生態系・里山・里海

吉野川から太田川のあすを考えよう       
 
「姫野 雅義さん七夕トーク イン広島」を開催しました

 2001年8月 酷暑号
 2 0 0 1 年の七夕は、古より伝わる織り姫、彦星の天上での出会いに、もう一つの新たな出会いが加わりました。それは、広島というデルタの娑婆で体感することのできた素晴らしい出会いでした。瀬戸内海を遥か隔てた吉野川の下流域で生まれ、育ち、住み続ける姫野さんと、太田川の流域に住む私たちの出会いでした。
 
(原 伸幸:本誌スタッフ)
 
 姫野 雅義さん
  吉野川シンポジウム実行委員会
  第十堰住民投票の会  代表世話人

プロローグ

 「吉野川から太田川の明日を考えよう」と銘打った七夕講演会は、今年の五月に「環・太田川」が創刊されて最初の学習会になりました。
 講演会に先立つ五月下旬、姫野さんとお会いして打合せをするために私は徳島へ行きました。資料を送ったり、電話での打ち合わせもしていたのですが、やはり直接お会いすることが大切です。「環・太田川」を創刊するまでに、およそ二年間の準備を要しましたが、特に創刊までの一年間は、毎月の学習定例準備会への講師として太田川に関する様々な分野の方々にお願いしてお話をして頂きました。その時は、事前に必ずお会いしてこちらの趣旨をお話してお願いすることを原則としていました。いまやインターネットやメールの時代といわれる今日において、何故、そんな原則を大切にしたかと言えば、出会いの三原則があると信じたからです。一つには、出会った時の呼吸を五感(官)で感じとり、一つには場の空気を共有することで気合の程度を認識し、一つには云々と言葉を交す事によって関係の基本がはじめて成立することが大切だと考えるからです。インターネットやメールなど、バーチャルな手段が普及すればするほど、逆に、出会いのはじまりは、出会いの三原則のリアリティから出発して豊にふくらんでゆくことが大切だと考えるからです。そのような思いで徳島へ行きました。

 休日なので、御本人以外は誰もいない姫野司法書士事務所へ入ると、昔の大きな和文タイプライターが目に飛び込んで来ました。それも骨董趣味ではなく、今も大切に活用されていると聞いて驚きと同時に嬉しくなりました。椅子に腰かけて美味しいコーヒーを頂きながら、姫野さんの息づかい(呼吸)と心づかいを感じ、古い和文タイプライターのある事務所の空気を共有することで気の合うことを充分に期待しつつ、打ち合わせの云々に入って言葉を交わしました。人と人とが云云交わす事が文字通り出会う事だと気づかされます。と思いつつも、こちらの思いが充分に伝わったかどうかはにして、姫野さんの思いは十二分に伝わってきました。事務的な話しも了解しあった後、広島での再会を楽しみに事務所を後にしました。

 吉野川は中流域がほとんど手つかずで景観が良いと姫野さんに聞いたので、帰りは池田町まで中流域を走り、そこから瀬戸内に出て帰ることにする。まず、吉野川の河口に出ました。そこは河口というよりは、広い湖かまるで海のようでした。この川が、この国の河川の中で河口幅が一番広いということに頷いたのでした。堤防の道を河から4〜5qでしょうか遡った所に、昔第十村と言われた地名があり、そに第十堰はありました。第十堰とは数でなく、地名についた名前なのです。河川敷におりてその堰に近づいてみました。長さは1km近くあるのでしょうか?その堰はこれが堰と言えるのかと思えるほどなだらかな勾配で、雄大な吉野川の自然にすっかり溶け込、長良川や諫早湾などの、それまで私が知る可動堰とはその姿、形からして全く異質なものでした。
 吉野川第十堰  第十堰は約250年前に石を積み上げながら、流れを斜めに遮る工法で今のような形に造られたそうですが、現在は原型をそのままに、コンクリートやテトラポッドで補強してあり、何ヶ所か水路(魚道)が切ってあります。堰の上を歩いてそこへ近づくと、鮎の稚魚たちが銀鱗を輝かせながら懸命に遡していました。なだらかな堰の下の方へ行くと石の間からそこここを水が流れていてゴリやカニが戯れて、それを狙う水鳥たちが飛びかっていました。
また、水辺に生えたヨシなどの茂みから、いく種類もの鳥のさえずりが聞こえてきました。このような豊かで雄大な自然の中に、何の違和感もなくスッポリと収まっている第十堰の姿に、ウットリと見とれていると、突然かつて見た、諫早湾にそびえ立つ異物のような可動堰の光景が想念の中でコントラストのように映像化され、一気に天上の天国のような気分から、地上の現実に引き戻されてしまいました。それにしても、先人たちの知恵と技術が作り出した第十堰の姿には畏敬の念を抱かずにはおれませんでした。
 吉野川は、中流域も近代的な護岸工事がほとんどされていないという事を姫野さんから聞いていたので、第十堰から池田町までのおよそ40キロメートルを川沿いに走ったのですが、まさしく美しい自然の残された豊かな川でした。
途中、国土交通省の河川工事事務所の資料館があったので立ち寄って見ると、吉野川全体の資料の中で第十堰と可動堰計画に関する資料があまりに多いのには驚かされました。内容も、第十堰が危険なので可動堰が必要という資料の量の多さと周到ぶりには目を見張るものがありました。その事だけをとって見ても、住民投票が実施されるまでの吉野川流域住民と国との攻防のものすごさを想像できます。
吉野川の可動堰計画は、かつて自民党から共産党まで全会一致で可決された時期があります。それにもかかわらず、後に徳島方式と呼ばれる住民投票を、推進側の様々な妨害をハネのけてこの国ではじめての公共事業に対する住民投票として実現し、第十堰Yes、可動堰Noという投票結果を出しました。それでもまだ予断は許されないようです。
 ともあれ、姫野さん吉野川の雄大なエネルギーを頂いて広島に帰り、七夕トークイン広島を無事迎え、姫野さんと再会することができました。
 
