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太田川源流の森・エコツアー体験記
〜水の誕生を実感!〜
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2008年 8月 第88号 |
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7月26日(土)、27日(日)両日、2回にわたって吉和文化教育センター所長の竹田隆一さんの指導で、廿日市市吉和の冠山水源を訪ねるエコツアーを実施しました。初日は7名、2日目は9名と参加者は少なかったのですが、大変中身の濃い実り豊かな体感学習になりました。
参加された3人の方々にツアーの感想を書いていただきました。
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多様な生命の循環が生態系をつくる・:自然の偉大に感動
岩本有司(広島大学生物圈科学研究科。大学院生)
今回、私は初めて太田川の源流まで行きました。標高はおよそ1000m、片道3時間の険しい道のりでしたが、参加者の方々との会話や、美しい景色を楽しんでいたら、あっと言う間に時間が過ぎてしまいました。源流の森を自分の庭のように案内してくださった竹田さんは、「今日はありのままの自然を観察し、体で感じてほしい。そして、自分が感じた事実から、物事を考えてほしい。」と、素朴な目で自然を「観察し、感じ、考える」大切さを強調されていました。
森を歩きながら、竹田さんは自然を注意深く観察し、私達では見逃してしまうような小さな現象を拾って、考えるためのきっかけを与えてくれました。スギ林とヒノキ林の様相が違う理由や、ごく自然に見える森の中に潜む不自然について、観察から浮かび上がる疑問点を基にみんなで考えてゆくうちに、少しずつ、森の事が見えてゆく感覚を得る事ができました。
竹田さんは、「森を構成する生命は、ひとつとして同じものは無いけれど、全ての存在に理由があり、何らかの意義を持ちます。そして、今ここに存在する全ての命が、未来の森の姿を造り出すきっかけになります。」と、1つとして同じものはなく、多様な生命が個々の役目を果たしながら循環する事で、森と言う複雑な生態系の姿を作り出す事を、分かり易い言葉で私達に示してくれました。確かに、立ち止まって森を見渡せば、動物や植物、土など、この森を形づくる全てのものが、何らかの姿を持った生命であふれていると実感する事ができます。そして、「全ての命を支えるために必要不可欠なのは水であり、命は水で溢れています。」と言う言葉を聞き、この山の源流が命を支える根源であると言う事を意識しました。
急な斜面を登る長い道のりの中で、自然から色々な事を学びました。その経験を通して、今回のエコツアーは太田川流域の「命の源を訪ねる」と言う意味があると感じました。源流の水は、斜面にポッカリと開いた洞穴から滴り落ちていて、冷たく、少し土臭さを含んだ風味でした。それを飲みながら、この水が流れる先に、到底知りえないような複雑な命の循環が広かっているのだと、自然の偉大さに感動しました。
最後に川の下流へ向かう水に「いってらっしゃーい!」と言いながら、みんなで手を振りました。そろそろ、あの時に見送った水が水道から出てくるのではないかと想像しながら、自宅の蛇口を捻っています。
記憶に刻む私の中の自然の森
宮林奈央(広島大学生物圈科学研究科。大学院生)
「さあ、今この場でなにか気づくこと、おかしいと思うことはありませんか?」
竹田さんとのエコツアーはこういって始まりました。
帽子にズボンに靴の(普段は全くしない格好です!)山登り完全武装の私達は、吉和村を拠点に環境教育に取り組んでおられる竹田さんの先導で、山中に誘われていきました。そこでさっそく上記の様な質問が・・・。
周りを見渡すところ、右手にはきれいな緑の杉が、左手にはヒノキが生い茂っています。杉の根元には杉が自ら落した枝と葉、そしてそれに覆われて下草が沢山生えています。ヒノキは根がでており、根元の周りには何も生えていない。あまりこのような場所にはいることのない私たちには、全てが自然に見え、おかしいところといわれても・・・?? 竹田さんは「子供でも気付くのに」といいながらも、答えを教えて下さいました。
間伐されないヒノキ林の悲惨
まず杉とヒノキがきれいに別れているのはおかしいんですね。植林というヒトの手が入ることで、自然の中の不自然が生まれるという竹田さん。最後の植林が終わった30年前から、この森はヒトの手が加えられていません。杉の森は下草も生い茂っており、それらによって土に大量の水を蓄えることのできる、豊かな森となっていますが、ヒノキ林の方は根も露出しており、土も少しづつ流れ落ちています。これは、他の植物の生育を抑制するヒノキの特性なんだと竹田さん。
