「地域」

(第二話)

(第三話)

●郵便配達の見た町と人の暮らし(第一話) 2005年 9月 第53号


 加計の栗栖昌好さん(64歳)はすでに10年前に郵便局を退職して今は町内の福祉関係のボランティアや各種の文化活動など広い分野で活動しておられる。出身は上殿で代々石工の家系。ご本人も少年時代に経験したが思わぬことから突如郵便局員に転身、以後38年間集配の仕事に使命感を持って勤続されてきた。その栗栖さんに郵便局の仕事、(今騒いでいる国会議員さんたちの知らない)苦労話などを聞いてみた。
 

〒 少年時代(養子入り〜石工)

 うちは上殿村だったんです。上殿河内ですよの。下殿河内と下筒賀村は一緒になって殿賀村になった。上筒賀と中筒賀がいっしょになったのが去年までの筒賀村ですよの。殿賀村と加計町は昭和29年に合併しましたが、上殿は戸河内に入りました。(上殿河内は明治15年に上殿村に改称し、その後昭和31年に戸河内町に合併した・・編注)

 上殿の私の家は祖父、父と代々の築前石工(つきまえいしく)でした。石工には三通りあります。築前石工と割前石工(わりまえ)と彫刻石工で、「わりまえ」は石切り場で採石する仕事。「つきまえ」は積む仕事。彫刻は神社仏閣などの石塔や石造細工の仕事というように分かれとります。祖父は築前石工で本川橋の橋脚を築いたのが原爆後の今もあの位置に残っとるそうです。父の仕事は殿賀のかみの堀の八幡神社の高い石垣を築いたのもその一つです。堀の八幡さんは殿賀と上殿の人が氏子ですけえ。


 当時の内の家には5人の子供がおって、五つ上に姉、三つ上に兄がおりました。私が三番目で、私の下に三つ違いの妹と、五つ違いの弟がおりました。それで伯母が高下にいて、年寄り夫婦で子供がいないということで、うちの5人の中で私が養子で伯母の家に貰われていくことになったんです。昭和24年でした。河野姓だったのが栗栖姓に変わったわけです。ほいじゃが、その二年後に兄が急死しました。兄は中学二年の時でした。ま、兄は体の弱い方ではなかったんですが・・・。

 中学を卒業して七塚原の農業専門学校へ行きましたが一年で帰り、やっぱり石工の仕事見習いに就きました。三反百姓じゃあことにならんですけえ。その頃はサラリーマンというのは体が小さい、弱いいうような人がなりよった。体のがっちりしたのは職人になるという時代で、職人は大工さんもおるが、この辺ではやっぱり石工ですね。岩国錦帯橋の架け替えなんかも此処の人が行くんですけえ。

 それで私もやっぱり石工の弟子になって、師匠は父は早く死んだんで、父のいとこなんです。今も上殿で生きとりますが・・その弟子になって・・石工の仕事は弟子入りしてすぐ見習いでもなんぼうか日当が貰えるんです。私が行ったのは割前で、川原で石を割るんで雨が降ると仕事にならんのですが、半日やっても千円になりよった。それがね、一年足らずで辞めて郵便局の電報配達になるんですが、電報配達は一日出て220円だった。それだけ差があったんです。まあその代わり石工の仕事は朝五時ごろには川原で石を叩きよりました。一日石を叩いて、200個くらいトラックに積む。あゆみ言う板を一本橋にして肩へ乗せて積む。それで無理がいってまだ若いやおい骨がだんごになってしもうた。今は腰痛で治療しようもない。若うて歩くうちは筋肉が張っとるけえまだよかったが、筋肉が細るとどうもいけんです。

 ま、それはともかく、たまたま職安へ行った時にそこへ電話があって、「おーい栗栖さん、郵便局からの電話で電報配達が一人要る言うんじゃが、どうや、行ってみんか」と声をかけられたんで、「はあ、ほいじゃあ行ってみます」言うて答えたら、紹介状を書いてくれて、その足ですぐ郵便局に出向いたら、「ほいじゃ明日朝から出てくれ」いうてとんとん拍子に決まってしもうたんです。何やらそういう運になっとったようなね・・・

 私の人生10歳終わり頃までは言うなれば波乱がいろいろあった訳で、郵便局へ入るまでの略歴を並べてみますと、こういうことですね。

 昭和16年2月、上殿村長田で生まれる
 昭和22年4月、上殿小学校入学
 昭和23年8月、実父河野政美死亡
 昭和24年8月、殿賀村高下の栗栖九一郎・ミヨノ家に養子入り。
 昭和24年9月、殿賀小学校に転校
 昭和31年3月、殿賀中学校卒業
 昭和32年3月、県立七塚原経営伝習農場修了
 昭和32年7月、割前石工として弟子入り
 昭和34年8月、身体不調で辞め、加計郵便局に入る
 
