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連載 箱庭の海 〜かわうえ・きよしの海からのメッセージ〜 |
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第9回 ハドソン川とピートシガー |
2005年9月 53号 |
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ニューヨーク州の北辺にあたるアジロンダック山地の「雲の涙湖」の愛称で呼ばれる小さな湖からニューヨーク湾まで500余キロを流れ下るハドソン川は、凡そ3万4千平方キロに余る広大な流域を伴っている。
日本では最も長い信濃川が367キロ。最も広い流域面積の利根川が1万6千平方キロ余り。(吾が愛する太田川は長さ100余キロ。流域面積は利根川の十分の一)というのに比べると、ハドソン川はアメリカの地図の中ではほんの小さな川にしか見えないが、狭い国土に住んでいる我々には想像以上と言うしかない。
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ピートシガーはニューヨーク市から100キロあまり北の、ハドソン河畔の小さな町であるピーカン近くに住んでいる。小高い山の中腹に建てた質素な家で、そこに妻のトシ、次女のチンヤ孫のキタマ&マーヤ、3匹の犬たちとのつつましい暮らしである。
大自然のままの庭先から眺めると、目の下にハドソン川がゆったりと流れ、セーリング中の帆船の目に染みる白帆や、2万トンもあろうかと思われる汽船が遠くに見られることもあり、狭い「箱庭の海」で生きてきた者の眼には「ほう・・」と溜息が出てくるような雄大な風景に映る。
夕焼けのすばらしさは圧巻である。ピートのふくたて笛が高く低くハドソン川の面に流れていくと、茜色に染まったさざ波がハーモニィを返してくれるようにきらめく。まさに至福のひとときである。
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ピート(左)タホ⇒ |
ピートがハドソン川の凄まじいまでの汚染に強い関心を持つようになったのは1960年度初頭、40歳を過ぎてからであった。彼の著書『花はどこへいった』の中に、「ハドソン川沿いの新しい歌詞を書くべきだ。片や水質の浄化に役立っているクリアウォーター号は、今や沿岸を守るために闘わねばならない。私達が見張らなければ、川はオルバニーから海まで堆積物の切れ目のない鎖の様な壁になり、支流からの流れを遮ってしまうだろう。」と決意を述べ、「ハドソン川を航行しながら私は糞尿の塊が浮かび通り過ぎるのを見た。個人の豊かさの反面で公共性の貧弱さが分かった。私は次の2曲を書いた。それから他の一連のものも」と、
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クリーン
ウォーター号⇒
Where Have All the Flowers Gone(ピートシガー著)より |
1963年、小さなヨットを手に入れ川をさかのぼって、CLEARWATER'S GREAT
HUDSON RIVER運動の第一歩を踏み出し(汚れた川を遡って)というい意味の『Sailing
up my Dirty stream』を書いた。
汚い流れをさかのぼりながら
それでも私は川を愛し夢を見続けるだろう
いつの日かたとえ多分今年ではないにしても、
わがハドソン川は再び清らかに流れるだろう
水晶のように澄んだ冷たく細い流れが
ハイカーの誰かが落としたほんの二つ三つの
チューインガムの包み紙を浮かべて
来るべき事態を警告する為に
と歌い上げ、逆にSailing Down My Golden River(黄金の川を下って)と続き、これらを含め13曲が次々作られ、HUDSON
RIVER RE-VIVAL の為に全身全霊を打ち込んでいった。
4曲目の Hudson River Sloops(ハドソン川の帆船)では、「この川はあの頃チョウザメで一杯だった。目方は250ポンドもある奴が数フィートも飛び跳ねるのが見えたものだ」とリズムを混ぜながら12弦のギターで弾き語りするピートの姿が目に浮かぶようである。チョウザメが飛び跳ねたあの頃というのは1924〜47年頃のことだ。
7曲目のThrow Away That Shad Net(シャド漁の網を処分せよ)では今「箱庭の海」広島で問題になっているPCBのことが歌われている。
「PCBはすぐれたものではるか1929年に
トランスやコンデンサーがたちまち作り出された当時
誰もPCBが私達に及ぼす影響を気付いていた者はいなかった
そして今、明日のことを心配するようになった」
「専門家はそれを知っていた
なのになぜ君や私は知らないの
誰が、この自由の国で情報を操作しているの?
法律がPCBの禁止の役に立つとは思わない
どうすれば明日を守れるのだろうか?」
この歌が書かれたのは1975年で、ピートの話では魚釣りを習おうと思ってガレージで使われなくなって吊り下げてあるあるネットを見て歌詞の1行目を思いついたという。
当時の新聞にも書かれていたが縞スズキの体内から30ppm、ウナギから200ppm、スッポンから2000ppmものPCBが検出されており、その他の川魚やカニ類も同様だったと考えられる。併し、ピートをはじめとする「ハドソンリバー・リバイバル運動」のメンバーの積年の努力で、「ゆっくりと市民の圧力が水質の浄化を促し、1993年にはヨンカーズからキャッツキルまで再び泳げるほど安全になり、もう10年もすればニューヨーク市近くまで泳げるようになるだろう」と言わしめるまでになった。
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その運動の中で特筆できるものは1978年に始まった「Clean Water's Great
Hudson River Revival Festival」であた。以後は河畔のCroton Point Parkを会場として毎年6月20日と21日に盛大なショーを行う。七つのステージを作り、ボニー・ライットやボブ・リードをはじめ有名なフォークシンガーやジャズバンドを全米から結集、超満員の観衆を魅了した。日本からもそれを目当てのツアーが組まれるほどで、そこ此処で日本語も飛び交い、盛大な拍手が湧き、感動と興奮に包まれた多くの人の顔をこの土地で見るとは夢想だにしなかったことだった。
また、この日に会場に並んだ多くの売店の売り上げの15%が寄付されてクリーンウォーターの運動をサポートしているとのこと。今まで積み重ねてきたピートの努力も開花の気配を実感した2日間であった。事実、運動の波は大きなうねりとなって州を動かし、国を動かし、ハドソン川は年毎に甦ってゆき川カマスやシャドが帰ってくるまでになった。
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ピートは日本で3度のコンサートを開催している。3度目は1986年の夏のこと、東京、大阪、岡山と廻って広島では8月5日に鯉城会館を超満員にしフォークファンを満足させた。「花はどこへいった」「黒田節」「原爆許すまじ」など日本の曲も加えた100曲余りを歌い、五弦バンジョウを弾いた。そして翌日の原爆の日には平和公園での式典に参加した。燃える陽射しの下で祈りを捧げていた彼の真摯な横顔を今も鮮明に思い出す。
ピートの運動はハドソン川リバイバルだけでなく、ベトナム戦争へのレジスタンス、人種差別の撤廃、原子力発電の縮小と、常に身を挺した戦いの連続であった。米寿を迎えようとしている現在もかくしゃくとして、ビーカン山の中腹から母なるハドソン川を眺め、チョウザメの帰って来る日と人々のより安全な生活を願って活動を続けている。 |
(参考文献・「虹の民におくる歌」ピートシガー著 社会思想社発行) |
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