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●若者放談(10) |
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新しい三次の物怪は誕生するの? |
牧江由太 |
2006年 8月 第64号 |
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三次市に伝わる妖怪伝説「稲生物怪録(いのうもののけろく)」の主人公 稲生平太郎が肝試しのらめに登った比熊山に夜中、仕事の関係者と二人で登った。たたり石と恐れられてきた「「神籠石(こうごいし)」が目標地だ。満月に近い夜とはいえ、樹木が生い茂る山道は恐ろしい。カラスが「ねぐらを荒らすな」とばかりに騒ぎたてている。路傍のお地蔵さんさえも妙に不気味に思えてくる。一人では絶対に登ろうとは思わない。
稲生物怪録は、江戸中期の三次藩稲生武太夫(平太郎)が16歳のときに経験した妖怪談。空飛ぶ塩俵や門扉をふさぐ老婆の大顔…。7月の1カ月間、次々と面妖な妖怪が登場して驚かそうとするが、平太郎は動じない。最後の日には、平太郎の肝の太さに感服した魔王の山本五郎左エ衛門が、平太郎に木槌を授け帰って行くというのが標準的なストーリー。巻物はもちろん、たたり石や木槌が実在し、子孫もいることから実話だという人も多い。市民グループ「物怪プロジェクト三次」は今年も8月末に三次物怪まつりを開いて、町を盛り上げる。
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環・太田川前号の藤井さん流で三次市に妖怪伝説が存在する理由を探してみる。廃藩となった三次浅野藩の武士を勇気づけるための勇敢なストーリーを作り上げたのではという説がある。祇園信仰との結びつきを指摘する学者もいる。僕は、複数の河川が入り混じる三次盆地の霧を、妖怪を生みだす源泉と見ている。不謹慎な表現だが、時々襲いくる大洪水もまた、あの世とこの世とを結ぶ「三途の川」的な考えに結びついたのかもしれない。洪水があるということは、優れた治水技術が必要。8本?の川の氾濫に着想を得たとされる八岐大蛇伝説と同じような発想の展開があったのかも…、なんて想像して絵いるとやはり面白い。
たたり石の近くには、三次市街地を一望できるスポットがあった。地元の人たちが、山歩きを楽しむ人の為に林を切り開いているのだ、県北の雄と自認するだけあって、三次市の夜景はなかなかのもの。馬洗川に架かる三次市のシンボル巴橋がライトアップされ赤く映えている。この美しさを誌面で伝えたいと思ったが、三脚を持ち歩いておらず見事にぶれたので割愛。(その代わりに、恐ろしい?たたり石を載せておきます)
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その巴橋の上流をズームアップする。7月の豪雨で、馬洗川と西城川が交わる中州から草が消え、白い砂地が現れたのには驚いた。以前はうっそうと草が生い茂り、ちょっとの出水じゃビクともしないと思っていた。以来、日に日に表情を変えていく中州の観察が面白くて、巴橋を通るたびにしばし見つめている。上流からの流れが白い中州を削っていく。少しずつ草が生えてくる。次第に中州の形が枝分かれして広島湾にそそぐ太田川のようんい見えてきた。長い年月の末に今の状態になった広島市の造形運動を早送りで見ているような楽しさがある。
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今回の豪雨は、僕が三次に来て一番肝を冷やした。真夜中に、床下浸水や自主避難などの情報が伝わってくる。道路の冠水も数カ所に及び、コンクリートの護岸が壊れたところもある。頭をよぎるのは「昭和亜47年豪雨」という言葉だ。僕自身は生まれてもいなかったが、三次市内には当時の水害の猛威を記す記録板が数多くある。「もしや」と緊張感が走るが、堤防から水があふれることはなかった。
47水害以降、河川改修は急ピッチに進んだ。灰塚ダムもほぼ完成し、多少の豪雨では大きな被害は出ないのだろう。人命を守るという近代工学の意義を知った。それに敬意を表しつつ、コンクリートの巨壁に挟まれて直線的に流れる今の河川は自然なのかなという思いは残る。身の安全を保障された中からもの申すのも気が引けるが、自然の力が中州を一変させたことに少し留飲の下がる気がするのだ。
自然の脅威が減るとともに、自然の恩恵も減っているのだろう。ダムが河川を遮るなかで、天然アユの遡上が急激に戻ることはないと思う。そして人工的になった川からは、意味深な妖怪談は生まれそうもない。でも、人間が思いもよらないもっと恐ろしい魔の手を持っていそうで…。やはり川と上手に付き合う方法を考えねばなと思うのである。
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