連載 桑原一司さんの自然みて歩き4
 桑原一司

 2007年 9月 第77号
ウンコロジーの巻


 うんこに学問を意味するロジーをつけてウンコロジー。正式にはスカトロジーという。

 私かウンコロジーに目覚めたのは40歳を過ぎてのことだ。20年ぶりにもなろうか、故郷松山市にある愛媛県立博物館を訪れた時に、信じがたいものを見た。絶滅種・ニホンカワウソの剥製が十数体も並んでいるのだ。1体たりとて、お目にかかれるものではない貴重な標本が、ずらりと並んでいる。それは、ニホンカワウソの最後の生息地、南宇和の海で死んだカワウソたちの標本であった。収蔵庫に通された私はそこでニホンカワウソのうんちの標本を見た。年月がたち、もう崩れてしまっている標本ではあったが、そのうんちには魚の骨がぎっしり詰まっていた。ウナギ、モクズガニ、クロダイなど、カワウソがその日に何を食べて暮らしたのかが手に取るように分かるものだった。さらに驚いたのは食痕の標本であった。それはクイナであろうか、長い足指をもつ鳥の残骸であった。うんちや食べかすのような汚くて保存する価値もないようなものを、この博物館は大切に保存していた。これらの標本は、かってのニホンカワウソの生活を彷彿として語っている。この標本がなかったら、ニホンカワウソの暮らしを語るものは証拠として残らなかったであろう。たかがうんち、されどうんちである。この時、私は、生きものの暮らしをも語るウンコロジーの凄さに目覚めたのだった。



 「ぼくはテン。ぼくのうんちなんか調べている人がいるなんて、なんて?」それは君のことを知りたいからだよ。幻の動物テン君、でもそれは伝説であって、本当は、君は身近にたくさんいる動物だよね。ただ、君はめったに姿をみせない。君が存在を示すのはうんちによってだけ。だから、君のうんちを調べているんだよ。
 春夏秋冬、君のうんちを見せてもらった。君は、冬から春にかけてはノネズミなどの動物を食べている。ある日、旧芸北町木束原で拾ったうんちには感動してしまった。まだ臭いの残る真っ黒いうんちを洗い流したら、白と黒とのツートンカラーの歯が出てきた。特徴的な歯なので、安佐動物公園の標本で調べたら、それはノウサギの臼歯だった。一緒に拾った四つのうんちからもノウサギの骨や歯が出てきた。春まだ浅い木束原の原野で、自分の倍もの大きさのノウサギを狩る君の姿が浮かび上がった。



 春に臥竜山で調査していた時のことだった。スギゴケ類の胞子体がきれいに生えた古いテンのうんちを見つけた。テンに食べられたコケが未消化のまま排出され、勢いよく胞子体を吹き出したのであった。この日、臥竜山から聖湖の一帯で、コケを食べたテンの糞を五つ拾った。冬の厳しい寒さの中で、食べ物がない君はコケを食べて飢えをしのいでいた。写真家、田原一久氏の写しだす悠久の時を奏でる聖湖の冬景色。その風景の中に君は懸命に生きている。冬の臥龍山麓では、コケを食べてテンが飢えをしのぐ。これはウンコ囗ジーによって新たに見えてきた君の姿だ。

 

 キツネ君、君は生き方を間違え始めている。君は人間に依存し過ぎている。私は君のうんちを調べる中で、君のことがとても心配になった。君のうんちからは、ワカメやコンブやチキンの骨や輪ゴムや焼け焦げた銀紙、ナイロン片や竹串片、スイカの種やトウモロコシの実など、自然にはない変なものがいっぱい出てくる。それは人間が捨てた弁当がらや、ゴミ焼き塲で残飯あさりをした証拠だ。生ゴミを安易に捨てる人間にも問題があるけど、それをあてにする君はどうなのかな。人間の捨てた食べ物はおいしいかもしれないが、本当にそれでいいのだろうか。人間が作り出す自然にはない食べ物にはいろいろな化学物質が含まれている。人間の社会では、いつかその問題が噴出するだろうと私は心配している。君は野生動物、おせっかいなことと思うけど、人間に寄っかからない方がいいよ。

