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平和への願いを込めて千番まで
世界に広がった歌詞創り |
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過去5年間マスコがミが抑えて来たニュース
去る八月六日、朝日新聞は8・6広島原爆の日別刷特集を組んで世界の平和を願う歌を挙げ、その中で「膨らむ歌詞955番」として大州中学校平和学習の中から生れた『ねがい』を紹介した。
またその三日後8月9日の26面で「願いつなぐ千の歌」のタイトルで、この大州中学校の『ねがい』が世界に広まり、「五番の歌詞を作ってとの呼びかけで集まった世界各国からの様々の言葉での歌詞が遂に千番を越えた」ことを報じている。
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5年も前のことが今になって漸く報じられるのも変なことだが、平和ということにマスコミは触れない体勢ができているためで、その点からは朝日新聞の今回の記事はむしろ評価されてよいことかも知れない。念の為にその記事の一部を紹介しておく。
*「02年、広島市立大州中学の3年生が平和学習のなかで作った詩や作文をもとに歌詞ができ「広島合唱団」のメンバーが曲をつけて「ねがい」は完成。03年、教師や生徒の国際ネットワーク「iEARN」アイアーンの国際会議が兵庫県で開かれた際、神戸市の長田寿和子教諭が歌を会議のテーマソングにしようと提案。各国の参加者により歌詞が10カ国語以上に翻訳され会議で歌われた。さらにネットワークのホームページで「歌詞の5番を作ろう」と呼びかけたところ、国内各地や世界の中高生らから歌詞が次々寄せられるようになった。米国、イラン、シエラレオネ、ニカラグア、ロシア、台湾など20以上の国や地域から・・千番目は長野県の女子中学生から・・
大州中学で原曲の製作にかかわっだ横山基晴教諭(現在宇品中学校)は「これだけ集まるとは・・平和を求める思いは世界共通なのだと改めて実感させられた」と話す。
以上が概略だが「5番の歌詞づくり」はまだ続いている。またこの歌のCDもできている。
平和の問題をマスコミがとりあげないことについて、広島合唱団の熊谷勇二さんは、「私か所属している広島合唱団は、日本のうたごえ運動に加盟している広島で数少ない合唱団です。過去の歴史の中でいろんな歌が作られてきましたが、私たちの創作活動或はコンサートなどについては残念ながらマスコミはとりあげません。私たちが創りあげた歌はメディアに載らない。『原爆許すまじ』・・・・これにしても創作された当時は放送されましたが、今では取り上げられません。大州中学校で創作された『ねがい』はマスコミに登場するには至っていませんが今世界中を駆け回っていることを知ってほしい。この歌詞が広島のイマジンだと言われるようになっているんです。」と語っていた。
ともあれ、この大州中学校の取り組みは活発な事例だが、現在の広島県下の学校教育の中での平和教育の現状はどうなのか、というところを見よう。
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本年4月28日広島平和記念資料館会場において「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」(第7回)が行われ、その中で記念イベントとして「学校における被爆体験の継承と平和教育」の題でシンポジウムが行われた。(写真)パネラーは市内の小・中・高校の代表(国貞守男・横山基晴・中川幹朗)、コメンテーターは豊永恵三郎・篠原収らであった。
このシンポで明らかにされたことは広島平和教育研究所が過去に行っている平和教育実態調査の集計に見るように、小・中、特に小学校での平和教育は危機的な状況にあるということのようだ。具体的な項目で言えば、広島県内の公立の小・中学校で平和教育に関する年間カリキュラムを作成している学校の割合は、10年前の97年には95%と殆どの学校で作られていたが、その7年後の04年には僅か24%弱に減少した。カリキュラムのない学校が75%にもなっているのだ。これはどういうことなのか?。平和教育研究所の分析では98年以後、文部省是正指導の名の下に行われた広島県教育委員会の政策に大きな原因があるという。このため、
1、校内の校務分掌の見直しが行われ、平和教育や同和教育の推進委員会がなくなった(校長や地教委の指示による)。
2、教育内容から平和教育が除外された学校が多く、年間カリキュラムのある学校の中でも「平和教育」という文字が出せず、「国際理解」の名称に変えている。
3、やりたいことがあっても、校長や地教委のチェックが入り「やらされる」内容しかできなく、意欲が低下している。
4、社会見学の見学先もクレームをつけられる(平和記念公園、平和記念資料館など)。
5、日本の戦争の加害責任については制約があり、教材化か困難。
6、教職員の研修、認識が不足してきている。
7、平和教育がおざなりにされいる現状を保護者や地域の人が全く知らない。
などという学校の状況が語られている。98年の文部省是正指導の中では「日の丸・君が代」の強制が行われ、教職員の組合活動に対する妨害や同和教育つぶしなどが行われた。一例を挙げると、県東部のある小学校では、それまで毎年行っていた全校児童で千羽鶴を折り「原爆の子」の像に捧げる取り組みが管理職によってストップがかけられた。「教育は中立でなければいけない。子どもを運動に巻き込む」ことになるから。という驚くべき理由であった。
大州中学校から現在の宇品中学校に転勤して今も精力的に平和教育に取り組んでいる横山教諭(パネラー)や、このシンポに参加した城南中学校の加藤知之教諭のように「平和科教育研究会」という学習サークルを造って道徳の時間や生徒会活動の中での平和教育の実践に意欲的に活動している人たちもいる。しかし今までに述べたように広島県の多くの学校で課題意識のある教職員が減り、また厳しい管理・規制の中で平和教育が危機的状況に直面していると言えるのではないだろうか。 |
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『原爆許すまじ』
1、ふるさとの街焼かれ、身よりの骨埋めし焼け土に、今は白い花咲く、
ああ許すまじ原爆を、三度許すまじ原爆を、われらの街に。
2、ふるさとの海荒れて、黒き雨喜びの日はなく、今は船に人もなし、
ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を、われらの海に。
3、ふるさとの空重く、黒き雲、今日も大地覆い、今は空に陽もささず、
ああ許すまじ原爆を、三度許すまじ原爆を、われらの空に。
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本誌既刊の被爆体験記から
本誌では創刊の01年より毎年8月には読者の被爆体験記その他戦争と平和の問題をとりあげてきました。まず01年の第4号では滝口秀隆さんの強烈な被爆体験を紹介しました。
「その朝その時、私たち母子三人は白島の家の前に立っていた。巨大な火の玉が落ちた瞬間、妹を抱いていた母は首から背中を焼かれ、妹は頭を焼かれ、私は爆風に吹き飛ばされて井戸の端に頭を打ちつけ気を失ったらしい。私の名を呼びつづける母の声で気がついた。当時私はまだ5歳であったうえ、頭を打ったためか前後の記憶が途切れ途切れである。ともかく火を避けるのに川の中洲が安全と考えたのであろう。母は1歳の妹を抱き、私の手を引いて川へ入っていった・・・」(この時の滝口さん母子の姿は平和公園前の母子像そのものであった。)
02年の16号には二つの記事があります。一つは被爆直後の猿楽町を描いた絵馬が拝殿にかかっている稲荷神社(安佐南区)と、その証言者の明神倭子さんの話。
03年の28号には皆実町の学寮で被爆、建物の下敷きとなり、崩れた天井や屋根を突き破って脱出した河野和之さんの8月6日・7日の体験記。
05年の52号には「黒い雨」を旧加計町野竹で体験した人達の証言集があります。
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