生態系・里山・里海


昔いた魚が帰ってくる太田川の環境を!

第1回「住民の意見を聴く会」から


 2007年11月 第79号

 今後20〜30年間の太田川整備計画を作るための第1回「住民の意見を聴く会」は10月4日〜7日、広島市西区、東区、安芸太田町の3会場で行われ、全部で8人の方々が意見発表しました。平成9年の河川法改正によって、環境保全の大切さが強調され、これからの河川整備は、それまでの利水、治水に加えて、環境と3つの目標を目指すことになり、法改正から10年たった今、環境保全を考える要点は、河川における生物多様性をいかに守るか、ということに焦点がしぼられています。
今回、合わせて行われた住民アンケート調査(3171人回答)でも「太田川の環境をよくするために必要なこと」という問いに、{多くの生物が生息できる川にすること」をあげた人が、約70%をしめ、第1位です。
そこで、本誌では3会場で意見陳述された方の中から「川の生き物」について意見を述べた2人の方を訪ねてお話をうかがいました。(取材・岩本有司、篠原一郎)



「未来を見すえ、地域の実情に合った整備を!」
   太田川上流漁協監査 小坂 信博さん(70)

 安芸太田町の会場で意見をのべた、小坂さんは70歳、加計町殿賀の太田川河畔に生まれ、太田川上流の川の自然と人の関わりについて様々なドラマを見つめてきました。その経験の上に立って、これまでの河川の改修は「太田川から生き物を追放する歴史であった」と総括。「これからは生き物のことを考え、河川整備の理念を再構築する必要がある」というのが小坂さんの主張です。



太田川の魚と共に育った

 小坂さんと太田川との付き合いの記憶は3歳の頃から。「父親のアユ釣りに一緒についていき、現在の殿賀大橋付近の堤防から水量の豊かな川を眺め、連なった筏を船頭さんが竿でうまく操りながら下流へと向かう姿や、近くに大きなスモモの木があり、川に向かって枝を伸ばし、その下をハヤが群れて泳いでいく、太田川の素晴らしい原風景が記憶にある」といいます。

 両親とも小学校の教員という家庭に育ち、父親の転勤で各地を転々し、夏休みには殿賀に帰って川に親しむ毎日。「親がやかましく色々と言うので、便所に行くと行って外に出て、そのまま川に駆けていき、結局、夕方まで遊んで帰ると言う事をやっていた。よく遊んでいた沼と水路には、ウナギやギギなど、沢山の生物が住んでいた。手づかみでハエを捕り、ゴリ(ヨシノボリ)やドジョウを餌にした穴釣りという手法でよくウナギを仕留めた。本当に楽しい思い出を、いっぱいもらった」と、冗談交じりで活き活きと語られます。特に今の中国自動車道の戸河内インターの一帯は、もとは沼地でウナギやハヤなどがうようよしていたということです。

太田川上流一帯はホームグラウンド

 ご自身も広島大学教育学部を卒業後、小学校の教師になり山県郡各地の小学校に勤務。10年前に地元の殿賀小学校の校長を最後に定年退職。そんな経歴から、太田川上流の支流源流域は小坂さんのホームグラウンド。今大規模林道問題にゆれる細見谷周辺もよく知っているということです。定年退職後は色々な地元の組織の世話をされ、忙しい毎日。それでも時間を見つけては川に出て、釣りをして魚を捕ったり、つけ針やはえなわ、ウナギかごなどを用いてウナギを仕留めているそうです。また家の庭にある堀池には、メダカ、コイ、マス、ドジョウ、アマゴ、オイカワなどの淡水魚を飼って餌をやる毎日です。



高瀬堰で稚アユは太田川に見切りをつけた

 小坂さんはこれまでの太田川の河川の歴史を年表にして、ダムや発電所が出来ることと、人と川の関わりがどう変わったか? また、生き物がどう変化したか?川の周辺の人々からの聞き取りによる話を記録しています。

