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太田川聞き廻りの記

その二十一 櫓の話 太田川船の歴史あれこれ 2008年 6月 第86号


 全国各地の民俗館、郷土資料館に木造和船やその操船具の標本類が陳列してあるが、広島市には市立郷土資料館(宇品二丁目)に太田川の荷船の復元船が、帆・櫓・櫂(カイ)・棹(サオ)などをつけて展示されている。ところが、これを見た時にたいへん気になる点がいくつか目につくので、ここではそれを元に話してみよう。

 その前に、まず櫓の構造の概略を述べる。現在太田川にあるのは全て漁船ばかりで、櫂と棹しか備えてないが、荷船の時代には櫓があった。櫂と櫓はどこが違うのかということでは、櫂は水を推して推進するのに対して、櫓はたわみを利用しての揚力を用いることであり、スクリューやプロペラと同じ理論をもつ。
 櫓の歴史は古いが、一木でできた直櫓(スグ囗)に対して、別材の腕木を接続した接櫓(ツギロ)が登場するようになるのは近世からだと言う。先ずその部品、付属品の説明をする。櫓羽(ロバ)は単に羽とも呼ぶ。羽の長さは海の船では用途によって大きな違いがある。櫓の長さが何尺と言う場合は羽の長さのことだから、例えば一丈五尺の櫓と言えば、その全長は腕木の長さを加えて重ねの部分を引いた数となる。
 次に羽の下側にイレゴが着く。漕ぐ時にログイに嵌めて漕ぐが、その支点となる所で、ログイに嵌め込む為の凹みがつけてある。

 一方の羽に接続する腕木は、羽のように種類による長さは大きな差はないが、輻は違う。瀬戸内の海船では平腕と呼ばれ、平たくて膨らみがある。特に膨らみの大きいものはビワウデ(琵琶腕)と呼ばれた。楽器の琵琶を連想させる形状という所からそう呼ばれた。内海の穏やかな所の船の櫓腕は殆ど平腕である。それに対して日本海側の波の厳しい所の船の櫓腕は長腕と呼ばれ、幅が狭くて長く、逆に櫓羽はその違い分だけ短い。



 櫓腕には上側にツクと呼ぶ握りが付く。漕ぐ時に片手で櫓腕を持ち、もう一方の手でツクを握る。上図の一般的な瀬戸内の平腕櫓の図而で見れば、左手でツクを握り、右手は櫓腕の端を掴むのが自然であると誰もが感じる。しかしこのツクの位置も地域による違いがある。これは後で述べる。

 櫓羽と腕との接合は、羽の頭の上側の重ね部分を削って角度をつける。角度は櫓の用途や位置によって様々だが、川船では櫓羽が水中に深く入り過ぎると川床を削ることになるから、角度は僅かである。

 もう一つ注目点は櫓羽と腕木とは横から見た角度だけでなく、中心線にも僅かだが偏心がある。これは櫓を漕ぐ際の支点となる櫓杭(ログイ)の位置が床船梁の左舷に寄っていることから起る進行方向の片寄りへのへの対策と言えよう。近世の浮世絵などの中に、櫓杭が床船梁の中央にある船を漕いでいる船頭の絵があるが、もし当時そんな船が実際にあったとすれば、偏心は当初はなかったと思われる。また、海の船では三丁櫓とか四丁櫓とか、左舷にも右舷にも櫓を着けたものがあるから、左舷の櫓と右舷の櫓では偏心が逆方向になっているわけで、一本の櫓を両側で使うことはできない。

 この他に櫓の操作の為に付けてあるものは、(左の図参照)

 1、櫓杭(囗グイ)・一本櫓ではトコフナバリの左舷寄りに樫材で設ける。消耗が激しいから、いつも2〜3本の予備が必要。

 2、舸子(カコ)・この図では大変難しい宇が使ってあるが、ふつう水主とか加子とか書くことが多く、船を操縦する者を言う。ここでは船の左舷に付け根緒を固定する止め木のことである。この綱は適当な長さにして先に輪をつくり、それを腕のツクに引っかけて櫓を動かす。

 3、早緒(ハヤオ)・麻を三本撚りにした綱で、輪にしてツクにかけるが、それぞれの身長に合わせた長さに調節しておく。

 4、根緒(ネオ)・早緒の下側に繋ぐ。早緒を直接カコに繋いででもいいのだが、強い力で擦る所だから丈夫な麻緒だと、木製のカコの方も摩耗が早い。藁縄にしておけば補充が容易な訳である。

