▼我が家のビュー、リン
「あの人どこにいるの。」
「あの人、登場。」
うちでは、イヌやネコも人と呼んでいる。あの人とはペキニーズ犬のビュー君、13歳。私の長男が中学生の時に名づけたが、なぜ「ビュー君」なのかわからない。でも、独創的ないい名だと思う。毎年、「桑原ビューで〜す。」と言って病院の受付を訪れる時、なんだか「おたく的」だけど快感がある。ビューは分からないことが多いイヌで、一緒に並んで食卓につきリンゴを食べていても、突然ある一かけらだけは食べるのを拒否。どこも違いが見えないのに、その一かけらだけは顔をそむけて絶対に食べない。そんなことがしょっちゅうある不思議なイヌである。「何を考えているのか、この人、よく分からんねえ」というのが、私たち夫婦の日常の会話である。
ネコのほうは名前は「リン」。我が家のネコの系譜は年期が入っている。長女が小学生の時、家に入ってきた野良猫を養子にした。茶色で、「チャイ」という名。その子が「アカ」という名の雄で、アカはやはり野良猫の彼女を連れて来た。「コゲ」という名の眼のきれいなこげ茶のネコで、コゲとアカの子が「クロロン」。ク囗ロンと誰かの子が「リン」だ。
クロロンは意思表示が上手なネコで、戸を開けて欲しい時は戸の前で戸に向かって座っているし、水が欲しい時は水入れの前に座っていて、人が通ると「にゃー」と一言、甘え声で訴えるのだった。リンは子どもっぽく聞き分けのないネコで、食べたいものがあると食卓の上に上がってくる。何度下ろしても、切りがなく上がってくる。頑固で、自分の意思だけを通そうとする単純な行動にいつも閉口してしまう。あまりものを考えない性格だ。リンは現在23歳である。ネコの23歳は人間でいうと百歳。毛並みはよれよれになり、腰はふらつき、台の上から仰向けに落ちたり、引っ込まなくなった爪が座布団にひっかかり、動けなくなったり、老いネコもいいところだ。それでも、食べることだけはちゃんとしているので、まだまだ死なない。「まるで化け猫だね。尻尾が8本生えるんじゃないの。」と言っていたら、本当に尻尾が二つ生えてきたのには驚いた。実は、皮膚の代謝の調子が悪くて、毛がくっついて抜け落ちずに10cmもの長い尾状になったのだった。
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何の話しをしていたっけ。
そうそう、動物がものを考える話だったよね。イヌが賢いことはみんなよく知っている。ところが、トラが私に挨拶すると、みんなびっくりする。
▼トラ語で語る
なぜ、トラが挨拶すると驚くのだろう。みなさんの家のイヌもネコも主人に挨拶しますよね。主人が帰ってくる時間になると玄関に来て待っているよね。
私はもう20年以上も前のことになるが、トラの飼育係をしていた。「シズちゃん」というトラがいて、「ギャンジ」との問に2頭の赤ちゃんが生まれた。トラは単独性の動物で、子育ては母親だけでする。それは、動物園でも同じだ。シズちゃんは寝室にこもり赤ちゃんを育てていた。私はただ見守るだけであったが、子どもに寄り添い、お乳を飲ませ、子どものお尻をなめて排泄を促し、慈しむような眼差しで子どもをあやし、子育て以外の雑念がない静かなシズの子育てを見せてもらった。その落着いた子育ての様子は、人問のお母さんに勝るとも劣らない。しかも、シズはただ一人でそれができた。35日が過ぎて、初めて親子は運動場に出た。そして、120日目に父親のギャンジと同居させた。子どもは無邪気にギャンジに近寄るが、ギャンジは子どもの存在が許せず大声を張り上げて威嚇する。一触即発の情況の中、シズは子どもを誘導して避難させたり、中に割って入り父親を宥めたり、その適切な判断を目の当たりにして、あらためてトラの利口さを知った。1週間ほどたつとギャンジも落ち着き、子どもが父親の背中に飛び乗り遊ぶ姿が見られるようになった。私は飼育係になった幸せをシズからもらった。
代が変わり、今、安佐動物公園にいるトラはジュナとバイコフというアムールトラだ。私はもうずいぶん昔に飼育の現場から離れているので、ジュナとバイコフを直接飼育したことはない。でも、トラが好きだから、トラ舎の前を通る時には急いでいてもちょっと声をかける。いや、ジュナから声をかけられるのだ。ジユナはどんな人ごみの中でも私の姿を見逃さない。バイコフの方はいつもは知らん振りをしているが、私のことはよく知っている。先日は、一人で座っていたので、私の方からトラ語で挨拶をすると、きちんと挨拶を返してきた。トラの挨拶は互いにシユフフ、シユフフと鼻を鳴らし合う。