ヒノキの近くには他の植物は芽生えません。だから間伐されず、放置されると、下草が生えず、雨に打たれると土砂が一気に流出してしまう森になるのです。なんでこんなことになってしまうのか?。かつて木材資源が必要だったが、この森から間伐することをやめた林業者?それを委託していた他の業者?海外から安い木材を輸入するようになった政府?・・・これらの一番根底にいるのは、木材製品を使う私達です。私達の行動の結果、このような森を作り出しているという現状をまじまじを目の当たりにしました。
私達は、自然を破壊せずに生きていくことはできません。そのことを理解し、被害を最小限に食い止めて、自然と共存していくしかないのだと肌で、感じました。なにげなく山に登るだけであれば、気づくことはなかったでしょう。
このように竹田さんの話で、自然の本質へと近づいた私達は、自然への感謝、畏怖といった感情を抱きながら、源流ポイントを目指していきました。
冷たい源流の水のおいしさ
講義を聞きながら3時間ほどかけて山を登り、昼1時には標高1000mの山の太田川源流ポイントにいました。サンショウウオもいるという(今回は見れませんでした。残念。)崖のそり立つ源流ポイントで、冷たい源流の水を口いっぱいに含む私達。やっと辿り着いた源流の昧は少し土臭かったです。それでもおいしかった!下りは、ペットボトルいっぱいの源流の水を飲みながら帰りました。
山を下った最後、そこで下流へと向かう川の水に「いってらっしゃーい」といったのが印象的でした。ありがとう。そしていってらっしゃい。このエコツアーの先生は、この自然だったんですね。
自然いっぱいの吉和村から、普段の生活に戻ると、すぐに溶け込んでしまいましたが、住んでいる西条に戻って、コンクリートジャンングルに溶け込んでしまっても、昨日までの私とは少し違うかもしれません。私の中には私の自然の森ができました。水と緑に祝福された私の森では、根元には下草を生い茂らせた様々な種類の木々、そしてたくさんの生物たちで今日も溢れ返っています。
一番ハツとしたこと「全てに生命があるから…」のことば
大成卓司(呉市在住)
私は山に登って、草花や風景などを撮影して、それをホームページで紹介してきました。あまり自然に触れる機会のない方に、山歩きの良さやこんな花やこんな大きな木があるのだと知ってもらって、より自然を楽しむ為のきっかけ作りを提供しようと思ってやってきました。でも、今回のエコツアーに参加させていただいて、自分には「気づき」の力が全然足らないのだな、と考えさせられました。
勉強になったことはいろいろあるのですが、一番ハッとさせられたことがあります。
それは「何故、この森の中に居ると気持ちが良いのか?」という講師の竹田さんの問いかけ。大気に水分が満ちているから、川のせせらぎが聞こえるから、木漏れ日がきれいだから、マイナスイオンがいっぱいあるからなどいろいろ意見が出ましたが、竹田さんのお答えは「生命が満ちているから。ここから見えるものには全て生命があるから。」ということ。
言われれば確かにそう。と納得したのですが、この答えを聞いて、思い出したことがあります。
それは以前、西中国山地のある山の頂に立った時の光景。見渡す限り延々と続く山並み。人家も無く、空の青と雲の白、山の緑だけの世界…。
山に登られない方は意外と思われるかもしれませんが、山頂から人工物が見えない山というのは、殆どありません。人家が無い山奥でも、送電線や鉄塔、傷のように見える山腹の道路が見えます。実は霧で見えなかっただけで、その山からも人工物が少し見えるのですが、見えるもの全て(空や雲には生命はないですが・・笑)に生命が宿っているという光景は何とも形容し難い感動があります。
なのに数年後、上の問いかけを受けたときに答えることが出来なかったのです。確かに感動はしたのに、なぜ感動できたのかをその時に考えなかったのです。
自然をメインに写真撮影をやってきて、湿地を好む花、日当たりの良い所を好む花などどんな花がどんな場所を好むのか何となく分かってきてはいるのですが、では何故その花がそんな環境が好きなのかは分かりません。そこから先は研究者の領域と言われればそれまでですが、竹田さんも仰っていましたが、そうなったのには理由がある訳で、どうしてそうなったのかを考える洞察力が必要なのだろうと思います。しかし、どうもこの洞察力というか、その前段階の気づきの力が自分には不足しているようです。他人様に偉そうに「きっかけ」を提供するには力不足ですね(笑)。
そうなったのには理由があって、今の状態が未来の状態のまた理由になり、それが延々と続く・・
「気づき」「洞察」することが出来るようになれば、もっと自然を楽しめることができそうです。
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