太田川と朝鮮人労働者
終戦時の幻の川船事故…水死者の背景は?
〜内藤隆男さんに聞く、太田川の発電所建設と朝鮮人労働者〜

 

 
 1945(昭和20)年9月、広島市安佐北区の太田川で川船が転覆し、朝鮮半島に帰国しようとした人達、十数人が水死した。この事件は敗戦の混乱から公的な記録はなく、一昨年10月22日付「中国新聞」で、石田信夫編集委員の取材で初めてその概要が発掘された。

帰国の夢かなわず水死

 石田編集委員の記事によると、船は安佐南区八木町の渡し場を出発、現在の高瀬堰の直下左岸の「猿猴(エンコウ)」という淵で転覆。日時は不明だが増水していたということから枕崎台風(9月17〜18日)の後と推測される。事故から数年後、当時の船頭(山崎さん)から直接話を聞いたのが安佐北区大林3丁目、高本広登さん(79才・・石田記者取材時)だった。

 船頭によれば乗客は可部周辺や太田川上流に住んでいた朝鮮半島出身者で、日本敗戦によって解放された故国に帰ろうとしていた20人以上。航行中、自家醸造のどぶろくを飲んだ人が静止を聞かず立ち上がり移動しようとして船がバランスを崩し十数大が投げ出されて死亡したという。

 終戦から一ヶ月、帰国を急ぐ人のために既に宇品や下関、仙崎などから「ヤミ船」が朝鮮半島に出港していた。遭難した人達は、台風で可部線が不通になったため、川船で宇品に向かっていたとみられる。

遺体収容の証言

 遺体が引き上げられたのは「猿猴」から1.5キロ下流、現在の安佐大橋右岸の川港「高瀬の浜」。当時16歳だった斎宏司さん(78)は「自分は広島商業の中学生で、日本製鋼所に学徒動員で行っていた。祖父が麻の商売をしていて、高瀬の浜の傍の蔵に麻苧がつんであったが、開いた場所にむしろを敷いて遺体が並べられていた。人々がアイゴウ、アイゴウと泣いていたのを覚えている」という。

 川内2丁目に住む木本忠さん(72)は、当時、両親と3人の兄弟で太田川の漁師をしていた。下の弟と父親が増水したので仕掛けた川力二網のゴミを取りに行く途中、叫び声を聞き、流れて来た子供を引き上げると、母親が肩車をしていて、2人を引き上げて近くの河原に下ろし、さらに流れてくる人を助けた、という。

 一緒に下った川船は2隻、父親は「転覆した船は女と子供だけで何故男はいなかったのだろう」と話していたので、男女に分かれた2隻の内、女性の方が遭難したのだと思う、という。

 助かった人達は近くの同胞の家にとどまって、川船を雇って何日も遺体の捜索をつづけた。遺体は対岸の矢口の河原で火葬した、という。

遭難者はどういう人? 〜内海隆男さんに聞く

 遭難した帰国者はどういう人々だったのだろう? 可部周辺や太田川上流に住んでいた人々といわれるが、その背景は? 本誌は広島における戦前の朝鮮半島出身者の実状を調査している内海隆男さん(「広島の強制連行を調査する会」)に広島県と朝鮮人労働者、特に太田川の発電所建設との関わりについてお話をうかがいました。 (取材・篠原一郎)

 
「遭難者がどういう人だちか?その背景を探るということですが…」



軍事都市開発の労働力として


 太田川の遭難者がどういう人か? いろいろ推測できますが、まずどのくらいの人が朝鮮から広島にきたのか? 資料によると、明治末期から大正にかけて1920(大正9)年までは千人程度だったのが、1930(昭和5)年には約8千人、1940(昭和15)年には約4万人、終戦前年には8万人に増えています。これは日清、日露両戦争の後、日本が朝鮮半島を領有し、その出兵の拠点となった広島が軍事都市として急速に開発が進み、その土木工事に労働力が必要だったこと、一方朝鮮半島では、1910(明治43)年の「韓国併合」以後の植民地支配政策によって土地を奪われた人々などが仕事を求めて日本に来たのです。

