪戯に架空の危機を煽るばかりで、市民を事実誤認に導き混乱に陥れていること藤井さんの記事を読み、気づかされました。
私はこれまで、広島市の環境問題に関する報道や指導を全面的に信じ、環境家計簿、CO2削減行動、レジ袋削減や、ゴミ分別等のリサイクル推進運動には積極的に参加し盲目的に取り組んでおりました。藤井さんのレポートで、広島市が示す根拠の軽薄さに気づかされました。また、これまで見えていなかった背景があることも知り、早速、無駄な努力はやめました。そうしたら、何と気楽になったことか!これからは効率優先を心がけ、もっと統計的な見方を重んじ、無駄なことには取り組まないようにします。社会の真実を見抜く方法を教えていただけることを期待しております。
「環・太田川」 一愛読者より
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