◇◇◇ 七夕さんは私たちに大切なことを教えてくれた ◇◇◇
 
 前置きが長くなってしまいました。さて、七夕の日にアステールプラザで開かれた講演は、姫野さんと吉野川のかかわりから始まりました。
 吉野川のすぐそばで生まれた姫野さんにとって、その川は子供の頃からかけがえのない豊かで美しい川だったそうです。ところが、その大切な川が、1950年代後半から60年代にかけて姿を変えられていくのを目の当たりにします。それは高度経済成長期の土木建築用材としての川底の浚渫と、上流域に建設されたダムの影響による激しい変化=破壊です。この破壊を目の当たりにした姫野さんは、何かを言わずにはおられない衝動に駆られたそうです。時は流れ、バブル期に入り、1987年リゾート法(保養地整備事業法)の成立で、バブルに拍車がかかり、全国的に乱開発が問題になっていく時代になります。それでも吉野川ではそのような目に余る開発はなく、静かな暮らしがあったそうです。
 ところが85年に第十堰改築事業計画というのが、当時の市議会で自民党から共産党まで全会一致で承認されました。最初は、文字通りただの第十堰の改築と思っていた事業内容が、やがて明らかになるにつれ、長良川のような可動堰を、別に建設する計画である事が分かりました。日頃釣りなどで川に親しんでいた姫野さんはその事実に大変驚き、およそ9年前に釣り仲間との取り組みから始まったそうです。取り組み始めると、あまりにも情報が公開されていない現実、そのことから住民の側が何も知らされていない大きな現実の壁に突き当ります。
 そこで国や行政に対しては何度も何度も足を運び、今のように情報公開法が制定されていない時代にあって徹底した情報公開を求め、一人でも多くの流域住民にこの事を知らせ、考え、判断してもらい、住民自身が参加して決定する住民投票への実現に向けた様々な創意工夫に充ちた取り組みが始まります。実はここからが、普通の住民運動との大きな違いの始まりになるのです。
 それは反対派、賛成派といった色分けをせず、主張の押しつけではなく、一人一人がじっくりと考える事の大切さを説、第十堰の必要性に熱心な人や団体には一歩引いてもらい、むしろそうでない人が前面に出ることが出来るような取り組みにして、あらゆる組織、団体との関係は等距離にし、決起集会やデモなどは一切やらなかったそうです。
そのかわり、野田 知佑や椎名誠などの著名人にボランティアでしっかり来てもらい、川に親しめるイベントを何回も催し、吉野川の良さを訴えつつも可動堰への反対は一切言わないようにしたそうです。
更にお盆や正月に里帰りして来る人へもこまめにアンケートを実施して広く世論の喚起に努め、多くの人に手渡す資料も国のパンフに赤ペンを入れて作成し、同じテーブルを囲んで話し合おうとシンポジウムを開催し、国への参加も求めます。ただ、国が参加してきたのはその呼びかけから二年半たってからだそうですが、それにしても実にキメのこまかい配慮に富んだ心づかいに満ちた住民運動が展開された事に感心せずにはおれませんでした。
住民投票実現を願うポスター
 住民投票実現を目指した、後に徳島方式と呼ばれる住民運動も、一人一人を大切にしようとする多様な展開と周到な準備を経ていよいよ佳境へと向います。それは全有権者の1/3以上の署名による直接請求を1999年2月に議会に提出しますが否決され、その年の4月に市議会での力関係を逆転すべく住民運動側から5人の候補者を擁立して見事、全員当選で議会で可決されます。
それでもまだ、可動堰建設を推進する勢力に、50%条項(住民投票が成立するための条件として投票率が50%にならないと不成立という条文)など様々な妨害を受けながらも2001年1月23日にその日を迎えます。そしてその日は見事に第十堰Yes、可動堰Noという投票結果を導き出す事に成功した記念すべき日となったのです。この貴重な住民の意志が表われた投票結果を、白紙に戻っただけで白紙ということは何でもありだと発言している大臣もいるそうです。予断は決して許されないと思いました。
 二年間で3回も大きな選挙を行い、それも無党派に徹してかかった費用の1600万円もすべてカンパで行えたというお話に、徳島方式の底の深さと広がりの大きさに勇気を与えられました。また、講演の最後の方で、裁判にすると住民から問題が離れるので裁判は一切考えなかったというお話に、一人一人の主体性を大切にしようという姫野さんの思いが感じとれて深く感銘しました。
 姫野さんの講演の後は、地元太田川の源流域の大規模林道の問題に取組んでいる「森と水と土を考える会」の原戸さんから報告があり、その後活発な質疑応答がありました。その中には、私もあまり知らなかった出島沖の産廃埋め立ての問題に取り組んでおられる方の発言もあり、新たな出会いと気づきを得てみなさんお待ちかねの交流会へと会場を後にしたのでした。
大規模林道
建設計画がある
太田川の源流
 