〒 電報配達

 今頃は電報がないけえ初めから郵便配達教えて歩きますが、あの頃は電報配達から入った。一日中ずっと待っとるんです。電報が入ると行き先を内勤の人に聞いて持っていく。それを何カ月もするうち丁川がどこじゃ、津浪がどこじゃと覚えていく。あの頃は生まれただとか死んだとかいうのは電報でしょ。農村集団電話がまだない頃じゃけえ。そりゃあ電話交換手いうのもおるにはおりましたがごく一部の家にしか電話はない。

 電報係は常勤と請負とで、ずっと24時間体制でおりました。電報が全然来ない日はなかった。1日に7〜10通くらいはありました。それから配達する地区が町村を越えたところもある。猪山は戸河内じゃが電報は加計局の範囲じゃった。他にも上殿は郵便の配達は行かんが電報は加計局から行きよったし、木坂や杉の泊も私らが行きよったです。旧殿賀村・上殿村は上殿郵便局がもっとるが、電報だけは私らが持って行くようになっとった。

 葬式があったりしたら何十通ですよ。今頃はまとめて葬式前に持ってったりしますし、弔電も少ないですがね、あの頃はまじめなしぃ、また怒られるけえ直に持って行く。帰ってみりゃあまた来とる。ほいで何べんも往復したことがあります。うまいことやるようになりゃ、11時葬式なら10時半まで待っとろうか・・いうようになっていってね・・。

 昭和34年の8月に入って五か月後に郵便の配達を習わされた。所を覚え、家を覚え、人を憶える。私らの頃は一日連れて歩いてもろうて、明くる日から一人で配達せえいうて。そのうちに何処のどの家にはどういう名前の人がおってか名簿を見ずに全部頭へ入る。表の戸を開けて郵便を入れる家は右開けか左開けか憶える。これはね、留守の時に右側の戸を開ける家では左側に下駄箱があることが多いけえ、左の戸を引っ張って隙間から郵便を入れると下駄箱の後に落ち込んで、知られずに何日も過ぎてしまうことがあるからです。

 今頃の配達は違います。私らの頃は局員は全部加計町の人だったんです。今は島根県の人がおる。ほいで3年から5年先には余所の局に転勤になるんです。ほいじゃけえ憶えちゃあいけんのです。ファイルがあって、12軒ずつ戸主の下へ家族の名が書いてあるのを見て、何番目じゃいうて順番に出していく。今は私らの頃とは配達方法も違うんです。
 
〒 郵便業務の紆余曲折

 その後、電通合理化で電報電話局が建って分離したんです。加計の局には35人くらいおったのが電報の方へかなり行って、郵便局の方は内勤外勤含めて17人か18人に減ったんです。この方じゃあ加計が一番先になって、それから戸河内がなって、猪山、筒賀、坪野、安野も最後にね。

 郵便局には普通局と特定局があり、それぞれに集配局と無集配局がありました。広島市も普通局は中央、宇品、東、西と他に中と胡くらいで、あとは殆ど特定無集配局ですね。大手町や翠町や街角にいっぱいありますね、県庁内にもある。全部特定郵便局の無集配局です。集配人がおらん局です。普通局でも広島中や胡は無集配普通郵便局です。東、西、中央、宇品じゃのは集配普通局です。

 特定郵便局いうのは小さい言う意味じゃあないんです。局舎が局長のものなんです。郵政省が家賃を払いよるんで、局長は自分の息子に次代の局長を継がすことが出来るんです。自由任用制度がある。給料は国家公務員で出るんですが、例えば福利厚生費・・コーヒー代じゃの経費が渡しきりなんです。1万円なら1万円でやれ。家賃は家賃でやるけえ、修理は10万円なら10万円、何は何ぼうでやれえというような渡しきり経費でやっとるんです。これは明治の頃からの名残で、最初はその土地の豪族に名誉欲だけでやらせ、局長は無給で、局長が局員を雇うて始めたんですよね。それがだんだん恩給がついたり、給料もでるようになった。


 今郵政民営化でもめよりますね。局長は反対しよりますね。広島県全体でも普通局はごく僅かですけえ。こっちの方面じゃあ安芸吉田と可部と祇園としかない。他は特定局で各町名のついとるほとんどにありますね今は。この辺では加計、上殿、筒賀、安野、坪野、戸河内、このうち坪野は無集配局です。他に簡易局が猪山、松原、寺領にあります。

 猪山簡易局は珍しい局で、土地の豪族じゃあなしに地区が局舎を提供して教念寺の住職さんを局長に雇うて造った無集配局で、今は建てかわっとる。今の局舎は郵政互助会から費用を借りて建てた。

 今まで町村合併はあったが郵便局は合併しとらんけえ、木坂や鵜渡瀬や堀は上殿郵便局の縄張り、杉の泊も上殿局の範囲です。

 加計郵便局の配達の範囲は旧加計と猪山とです。猪山は戸河内町いうても戸河内から配達できんですはね。配達はずーと私らがやりよった。もっと遠い所では猪山の奥に追付郷とか平見谷いうやっぱり戸河内の地区があります。ここは別に雇いの人がおって私らが猪山まで持って行くのを待ちよります。私らは順番で週1日は休暇がとれるが平見谷の人は年中毎日休みなしです。簡易局は土曜日閉まっとるから民家で待ちよってです。 
次号につづく
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。