ミンミンゼミが鳴かない。ツバメの数が少ない。今年も毎日スコールが…なんていう話を、海辺のアメリカンダイナーで交わした。地震も多いし、絶対何かがおかしいよね。そういってタバコに火を点けたのは、看護士を束ねる旧知の友人である。
夏の盛りのある日、ふと思い立って出かけた松山でのことだ。フェリーに原チャ(原動機付自転車)を積むと、なんと四千円を越えた。大幅な料金値上げが行われた直後であったらしい。フェリーの誰もいない甲板最上階で、シャツを脱いでぼんやりと過ぎ行く海を眺めると、そこはミズクラゲの海だった。ゼリーの粒々をかき分けてゆくように進むフェリー。観光港に待つ友人と冒頭の話になっだのは、あるいはそのせいだったのかもしれない。
もっとも相変わらず瀬戸の海は穏やかで、釣り船を浮かべたブルーとグリーンの中間色は心にそっと染み入る優しさに満ちていた。異変というものがあるとすれば、それはむしろ人間側なのだろう。九十歳、百歳の入院患者が当たり前であるという友人の病院での数々の逸話を聞きながらそう思った。ひとつの生物が寿命をこれほど伸ばし、その数を増やしたということこそ、自然界にとって大きなインパクトであったはずだ。現在起きている異変のほとんどは、そこに起因している。そんなことが分かっていながら、ぼくたちは長寿と繁栄を望み続けるのだろう。
さて、今回の小旅行はあえてクルマを使わず、原チャを選択した。ルートは広島を出発し前述の松山から今治、そしてしまなみ海道を通って、尾道、竹原、呉とひたすら海沿いを走るというもの。日焼け止めを数時間おきに塗りながらの行程である。
道後で温泉につかったあと、今治に向けて海沿いの道をゆけば、そこは瀬戸の夕景。日が沈むととたんに肌寒くなる。海の匂いも変わる。そんな微細な変化が、クルマでは味わえない面白さである。とりわけしまなみ海道は歩行者・自転車・原付専用道があって、五十円〜百円を賽銭箱に投げ込むシステムだ。クルマですっと走り抜けるのとは全く違う、五感に訴えかけてくる情報量の差を感じた。
とはいえ暑い日差しの下での島と橋の連続にはさすがに因島あたりで辟易としてきて、向島から尾道へはフェリーを使った。なんと百円(プラス原付十円)!乗船すると、自転車の人は跨ったまま着岸を待つ。日本一短いフェリーだ。
尾道からはクルマではさんざん走った道ながら、原チャの気安さでつい寄り道をしてしまう。忠海(ただのうみ)港もそのひとつだ。ここは、高度経済成長期あたりまで、海で生涯を暮らす家船(エブネ)と呼ばれる漂海民の陸上の基地だったいう。船に家財道具一式を積みこんで住居とし、漁をしながら一生を海に生きた彼らは、いま陸にあってどう暮らしているのだろう。子供たちは寄宿舎付きの学校へ通ったというから、まだ情報は多く集まるはずだ。まとまった調査が行われるといいのだが。なお、スナメリ漁は、忠海独特の漁法であるとのこと。
行程を追ってもしかたないからこのあたりにしておこう。それにしても、夜の今治繁華街はゴーストタウン以外の何物でもなかった。名物の焼き鳥を!と勇んだのはいいが、日曜のせいか、開いた店がない。こういうときは客引きと仲良くなるに限るが、その客引きも中国式マッサージの少女が路上に立っているくらいだ。まだ十代に見える少女に、「食べるとこない?」と声をかけてみると、幼い顔立ちの彼女はたどたどしい日本語で「食べるとこ、知らない」と答えた。ぼくは小さく自分に馬鹿と呟く。小さな町の風俗店といえども、世の常でおそらくは店に半ば軟禁状態で働いているのだろう。ダンサーとして入国できるフィリピーナじゃないのだ。そんな少女に、外の店のことなんかを聞くなんて…。それでも「家でつくて食べる、いいね!」と、明るい声をかけてくれたのが救いだった。きみ、かわいいね、心のなかでそう言って立ち去った。彼女とは一生会わない。せっかくだから、客になってやればよかったかな。
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