エピローグ

 姫野さんにとって広島は、はじめての地だと聞いたので翌日広島を案内しました。太田川と被爆地ヒロシマは切り離すことが出来ないと考えている私は、スタッフの(哲)と一緒に原爆資料館を案内しました。資料館では、じっくりと丁寧に展示を見ながらも鋭い質問をされのに、姫野さんが物事向き合う時の基本的な姿勢を垣間見た思いがしました。
予定時間をかなりオーバーして資料館を出て、取材予定のある(哲)とはそこで別れ、姫野さんと二人で太田川を遡り、野冠の渡さんのお宅まで行きました。吉野川の周辺で川と共に生きて来られた姫野さんと、太田川の中から川と共に生きて来られた渡さんの会話は、突然の訪問にもかかわらず尽きる事のない様子でしたが、残念ながら列車の時間があるの話を途中で打ち切り、三年物の梅干しをお土産に頂いて帰路につきました。
広島がはじめての姫野さんにとって原爆資料館との出会いはやはり衝撃的だったようですが、私にとっても住民投票に象徴される姫野さんたちの生き方は衝撃的で民主主義の真髄を見た思いがしました。太田川からヒロシマを通じて一人でも多くの人へ民主主義が発信できる事を願いつつ、七夕トークの報告とします。
 

講演会に参加された方が、感想を寄せて下さいました。
 
 姫野さんのお話を聴いて勉強になったことが二つあります。
 まず地域の住民をどんどん巻き込んでいったことです。皆が関心を示すようなイベントをしたり、ポスターを貼ったり、チラシを配ったりすることで情報をどんどん発信して、第十堰問題に関心を向けさせたことです。
 大きいのは、女性がどんどん参加していったことだと思います。あまり反対という言葉は使わず、とにかく良い事も悪い事もいろいろな情報を収集し、発信されたことです。
 もう一つは、住民投票を行う案が徳島市議会で否決されたときに、市議会議員選挙に可動堰建設反対派の候補を5人立候補させて、当選させ、市議会の中から替えて住民投票を実現させたことです。そこまで実行するのはなかな
か難しいと思いますが、姫野さんをはじめ住民の方々の並々ならぬパワーが実現させたのでしょう。
 姫野さんたちの努力の甲斐あって、現在では、当初は可動堰建設に賛成していた市長も反対を表明し、国も計画を白紙に戻したそうですが、時間が経って時代が移り変われば情勢が変化するかもしれないので、気は抜けないこととと思います。
 私たちも、つい最近からですが、地域の自然をできるだけまもりたいと思い、地元に建設が計画されている大規模林道の問題で、少しずつですが、活動を始めました。しかし今のところ、住民の関心も薄く、とにかく地道な活動を続けていくしかないと考えています。
佐伯郡吉和村  谷田 二三
 
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