 太田川最初の発電所、亀山発電所が出来る1910年当時、可部町、中原村、亀山村のアユの漁獲は1年で4900貫(約18t)も採れたという記録があります。

 その後、間の平、加計、立岩など次々と発電所がつくられ、1935(昭和10)年王泊ダムが出来た頃に川の水量が減って川船、筏流しが困難になり、戦後、昭和20年代には、太田川上流最大の附地のヤナ(簗)が消滅しました。また昭和26年に太田川上流漁協が発足、このころからアユの放流が始まりました。そして、1975(昭和50)年高瀬堰が完成、年表の記録には「稚アユたちが太田川に見切りをつけ始めたのはこの前後のことであろう」と記されています。この時の天然アユの遡上率は20%です。(太田川河川事務所、刊行「太田川史」より)今は太田川上流では放流アユを捕獲するだけ、天然アユはほとんど見られません。

 最近では冷水病にかかるアユが多く、漁獲量も減っています。特に2000年に入って温井ダムが出来て、その下流数キロのアユの成長が悪くなり、小さい上、取れなくなっています。「こうしたこれまでの河川利用の歩みは太田川から生き物を追放する歴史だった」と小坂さんは言います。

魚道で帰ってきたサツキマス

 しかし「よいこともあったんです。それは魚道が整備されて、サツキマスが取れるようになったこと、2000年以降は建て網で多く取れるようになった、最近でも年に5〜6尾はコンスタントに捕れる」といいます。太田川は平成4年3月、「魚がのぼりやすい川づくり推進モデル河川」に指定され、全部で18箇所で魚道の設置や改善を行いました。今、「殿賀から少し下流の上原堰堤で魚道がめげて、改修工事をやっているが、それから上流は今、サツキマスは全くとれないから明らかに魚道を登っていることは確か、しかし、毛がに、ウナギ、エビ、アユは帰ってこない」ということです。

地元と共に科学的調査に基づく整備を!

 「川は、人間にとっても魚にとっても元気の源であり、命そのものなのだ」と小坂さんはいいます。「しかし、その上に立って、この太田川が果す役割や腦境整備のあり方は、地域によって川との関わり合いや川に求めるニーズは異なる。これからの太田川の整備は、源流域、上流、中流、下流それぞれの地域の実情に応じた整備が考えられなくてはならない」というのが小坂さんの主張です。

 そしてその方法としては、一昨年から、温井ダムが完成後の滝山川の水量について、夏の間1日30トンの放流効果などを、中心に「滝山川さかな研究調査会」が発足したことを具体的な例に、「あの研究会のように、地元の漁業関係者や、国交省、学識経験者と中国電力の人々が集まって、科学的に具体的に研究を積み上げ具体的に整備の方向を検討することが大切だ」と語ります。

 温井ダムについていえば、「ダムが出来て滝山川でアユが採れなくなった。その延長で本流もダメじやと」嘆いているばかりではどうにもならない。「具体的に科学的に調査、研究して今後の整備を考えることが一番大切なことだ」というのが、小坂さんの結論です。

 そして「政策決定に当っては川の歴史に学び、過去を語るものは未来に責任を持つ心構えでやってほしい、国交省の方々にはそういう姿勢を強く要望したい」と太田川に寄せる熱い気持ちを語ってくださいました。
 

「太田川川岸にワンド(湾処)を造ろう」
  古川ファンクラブ、ひろしま自然の会会員 関本 利明さん(56)

 関本さんの意見は「川の岸にワンド(湾処=入り江の池)を造成、昔いた淡水魚を増やし子供達が親しめる魚釣り場を作ろう」というもの。東区戸坂公民館会場に太田川の支流、古川に棲む7種類(ムギツク、メダカ、ウキゴリ、ドジョウ、ギンブナ、ミズカマキリ、ヌマエビ)の魚を入れた水槽を持ち込んで、先ず意見発表の第1声は「今日は私の古い友達を連れてきました」と7種類の魚を紹介、一際傍聴者の注目を集めました。



 関本さんの親しむ川は安佐南区の西原と東原の間を流れる古川。古川は、高瀬堰右岸に流れを発し途中、西側からの安川と合流、安芸大橋の下流で太田川にそそぐ全長6・1qの太田川の支流です。このうち関本さんの活動の場は、安川の合流点から下流の2〜3キロの流れ。家から歩いて2〜3分の古川で魚を採って遊んで育ち、小学生の頃には古川にいる魚はすべて友達になり名前が全部言えるほど熱中したそうです。