▼バンクーバー水族館で
「動物はものを考える」。このことが本当に腑に落ちたのはカナダのバンクーバー水族館を訪れた日のことだった。バンクーバー水族館は、この業界では学問的レベルの高さで知られる水族館だ。特にシャチのショーで有名だった。私か訪れた日、シャチのショーはプールの修理でお休みだったが、シロイルカのショーが行われていた。飼育係とシロイルカの一糸乱れぬチームプレイ。シロイルカは惜しみなくその能力を発揮し、喝采を浴びていた。ここまでは、水族館ではよく見る光景であるが、この水族館はやはり一味違っていた。ショーが行われている水楷のそばのロビーに鯨の博物室があって、シロイルカとヒトの脳の液浸標本を並べて展示していた。イルカの脳とヒトの脳、この二つの脳は大きさは違うが(シロイルカの方が大きい)、形やしわの状態がとてもよく似ている。イルカは、音波を使って仲間同士の複雑なコミュニケーションをしていると言われているけど、「なるほど、納得!」、この脳ならヒトとあまり変わらないことを考えているだろう。バンクーバー水族館の展示の「凄さ」に驚いた。
▼クマとヒトとの共存は
クマが出た!クマは出ても不思議ではない。クマはものを考えている。一昔前は、クマは出てくる必要がなかった。人里はむしろ怖いもので、出たくもなかった。ところが、最近は状況が変わってきている。山の中に餌が不足する中で、人里に下りて来たクマが初めて食べた残飯は、とてつもなく美味しかった。同じカキでも、人家の庭のカキは甘い。家畜の飼料、残飯、果物、少々怖い思いをしてでも食べたいものばかりだ。すっかり人里近くに住み着いて夜毎に里のご馳走を食べているうちに、クマは人里の便利さを知った。それは人間が都会に出て、街の便利さに染まるのと同じで、もう簡単には田舎暮らしには戻れない。クマも、よほどの条件がなければ、奥山には帰れない。しかし、人里に出て行くことを学習したクマだから、自分で帰っていくことも本当はできるはずだ。クマが奥山に帰ることを選択する条件とは…難しいけれど、クマと人間との共存の道はそこにある。
安佐動物公園には、クラウドという名のちょつと有名なクマがいる。クラウドは小さい時に母親を失い、安佐動物公園で暮らすうちに面白い遊びを編み出した。運動場に落ちている棒切れをバトンのように両手で回して遊ぶことを始めたのだ。あまりの見事な棒さばきに、みんな感心して見とれている。このように動物園の動物にものを考えさせたり努力させたりする展示がはやっている。「工ンリッチメント」という。動物園での動物の暮らし方を「豊」にするスローライフな展示手法だ。
▼改めて動物を考えて
動物とは一体なんだろう。動く物と書くのだから動くことも特徴だけれど、もっと本質的には自分が生きるエネルギーを他の生き物を捕食することによって得る生き物である。私たちヒトも、植物、動物、いろいろな生き物を食べて生きている。動物である限り、他の生き物を摂食しなければ生きられない。他に大きな動物がいる場合は、捕食されないように逃げなければならない。動物は食べるための工夫と、食べられないようにする工夫を進化させてきた。その一つが考える能力の獲得である。ヒトだけがものを考えているわけではない。程度の違いはあってもいろいろな動物がものを考え生きている。ものを考えるとは、二つ以上の選択肢から選択することだと私は思う。イヌもネコも毎日ものを考えている。トラもクマもイルカも、自然の中では、ものを考えないでは生きられない。
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いろいろ お話しはありますが、お後がよろしいようで。ちりとてちん…。
写真1 子どもをあやす母トラのシズちゃん
写真2 同居の日、ギャンジ(右)を宥めて、子どもを避難させるシズ
写真3 バンクーバー水族館のシロイルカの調教
写真4 得意技、棒切れを回すツキノワグマのクラウド
写真5 器用でよく学習するニホンツキノワグマ
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