●若者放談(8)

 妖怪と科学 (その2) 藤井直紀 2006年 7月 第63号


◎妖怪から科学へ?

 前回紹介した「お化けと森の宗教学」をはじめとする宮崎アニメの解説本にはよく書かれていることだが、アニミズムと呼ばれる信仰(自然界の現象や物事は「精霊を宿している」と考えている信仰)は、巨大な宗教の拡大によって端の方へ追いやられていったらしい。その歴史的背景はここでは説明しないが、もし興味があれば宗教本ではなく、最近ベストセラーになっているダン・ブラウン氏の「ダヴィンチ・コード」におおよそ描かれているので読んでみることをお勧めする。映画だけでなく本も是非ご覧いただきたい。

 妖怪が端に追いやられているうちに、「科学」という言語で自然と対話することが普通となってきたのだろう。きっと妖怪たちは肩身の狭い思いをしているに違いない。
 
◎科学は自然を翻訳しているか?

 妖怪たちに代わって自然の翻訳言語となってきた科学。その科学の特徴を考えてみよう。

 妖怪は感覚を研ぎすまさなければならない、ある意味能力を必要としそうだが、科学はちょっとした法則を理解すれば、ほとんどの方が科学を使うことが出来るようになる。
ただ、「科学が自然をだめにした」という人がいるように、必ずしも科学が自然の代弁者になっているわけではない、というような見方もできる。
しかし、これは包丁のようなもの(料理をするには便利だが、使い方を間違えてしまえば凶器になる)で、人間の使い方の問題ということが出来るのではないだろうか。都合の良い部分だけを翻訳して、自然全体を見切れていないというのが、これまでの科学なのかもしれない。
 

◎科学も妖怪化する可能性も

 一応私も科学者のヒヨコなので、自然が発している声を知るための、つまり翻訳言語としての科学を少しアピールしてみたが、その科学も危機に瀕しているという気がしてならない。その理由は2つある。

 一つ目の理由は、”理科離れ”。先程の法則が理解できれば科学を誰でも扱うことが出来ると言ったが、実はその法則の表現方法がややこしい。どうしても難しそうな記号や数式が並ぶことが多いので、敬遠されがちだ。あれをみて文系に進んだ方も多いことだろう。実は私もあの数式、特に偏微分などのややこしいものを見ると目がくらくらする。

 それから理科離れ対策として最近は体験学習を用いることがあるが、この体験学習もまたくせ者である。私がもっとも危惧するのが、「安全」に対する考え方だ。案内者・指導者が安全を計算尽くさなければならないのが、現在の体験学習だ。しかし、自然はそんなに甘いものではない。自然の中に入った者が自ら安全を確保しなければならないと私は思う。案内者や指導者はあくまで危険性があることを伝えることしかできない。危険があるからこそ、自然に対して妖怪や科学などを利用して理解しようとしてきたのが人間であり、そのあたりを保護者も教育者も理解していない気がする。このようなことだと、体験学習で理科を知り、自然を知ることなんて難しい。
 

 二つ目の理由は、専門家が定期観測をしなくなる(というより出来なくなる)可能性があることだ。定期観測の重要性は指摘されているが、成果主義の中で短期的な事業評価を求められるのだが、そう簡単に評価できるものではないので、その結果、観測のための経費は削られていく一方ということになる。近年は、住民の方々が海岸生物を調べてモニターしていこうという活動も盛んで、その面ではこれからデータが蓄積されていくかもしれないが、化学分析ともなると機器や薬品、技術が必要なのでどうしても専門家あるいは専門機関でなければならない。自然をモニターしなくなるということは、自然の危機を把握できなくなる可能性が高い。

 そんなこんなで、科学も自然から離れつつある。


◎妖怪学を・・・


 ここまで書いたことはあくまで私の勝手な思い込みだが、テレビなど遠隔で自然の情報が得られる中、実際に感じながら自然を知ることが出来る人間が少なくなっていることはいささか将来に心配が残る。科学を扱うことが難しければ妖怪学でも・・・・という気がする。

追伸 今月28日に日本テレビ系列で「となりのトトロ」を放映するらしい。トトロって自然の何を表現しているのか、そんなことを考えながら観て見るのも一興かと・・・。
 
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