 日本は1937(昭和12)年に日中戦争、1941(昭和16)年に太平洋戦争に突き進みます。その中で、1939(昭和14)年から強制連行が始まりますが、それ以前から日本に来ていた人々がいます。だから日本で働いていた人、全てが強制連行されたわけではない。とはいっても全くの自由意志で来たのでもない。日本の殖民地支配が生活を壊し、それで日本に来ざるを得なかったと…。だから広島からハワイなどに移民したのと同じではありません。

 遭難者について考えられることは、一つは可部の北部に金明鉱山、向原町に鷹山鉱山があり、そこで働いていた人もいますが、太田川筋を考えると何といっても電源開発=発電所の建設工事に従事していた人達が圧倒的な数に上ります。

発電所第1号建設に50〜60人従事

 現在、太田川には全部で15の発電所がありますが、そのうち戦前に工事されたものは8発電所です。古い順にみると1910(明治43)年から2年間で建設された亀山発電所、これが第1号。現在の太田川漁協の事務所になっているレンガ造りの建物です。「芸備日日新聞」(明治44年10月4日)によると50、60人の朝鮮の大が働いていたということが分かっています。「韓国併合」が明治43年ですから、その翌年にはもう働いていたということが注目されます。

 次は1922(大正11)年から2年間で建設された「間野平発電所」、昭和に入って、1928(昭和3)年から2年間建設の「加計発電所」。つづいて1933(昭和8)年から1934(昭和9)年の「王泊ダム」=「下山発電所」、1937(昭和12)年から2年間
の「立岩ダム」=「打梨発電所」、「鱒溜ダム」=「土居発電所」。そして、強制連行期にはいってからの1940(昭和15)年から1944(昭和19)年建設の「吉ヶ瀬発電所」と、昭和1944(昭和19)年から1945(昭和21)年建設の「安野発電所」と、大正から昭和にかけてほぼ絶え間なくダムや発電所の建設が進みます。最初の「亀山」では50、60人でしたが、次の「間野平」では250人ぐらい、加計では町の人口5千人のところへ1500人の朝鮮人労働者がやってきたということで、働いたのは地元の人もいたけれど、ほとんどが朝鮮人労働者であったといってもよいでしょう。

労働の内容と調査の方法は

 電源開発の仕事は、水源となるダムや堰堤の建設、そこから水を引く導水路(トンネル)、水を落下させてタービンを回転させる施設の建設などがありますが、私たちは1992年から調査を始めて明治以降の広島県内で発行された「中国新聞」、「芸備日日新聞」、「呉新聞」など地方紙の記事から関連した記事を全て拾い上げ記録に残しています。またダムやトンネル堀りの現場近くの集落にでかけて、お年寄りを訪ねて当時の様子の聞き取り、ビデオや写真など収録、資料として保存しています。

 
「夫々の発電所建設についての特徴や分かっていることをうかがいたいです」



◆亀山発電所

 ここでは上流の今井田(左岸)と宮野(右岸)に堰をつくり、川に沿って左岸に2.5kmの明渠水路を筒瀬の対岸までっくり、そこから300m茶臼山の山中をトンネルを掘って亀山まで水を引いています。タービンはスイス製3台、発電機はドイツ製のものを買ったという記録があります。「芸備日日新聞」では「人夫は数百人で、多くは付近に住む男女であるが、朝鮮人が50、60人が関わっている」と書いています。宮野では太田川に初めてのコンクリートの堰が出来て川船の交通が自由に出来なくなり、苦情が申し立てられ後に、堰が崩れ、交通不能の時には1日4円の補償が支給されたという記録もあります。