 5、踏み板(フンマエ)・櫓を漕ぐ時特に力を入れる方の足(平腕櫓では左足)を少し高く置けるようにする踏み板。

 ほぼ以上のようなものだが、これらを見ると、各部分がなかなか良く考えられていることに感心する。しかし広い目で見ると、接櫓が再び直櫓に移行している地域がある。江の川である。此処では今もかっての大船が僅かだが活動している。鵜飼いの観光客を乗せる船である。この船の櫓が直櫓を用いている。江の川の荷船は明治時代は接櫓であったのが、大正時代になった頃から直櫓に移り変ったと言う。どういう理由かは分らない。操船具の操作慣れを表す言葉として「棹3年、櫓は3月」と言われるが、この櫓にはイレコが付いていて、ログイに嵌めて漕ぐようになってはいる。しかし早緒はないから初心者には難しいかと思うのだが・・。

 さて総論はそこまでにして、太田川の荷船の櫓の話に移ろう。流域を歩いて見ると、使うことはないが今も船の櫂や櫓が納屋の壁際に架けてある農家がある。一般の海の船の櫓を見慣れている者の目には、この櫓の形は不思議に見える。櫂と同じ刃が着いている。詳しく言えば刃の幅がオモテで使うオモテガイより2寸狭いことはあるが、同じものを櫓羽として、それに腕が着いているのである。

 腕の方は長腕タイプであり、ツクは腕の先に近い位置にある。つまり右手でしか持てない。ツクより腕の左端まではほんの一握りしかないから、左手で握ると右手はどこも持てないのである。

 1982年、広島市青年会議所が当時既に一軒しか残っていなかった太田川筋の造船所の川口造船に荷船の復元を依頼し、ほぼ一か月かけて完成しこの年七月末に進水式が行われた。オモテ櫂と櫓も同時に復元された。筆者はこの時一か月間、川口造船に通って仕事の進行状況を見せてもらった。荷船(一般には大船と呼ばわる)はトンギリというド流域タイプと、ケギンドウと呼ぶ中流域タイプがあり、復元船は追崎の小田家の図面を元にしたケギンドウだった。海の船の櫓は櫓を専門に造る櫓屋の仕事であるが、川船の櫓は船大工が櫓も一緒に造っていたから川口家には今までの櫓も櫂も残っており、それと同じ寸法で仕上げられた。左の写真はその時のもので厚さ1尺1分、長さ14尺、輻1尺のツガ材を加工(櫓は幅8寸とする)。この写輿で分る通り刃は幅1尺でも長さは4尺程だから、切り落とす部分の方が多い。これについて川口さんは「刃の部分だけに別材を収め込む方がずっと経済的なのだが、船頭さんはみんな見栄を張るけえ・・」と話す。たしかに農家の納屋等に残っている櫂や櫓の中には差し刃のものもあるが、一木の方が多いようだ。

 さて、復元船は完成と同時に青年会議所が進水式を行い、中河内の上岡曁さんら元の船乗りが操船した。この時、中調子て肥船に乗っていた斎宗六さんが自分で作った五反帆を寄贈した。大きな帆で中調子で野菜積出しの船に乗っていた市原家に残っていた帆の寸法で作ったと言う。

 以上、これらの船や附属品はその後全て広島市郷土資料館に寄贈された。資料館側はこの船を陳列するに当たって、船上で櫓を漕ぐ姿の等身大人形を作って用意をしていた。現物が届いて、それに合わせて作ればよかったのだが、急ぎ過ぎた。人形の左手がツクを握るようになっており、右手は開いているから空に浮くこととなったのだ。これは単なる推測ではあるが、担当者は内海の漁船の櫓しか見ていなかったので、異種の櫓があるとは思わなかったのでは? 何にせよ、間違いは改めなければなるまい。

 帆については、ケギンドウが下流域の船(中央部の幅が7寸程も広い)の帆を付けているからアンバランスに見える。ケギンドウの帆はもっと小さい。

 積み荷も米俵、薪・・れぞれの寸法とか、積み方とか、細部についてももっと確かめて解説などつけるべきだろう。
(幸田)
 
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