●若者放談(14)

 親子の敬意あるつながり  2006年 12月 第68号


◎亀田父子の関係

 皆さんがこれをお読みの頃には、亀田興毅とファン・ランダエタのライトフライ級タイトルをかけた再戦はすでに終わっていることだろう。ボクシングについては、私自身少々触れた(かじった)のみで、専門的には語れない。ただ亀田の批判的な見方が多いのは事実であり、それにさほど異論はないけれども、ここでは置いておきたい。

 私が亀田について「いいなあ」と思うのは、ビッグマウスとして知られる彼が、父親への敬意や親愛を隠さないことである。たとえば、前回のタイトルマッチにおける苦戦に対する批判に対しても、「おやじのボクシングの100のうち一も出していない。別に次の試合も特別なことはせえへん」と「おやじ」という言葉を含めた表現を用いている。あるボクシング関係者に言わせれば、「練習熱心、ガッツある、パンチもある、だが、親離れしていない」となるようだが、ひとりの人間・父子・家族としてみた場合、これは高く買ってもいいのではないか。私たち現代人が忘れてしまった何かが、亀田家にはある気がするのだ。
 
◎父と祖父からの伝承

 私もこうして「環・太田川」に記事を載せてもらっているが、その理由を突き詰めていくと、「川や自然に対する愛着」ということになるだろう。そして、それを私に植え付けたのは誰だろう、と考えてみると、(亀田の例ではないが)やはり父であり、祖父なのである。

 私が幼稚園に上がる前だから、まだ三歳くらいの頃だったか、まだ赤ん坊の妹を背負った父は、私を連れて毎週のように武田山へと登った。私が自然に本格的に(?)触れた最初の経験だったように思う。今はどうだか知らないが、当時の武田山は蛇が多く、小さな私の目の前をするすると横切る場面によく出くわした。蛇がいるな、というのが感覚的に分かってしまうが、蛇に対するそのような警戒心は、このときまず養われたことは間違いない。むろん蛇についてだけでなく、山歩きの基本のようなものを体得したのは、父のおかげによるものだろう。

 釣りにしても、そうだった。釣り好きの祖父が語る様々な経験談にも大きな影響を受けたが、身近な父から学んだことが、やはり最も大きいような気がする。仕掛け・えさ・合わせなど技術的なことから始まって、待つこと・ガマンすることなど、現場で教わったことは数えられないほどだ。 

◎時代に伝える個性

 当然のことながら、父や祖父に対しては、肉親としての愛情だけではなく、「敬意」という言葉は適切であるかどうかは分からないが、それに類した感情が芽生えていたし、それは今も持ち続けている。男の子としてはそれを素直に表すのは癪だから、どうしてもひねくれたものになってしまうが、父にせよ祖父にせよ、子(孫)からの素直な経緯の気持ちは十分感じ取っていたはずだ。そうした敬意あるつながりが、良好な家族関係を作っていたのだと思う。亀田興毅にあっては、父に対する念が私などよりずっと強いのではないか。

 さて、翻って現代社会における家族の場合はどうだろう。私は非常に危機感を持っている。前述してきたような気持ちを養うために必要となる、父から子へと伝える技術や伝承の場が、消えつつあると感じられるからだ。 

◎多忙と画一化…

 まず、父だけの技術、というものが消滅しつつあるという問題。父にしかできないからこそ、生れる気持ちというものがあるはずだ。だが、この超高度情報化社会、画一化社会において、果たしてそのようなものが存在する余地があるのだろうか。私たちの世代にあっては、それは地域や自然と密着して存在した技術であったが、いまはその地域や自然そのものが失われる時代である。

 第二の問題点は、伝承の場・時の消失だ。私もそうだが、現代の父というのは、とことん忙しい。休みなんてなかなかないし、それが日曜日であるとは限らないのだ。自分を振り返ってみても、この一週間で我が子と触れ合ったのは計一時間に満たない。

 このような状況で、私が父に感じたような気持を、はたして我が子に持たせることができるのだろうか。うーん、と考え込まざるを得ないのである。

 そして、父→子といった家族間の伝承形態の衰退は、地域(すなわち老人・大人→若者)のそれの衰退に直接結びついていることも忘れてはならない。
 
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。