◆間野平発電所

 ここでは、津伏で堰堤を築いて(現在も稼動中)導水路で5.5q山の中に水を通しています。津伏付近のお年寄りの聞き取りでは「朝鮮の人たちはチョンマゲを結っており、地元ではその人達を「ヨボ、ヨボ」といっていた。赤牛が牽いた荷車で大きな鉄管を運んでいた」という話を聞きました。「ヨボ」というのは軽蔑する言葉で、やはり差別意識があったのだと思いますね。

 中国新聞の記事(大正2年2月)では、朝鮮人労働者が3ヶ月間一銭も給料が支払われないと広島地方裁判所に提訴したということが書かれています。日本に行ったらいいもうけ口があるといわれてきたのに、厳しい現実があったこと、また朝鮮の人々も決して泣き寝入りしていたわけではないことが分かります。裁判の結果はどうなったかは分かりませんが・…

◆加計発電所

 今、加計の町から滝山川へ少しさかのぼると左岸に加計発電所が見えますが水を落とす水圧鉄管が、216mの山の上から敷設されています。本当に大変な工事だったのだろうと思います。私たちは全ての発電所の上にある水を落とす水槽まで見に行っているのですが、ここでも山の上にある水槽を見ようと山(五輪山)の上から回ったのですが、道もなく到達できませんでした。
 近くの猪山地区で、工事現場の親方をやっていた人の話ですが「仕事にノルマが課せられ、それが到底無理で、ひどいノルマなので、数字をごまかしてやっていた」ということを聞きました。中国新聞(昭和4年7月皿日)では当時加計町人口5千人のところに千5百人の朝鮮労働者が働いていて、妓生が2人いて引っ張りダコだという記事が載っています。

◆王泊ダム、下山発電所

 ここでは1934(昭和9)年8月にダイナマイトのかけそこないで、爆発事故が起きて、25人がなくなっています。このうち14人が朝鮮の人です。新聞記事では「哀号の声深山にこだます」(昭和9年8月5日「中国」)とあり、父や夫を失った家族の悲しみの様子が書かれています。近くのお年寄りの話で、慰霊塔があることを聞き、ダム近くの丘の上にある慰霊塔へ行きました。事故のあったその年に建てているんです。工事を担当した間組では慰霊祭を1千5百人が参加して行ったということです。

 四角の塔の土台に犠牲者の名前が彫ってあり金さんとか李さんなど朝鮮名を見て異国の地でなくなった人達の無念の気持ちを思い、その夜はなかなか寝られませんでした。1千5百人もの人が働いていたというのですから、ほとんどが朝鮮人労働者だったのでしようね。地元の人もいたが、農繁期などは休むので、その点、使いやすく、賃金も安い朝鮮人労働者を沢山雇ったのでしょう。当時の大きな工事は皆、朝鮮人労働者の手で行われていたといってよいでしょう。

 
◆立岩ダム=打梨発電所
◆鱒溜ダム=土居発電所


 ここは日中戦争が始まった1937(昭和12)年に工事が始められ、呉の海軍工廠への電気を供給するため建設されたといわれます。ここでは太田川本流の谷間に、千数百人の人がいたと記録されています(「戸河内町史」)。打梨小学校では子供達が入りきれないので、もう一つ学校をつくったということです。
 昭和14年に撮影された、鱒溜夜学校記念撮影の写真が残されています(戸河内町、野村直司さん所蔵)。ここの聞き取り調査では、仕事がきついので、逃亡する人が多かったということです。「炭焼きをしていた父親が逃げてきた人を、炭窯の中にかくまってあげた」という話。「つかまったら、たたかれ、松葉のいぶし攻めにあわされた」という話などを聞きました。

 鱒溜ダム、土居発電所は、立岩ダム、打梨と同時に行われています。ここもトンネル堀など、大変な工事だったようです。ここでは朝鮮の人々が花見をやった時の写真が残っています。(野村さん所蔵)この大きな桜の木は今も根っこの株が残っています。
 
 立岩ダムに沈んだ吉和村下山地区は69戸の家が立ち退いていますが、生まれた土地を守るといって、最後まで立ち退きを拒否した人がいて、ダムの水が家の2階にまできて、仕方なく船で退去した、という話も聞きました。そういう歴史があって現在のダムや、発電所があるんだということを、恩恵を受けている都市の人はみんな知らなければいけませんね。