淡水魚 23種類が10種類に

 そして現在も、自宅の庭の池や水槽に常時7〜8種類の魚は飼っています。関本さんによると昭和30年代、古川には淡水魚は23種類いました。昭和40〜50年代に川の周辺が住宅地になって、家庭排水が川に流れ込み、昭和57年ごろには古川は広島県で汚れた川のワースト3に入るほど汚れました。その後下水の整備で大分きれいになりましたが、「この間で23種類の淡水魚のうち10種類がいなくなりました。このうちムギツク、アブラボテは帰ってきて今はいますが、小学生の頃沢山いて私の本当の友達だったイトモロコ、モツゴは帰ってきません。これらは水溜りを棲家にしているから、いまはそれがないので褄めないということです。これからも種がいないから帰ってこないでしょう」と語ります。

魚の隠れ処づくり

 関本さんによると、川に魚が棲む条件は3つ。@水質A水の量B川の構造(魚の隠れ処がある)が必要です。今の太田川や古川の水質は大分よくなったが、水は少ないし、川の構造は魚の隠れ処がない。それを解決するのが今回提案した「太田川の川岸にワンド(湾処)=入り江の池を造ることだといいます。「湾処をつくれば、水をストックして量が確保できる。底には水草が生えてその中に隠れ処ができてくる、上には木が生いって影ができ、そこに魚がかくれるという構造、それは場所を選んで池を掘れば自然にそういう形になるんです」と語ります。

 現在、このあたりの太田川の水量は、最も下流にある2つの発電所(太田川発電所、可部発電所)の放流時間によって1日の水深の差が50cmぐらいできてしまうということです。水量が少ない中で、魚にとってこの50cmの差はかなり過酷なものだという。それに夏、水温が高い時は魚は水が流れる所を泳いでいるが、冬水温5度以下になると魚は泳がず流れを避けて活動しなくなる。水を溜めたところを造れば水量は確保できるし、冬過ごせる場にもなるということです。

 「具体的に考えると、高瀬堰の右岸の下流に木が茂った小規模の雑木林のような所がある、そこを重機のバックフォーで掘ればすぐ水が溜まり池が出来ます。今アユ釣りの船着き場の入り江がありますが、それを大規模にしたものをイメージすればいいと思います。水深を2mぐらいにして中にコンクリートの漁礁をいれる。そして周囲は木杭を打って護岸をつくり道路をはり巡らせて、釣りができるようにするんです、費用もそんなにかからずにできます。大水が来たら流れてしまうでしょうが、また造ればよいのです」

 このような湾処を高瀬堰と安佐大橋の間の潅木林を利用して2ヶ所と安佐大橋の下流にある干潟のところも湾処に丁度よい場所があるので、4〜5ヶ所はできるということです。

 子どもと一緒に川の調査

 古川は、昔は太田川の本流が流れていたのが、1609年の大洪水で、今の太田川に流路が変わったため「古い川=古川」の名がついたといわれます。関本さんが所属する「古川ファンクラブ」は古川下流の住民が「自然と人に優しい川づくり」をテーマにこれまでも行政と積極的に対話をし河川整備、公園整備の提案をしてきました。平成14年に完成した古川の「自然型川づくり」(古川河岸整備事業)でも関本さんの提案を入れて整備が進められました。河岸に設置されている「魚の解説板」は関本さんの書いたものです。また、呉市を中心に活動を進める「ひろしま自然の会」にも所属、今回の意見発表も、その仲間の人々の声も代表して発言したということです。

 近年は、近くの原小学校や中筋小学校、束原中学校の3校の総合学習の時間には講師になって子供達と一緒に川に入って川の生き物調査を指導しています。自分が子供の頃に味わった感動を何とかいまの子供達にも…と年に5〜6回は夫々の学校にでかけます。「小学校では4年生ぐらいが1番興味をもちますね。時々「オヤ!」と思うような鋭い質問が出てきますが、そのもとの知識はインターネットからなので、さびしくなりますよ」と語ります。

 「もっと子供自身が、主体的に川に親しみ自由に遊ぶなかで、魚や色々な生き物のこと身体で知っていけるようにならなくては・・」今回の「ワンド(湾処)づくり」の提案もそんな関本さん達の想いをこめた提案です。そのためには、昔いた魚が戻ってくるような川の構造が必要。「これからは人間のためだけの川の整備ではなく、生き物が棲める整備でなくてはならない」関本さんが最後に話した言葉が強く印象に残ります。
 
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