 「ご忠告、有り難う。でも、ぼくたちはうまくやるよ。残飯は栄養価が高いしね。繁殖力がついて一族繁栄だよ。」

 私か旧芸北町で1年間に拾った138個のテンの糞では、ただ1個の糞にトウモロコシの実が含まれていただけで、人工物や作物が見つからなかった。一方、76個のキツネの糞ではその33.4%から作物、残飯、ゴミに由来する人工物が見つかっている。冬の飢えに苦しみながらも白然に依拠して健気に生きるテンと、人間の残飯に依存しながらうまく生きるキツネ。さて、進化の神様はどちらの生き方に味方するのだろうか、それは誰にも分からない。

 ウンコロジーの楽しさは「ウンコ」の部分ではなく、「ロジー」の部分だ。うんちはやはりきれいなものではないので、できることなら触りたくない。でも、うんちを洗うと、ノネズミの歯や鳥の羽や魚の鱗、カタツムリの殼、スイカやカボチャの種、クワガタムシの角やオサムシの羽、ビニール片や字が読める新聞紙片など、面白いものがいっぱい出てくる。うんちは生活情報の宝箱。だからうんち拾いはやめられない。拾おうかやめようか、うんち拾いは葛藤の連続だ。でも、ウンコ囗ジーの鉄則は全ての糞を拾うことである。全ての糞を拾うことによって見えてきたものがある。拾った糞を全て計測するのだ。ウンコ囗ジーの最大の弱点は、うんちに落とし主の名前が書いてないことである。そこで、拾った糞の太さをノギスで測り、計測値を並べると、大きく二つのグループがあることが分かる。一つは11mm付近にピークがある一群で、これはテンの糞。もう一つは19mm付近にピークがある一群で、これはキツネの糞。クマの糞は30mm以上もの直径をもち、サルのは25mm、イタチのは6mm前後と、固有の大きさをもっている。私はこれらの糞の大きさ(太さ、長さ、形)を大人の手の指に置き換えて説明している。タヌキの糞は親指、太くて短い。キツネのは人差し指、少し細くて長い。テンのは小指の大きさだ。もちろん、幼獣も混じり、個体差もある。大きさだけでは見分けられないが、長年糞を見ていると、糞の特徴からどの動物の糞かをほぼ間違いなく言い当てることができるようになる。それを確信するのは、落とし主が目の前に現れた時と、「他流試合」をしたときである。「他流試合」、すなわち糞の研究者同士の集まりのなかで、出会った糞を同定する時に、先に自分が落とし主を言って、他の研究者が次に言う。その時、不思議なくらいに落とし主についての見解が一致している。ウンコロジーは経験主義的な学問ではあるが、そんなにいい加減なものでもないんだなあ、と納得。うんちもよく見ると、よく分からない言葉で書かれた小さな名札がついているということになる。

 ウンコロジーは博物学だ。洗ったあとの検出物は甲虫の鞘翅片や脚の一部や植物の種など、多くの場合が部分である。

 「えーっと…この種、なんだったっけ・・」

 記憶の片隅に引っかかっているのに出てこない。赤い実、七円い実、野山の果実は知っていても、中にある種まではめったに見ない。調べていくと。

 「なんだ、ヤマボウシの実だったのか」

と、気付かされる。オサムシの顎と刻点のある鞘翅片、ソウムシのこぶのある脚節、セミの胸背部のもようなど、ピキンとくるパズルの一片が糞の中に隠れている。鳥の羽、動物の歯と骨、カタツムリの殼、木の実、昆虫など、何でもござれの勉強となる。いくら時間を費やしても、分からないことばかり。

 こうして集められたうんちの標本たちも、いつの囗にか広島市に自然博物館ができる日を夢に見ながら、押入れの中で眠っている。
 

 
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