●若者放談(4)

 川とつながる  2006年5月 第61号


 いまはもうペスト感染のリスクから輸入が禁止されてしまったが、ぼくはげっ歯類であるプレーリードッグを飼っている。とても人懐っこい上、立ち上がった姿や二匹がキスする様が愛らしく、コンパニオンアニマルとしては最適だと思う。オスのココアは今年で8歳ですでによぼよぼだが、一歳年長だったメスのプリン(プー)は、一昨年の夏に死んでしまった。

 動かなくなったプーを見ながらその生を考えたとき、つんとこみあげるものがあった。プレーリードッグは基本的に北米大陸の草原に野生しているものを幼いうちに捕獲して、日本に連れて来られる。まさに強制連行である。私たち飼育者がそれを助長しているわけだが、ともかく彼らは故郷を奪われた存在なのだ。

 故郷であるカナダの草原に返してやりたい、そう思ったぼくは、小さな紙箱にそのなきがらと向日葵の種(好物だったが肥満のもとなのであまりやらなかった)、フルーツなどを詰め、太田川へとクルマを走らせた。太田川の豊かな流れなら、故郷であるカナダまで彼女を届けてくれる、そんな気がしたから。そのときのことを十首ほどの歌にしているが、そのうち数首を紹介することで当時を偲びたい。

 
 四肢伸びてひんやり固き物体 となりおおせしをしばし眺む

 
カナダへと続く流れと見定めて 白き箱もて水葬に付す

 
天国で食べきれぬほどフルーツを。 太ってもよしと今こそ思え

 
草原のみどりの風よ真っ白き 帆のなき箱の羅針盤たれ

 
流れゆく白き墓なり行く先を みどりの風の故郷にさだめ

 えてして感情のままに綴った歌は、自己満足になりがちであるから、この一連は結社誌に投稿していない。でも挽歌とはそういうものだろうと思う。

 ところで、ぼくはこうしてプーの死を悼んだわけだが、実はぼくのこの行為はゴミの不法投棄にあたるということを指摘された。

 ふざけるな!生ゴミに出せとでも言うのか!

 一瞬、頭に血を上らせてから少し冷静になって考えてみた。ぼくが川に流したもののうち、紙箱については自分なりにかなり非があるのはたしかだ。和紙でないから、分解されるのには時間がかかるだろう。

 しかし、である。太田川は多様な生物を育み、その生と死とをその豊かな懐に抱く大きな河川だ。現に多くの小動物の死骸をゆっくりと土へと返しているのである。そしてぼくにとっては、幼少期に「自分の土台」を作ってくれた母なる川でもある。自分が愛する存在の死を悼むには、これ以上ない場所であると思った。インドの人達が神と崇めるガンジス川ではないが、ちょっとそれに似た気持ちを抱いているのかもしれない。少なくとも、水道水を供給してくれているという事実と、それに対する感謝以上の気持ちを持っているのは間違いない。
 
 ここであらためて、本当に太田川が小さな生物の死を受け入れられないほどに深刻な状況にあるのかどうか、検証する必要はあるだろう。もちろん、ぼくと同じようにペットのなきがらをすべての人間が太田川に流し始めたら…それは大変なことになると思う。
 
 しかし、川への信仰、敬意・畏れといったものは、「川をきれいに」といった立看板では決して生まれないものだ。人間の生老病死のどこか、生活のどこか、心の片隅でもいい、何かがしっかりとつながっていること、それこそが川に対する親しみを育む必須条件ではないだろうか。

 そのつながりを失った人間は、観賞用の水槽としての川を整備することができても、本当に豊かな本来の川を取りもどすことはできないだろう。マナーやエチケットとしての環境保全には、どこかで自然を見下す気持ちが含まれているのではないか。生活の一部でもいい、川に触れて生きること、それが本当の川を見つめ、川に対する気持ちを育む第一歩であると思う。


※1.編集部より…遺体を火葬にして灰を流してもよかったのでは?という意見が寄せられたことをご報告します。

※2.編集後記より…今月号の「若者放談」、プレーリードッグの水葬は、廃棄物処理法の不法投棄になるということで先月掲載見合わせたところ、編集部や掲示板で議論。掲載見合わせは「若者放談」の放談たる主旨をそぐ。ということで1カ月遅れの掲載となりました。
 
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