父母ともに満州引揚者、さらには転勤族の子として生まれたぼくには、きまった「ふるさと」がない。そのかわりといってはなんだが、どんな土地に移住しようとも持ち続けてきた原風景、「心のふるさと」めいたものはある。
それは安佐南区権現山にある毘沙門天と周りの自然のすがただ。ちょうど本誌(十一月号)を読んでいたら、近隣の宅地造成地で弥生時代の遺跡が発見されていたという記事があって驚いた。そして、驚くとともに「やっぱりね」と、まるでジグソーパズルのヒースが合うようにしっくりした感じを覚えたのだった。(もちろん遺跡のことは初耳だった)
その理由を問われると、説明は難しい。ただ権現山は毘沙門天を根城にして遊んでいた元少年の感覚としかいいようがない。遺跡の存在などまったく知らなかったが、権現山に眠る巨大遺跡の夢をなんど見たことだろうか。もちろん単なる偶然なのだけど、そうと片付けたくないなにか(おそらくは少年時代の私)が、自分のなかにいまだひっそりと息づいているのも確かだ。
小説『山の老人』に、少年時代の思い出を書いたときには、こんな風に毘沙門天の情景を紹介した。
「阿形・吽形の仁王像が守りを固める山門をくぐってからの勾配の急な参道には、神域を守るかのように狛犬ならぬ狛寅が睨みをきかせ、さらに七福神を随所に配置する境内には、聖観音像、福石、縁結岩、弘法大師像などが点在する」
「熟れゆく空からは、それでも陽光が柔らかい光線のように木々の隙間に降りそそぎ、苔に覆われた狛寅や、林間にひっそりと立つ七福神像を祝福している。時として強い山風が生い茂った木々の枝々にバサバサッと無気味な音を響かせもする」
そして、小説では「サンカ」と思しき老人と出会うわけだが、ここでは関係がないので割愛する。
さて、この毘沙門天の山水は、名水としても知られている。少年時代はそんなことを知るよしもなかったが、遊び疲れて渇ききっか喉を潤していた。現在も「名水」であるからには、もちろん飲めるのだろう。そして、変わらずうまいのだろう。そう思う。しかし、なんだか飲む気がしないのはなぜだろう。
周辺の環境の変化がぼくをためらわせる原因のひとつではないか。先の小説には、当時の様子をこのように書いている。
「なぜ毘沙門天にかほどにこだわったのか、最初の理由は虫捕りであった。毘沙門天を懐に抱く権現山には、ぼくたちが「底なし沼」と呼ぶ、ズックを一足踏み入れればすかさずズブズブと木の葉の匂いを立ち上らせて、小さな足を飲み込んでしまうどろどろの湿地が多く存在し、クヌギの林を大きく育てていた。そんな林にはきまって大きな角を天に突き上げたカブトムシが、その黒いなめらかな光沢の鎧を鈍く光らせてぼくたちを待っていたものだった。
また、参拝客の口と手を清める権現山の湧き水を集めた細流は緑井地区を潤し、掌大の石のゴロゴロする隙間を流れるその澄み切った冷水に喚声を上げつつも石をめくり上げれば、薄紅色の沢蟹が鋏を振り上げた。その淡紅色の生物は不思議と少年達の嗜虐を誘うらしく、ぼくたちは鋏をむしりとったり、その薄い甲羅に手をかけてぐいと押し開いたりした。やや緑色を帯びた内臓が見えると、どきどきと高鳴っていたぼくたちの胸にスーつと冷水が入り込んでくる気がして、あわてて甲羅を綴じて逃がしてやったものである。」
今、毘沙門天から緑井地区に流れる細流は、大きくその姿を変えている。コンクリート護岸は以前からのものだと思うが、川底の感じがずいぶん違うように見受けられる。記憶を頼りの比較だからなんともいえないが、少なくとも数年前、試みに沢蟹を探してみたときには、一匹も見つからなかった。
本誌の読者にあらためて言うまでもないのだけど、このような細流が無数に集まってより大きな川を形成する。太田川の水質改善ということを考えたとき、これは大変な作業だなあ、そうため息をつかざるを得ないのだ。
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