1998年7月16日、午後3時を少し回った頃、私は鹿児島県の南方536qの洋上に浮かぶ沖永良部島の森で、リュウキュウチクの葉上に静止している面妖な怪虫と対峙していました。体長を優に超える長い触角。見慣れない幅広の翅型。きわめつけは顔面にほどこされた歌舞伎役者を連想させる緑色の隈取!!
遭遇から数秒後、混乱のあまりに停止していた時間は動き出し、無意識に振ったネットの底にその怪虫はごろりと転がりました。そして、震える指でつまみ上げた怪虫の背部に奇妙な形状の褐色斑を認め、私はそれがヒサゴクサキリであることをようやく理解したのです。この衝撃的な体験は、私のキリギリス熱をいっそう高めることとなり、翌1999年8月4日、広島県初記録となる三篠川河畔林での本種の発見へと繋がりました。
ヒサゴクサキリはキリギリス科ヒサゴクサキリ亜科に属し、広島県に生息する近縁種としてはカヤキリ、クサキリ、シブイロカヤキリモドキなどがいます。和名に冠されたヒサゴとはひょうたんの別称で、前胸背板から頭部先端に連なるひょうたん型の褐色班は、顔面の鮮緑色の隈取とともに本種の大きな特徴となっています。成虫・幼虫ともにタケ類だけを食べ、県内では食草としてメダケとマダケが記録されています。成虫の出現期は8月上句〜9月上旬と比較的短く、日没後に活動し、成虫・幼虫ともに当年に成長した若い茎を好んで食べます。本種の頬が発達し、大きな大顎を持つのは硬い夕ケの茎をかじって食べるためです。頭部の先端から翅端までの長さは、40〜55mmと大柄な体格ながら、オスが発する「ヂチッ…」あるいは「ビツッ…」という音は、シャープペンシルのノック音ほどの音量すらなく、しかもゆっくりとしたテンポで繰り返されるため、よほど注意していないと聴き収ることはできません。動作はやや緩慢で、生態や習性から受ける印象は「威風堂々、ちょい気弱」といったところでしょうか。
生息環境がタケ林に限られ、発音の音量がきわめて小さいことから、生態が判明する1980年以前の本種の採集例は極端に少なく、国内に存在する標本数はわずか10個体といわれたほどの稀代の珍虫でした。暖地性の種で、県内では倉橘島、能美島、そして広島市域の平地〜丘陵地で生息が確認されており、内陸の寒冷な地域からは未発見です。太田川流域では可部町柳瀬のメダケ林で確認されています。本種が川岸に点在するメダケ林を利用しながらどの程度の内陸域まで分布を伸ばしているかについては、今後の調査で明らかにしたいと考えています。一般的に勾配が緩やかな一級河川とその河岸に形成される自然環境は、特に暖地性の昆虫にとって、年月をかけて徐々に内陸へと分布を拡げるための最良のルートといえます。もしかすると戸河内あたりで発見されるかも知れません。そうなれば、ヒサゴクサキリを共通項として、沖永良部島と戸河内が私の頭の中で重なり合うことに!!
ん〜何だか8月が待ち遠しくなってきました。(写真・文 坂本 充) |