広島浅野藩は徳川将軍家への献上品として太田川に簗を設営し、鮎を捕獲していました。この鮎をどのように加工して江戸へ送ったのか、記録には、干鮎、塩鮎、うるか、の三種があるだけで、その製法については何も知る手がかりがありません。
十八世紀初頭の正徳二年に出版された当時の百科事典である「和漢三才図會」の中では、鮎の食べ方について「五、六月(旧暦)四、五寸の大きさの頃、酢にしても、っても、煮てもよく」とあり、また「膓を塩漬にした は安芸の産が良い」という意味の記述があり、太田川うるかは将軍家だけでなく江戸一円にも広がり、好評を得ていたことがうかがえます。
古代の鮎料理はよくわかりませんが、中世に入ると、「四条流」とか「大草家」とかの包丁術の家元が生れ、包丁の使い方から料理の器や盛り方、箸の使い方に到るまで形式が決められます。この時代の魚料理の代表選手は海魚では、川魚ではでした。鯉の中でも特に金魚が珍重されました。誤解のないように申しますが、金魚とは今の金魚すくいの鑑賞魚ではなく、大きな鯉で口の周りの黄色いもののことで、これが元々金魚の語源であったと考えられます。鯉が一番に重要視されたのは、おそらくは年間通して材料になり得たこと、料理の種類の多さ、量や鮮度の確保の問題などに利点が多くて安定した素材であることからかと考えられますが、しかし、鮎の持つ強烈な魅力に匹敵する材料は他に得られない所から、鯉にはほとんど劣らない重要な材料と見做されていたことはまちがいありません。
室町時代、当時の正式な宴の膳に欠かすことのできない魚料理の一つとして挙げられていた「いかだ」というのがあります。この製法を「包丁聞書」「四条流包丁書」「大草殿より相伝之聞書」などから集め、次に書き出してみましょう。
まず、鮎を細作りにして、柳の葉をいかだのように皿に並べ、その上に鮎の身を盛る。柳の葉は葉先が客の向って左へ、または向うへ向くように敷く。そして鮎の切身に予め作っておいた秘伝の酢塩をかける。酢塩の製法は、能酒一杯(この量が不明)に梅干を五つ入れ、かつをを細かに削って加え、この液が半分になるまでゆっくり煎じ、さらに杏仁を煎って細かく砕いて入れる。もし杏仁がない時は桃の核を割って中の実を煎り砕いて加えてもよい。こうして作った酢塩をよくこして鮎の切身に浸す。―これが「いかだ鱠」ですが、もし材料に鮎がない場合は川、鯉、鮒の順に代用してよい、と書かれています。
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