◆吉ヶ瀬発電所

 1940(昭和15)年から吉ヶ瀬、引き続き安野発電所の建設から強制連行による労働者も使っています。「中国新聞」(昭和17年6月口日)に「山県郡西松組丸山部隊移鮮集団夫一同」が国防献金をしたという記事があります。

 この「移鮮集団夫」というのが強制連行をあらわしています。強制連行というのは、「募集」、「官斡旋」、それに「徴用」と3つがありますが、いずれも強制、半強制的な形で連行されたものです。吉ヶ瀬は1944(昭和19)年まで、4年間かけていますが、これは上流の土居発電所の下や筒賀川から取水した水を7kmもの長い、導水路を掘る工事になったためと思われます。

 ここでは、発電所取水のため流量が少なくなり、筏流しによる木材運搬が不可能になるので、地元町村は、事業主の日本発送電kk(現・中国電力の前身)との間で、導水路の申を木材を流して運搬するよう交渉の結果、木材運搬用施設などを設置することを条件に発電所建設に異議なし、という答申が1939(昭和14)年10月に県に提出されています(「筒賀村史」)。

 吉ヶ瀬発電所の114mある水圧管の側には導水路をながれてきた木材を太田川まで落とす水路がもう一つ敷設されています。地元の方のお話では、この方法では木材が傷むので長くは利用されなかった、ということです。


◆安野発電所

 ここでも水源ははるか上流の加計発電所の下、滝山川と丁川に取水囗があり約7.7qの導水路が掘られていますから1946(昭和21)年まで3年かけています。ここは中国人労働者360人が強制連行で連れてこられたことで有名ですが(註1)、吉ヶ瀬から引き続いて働いた人も多かったのではないかと思われます。当時の「特高月報」(特別高等警察の月報)によると、中国人と同時に800人の朝鮮人労働者が働いていたという記録があります。ここには「日本は負けるに違いない、希望を持って生きようと説いてまわる人がいた」と書かれています。

 それから近くにある善福寺には中国と朝鮮の人々の遺骨が納められています。中国の人の遺骨は返還されましたが、朝鮮からの13人と9人の嬰、幼児の遺骨は今もあります。(註2)

 1945(昭和20)年8月、日本が敗戦。地元のお年寄の話では坪野の集落までは、当時可部線の鉄道敷設のための土盛りがされており、8月末〜9月にかけては、そこを通って広島の方へ帰る人達の行列が何キ囗も続いていた。近くの小学校の黒板には朝鮮の人により「日本は負けた…」という文字が書いてあった。といいます。こうした人々の中には可部まできて、台風のために鉄道が不通で、川船で宇品に行こうとした人がいたことは充分考えられることですね。


 以上当時の新聞記事と現地の聞き取りから太田川における電源開発と朝鮮人労働者の実態を今、分かる範囲でお話しましたが、調査はまだ続いていますし、いずれこれまでの調査結果をまとめたいと考えています。

 註1〜安野発電所の中国人生存者は強制連行の真相究明、公式謝罪、賠償などを西松建設、日本政府に要求して1998(平成10)年広島地方裁に提訴、今年4月、最高裁は原告が全面勝利した広島高裁判決を破棄、「個人の裁判上の請求権は日中共同声明により放棄された。しかし西松建設は強制労働で利益を得たので、被害者の救済に努力を期待する」との判決を下した。

 註2…最近の日韓政府の協議で、日本に残された朝鮮人の遺骨を返還することが課題になっており、日本仏教会で全国の寺院に安置されている遺骨の調査が進められている。昨年11月現在、全国で軍人、軍属を除く1720体の遺骨が確認され、韓国に報告されている。西本願寺広島別院の調査では 広島西部の教区で22ヶ寺で50体の存在が確認されている。
 
 
 
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