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太田川聞き廻りの記
その二十 布から宇津・毛木へ 2008年 5月 第85号
1、油木(ゆき)の宿と米屋
太田川本流の中流域、右岸は長く旧沼田郡久地村が続き、川井に至った所で戸山方面から来る支流吉山川が合流する。ここで本流は大きく方向転換して約5キ囗北上、高宮郡飯室村宇津に至って鈴張川を合流すると再び方向を一転して南下する。宇津は川が交通運輸の中心だった時代には、山県郡や鈴張方面から運び出される米や木炭などの物資を船積みする浜があり、集積した材木を組む筏場があり、数軒の問屋があった。その宇津と布との中間に昭和初年に12軒の民家が山際に並んだ小集落の油木があった。平地は全く無い、川沿いの道からすぐに上の写真のように斜面に取りついた家と段々畑がある。耕地は僅かだから、多くは船や筏に乗って生計を起てていた。
その油木の一番川下の道端に店を建てて米の仲買・小売りをしていたのが山田屋で、明治末か大正初年に鈴張からこの地に出て来て商売を始めたという。札平の代に天広姓に変わったが、屋号は山田屋のままで続けた。米は鈴張だけでなく八重、本地の方からも荷車で運ばれ、油木の船で広島へ出した。また一部は車で加計へも運んだ。これは布に沢本、宮川、宇津野といった荷車稼ぎの人がいて、専属のような形で仕事をした。この近隣で米の仲買をしていたのは山田屋の他に、間野平の小田、宇津の西川、飯室毛木の河田らがいた。(以上天広マサコさん談)
山田屋に隣接して丸木宿があった。丸木は布の人であり、源太郎は村会議員などもやっていた活動家であったが、その弟の金助は油木に出て独立し、船を持って働く一方、その女房のスマが宿をし始めた。水内や加計の方へ帰る船が泊まる他に、行商人も泊まっていたようだ。隣が米屋という便列さで上流の船乗りは下る際に頼んでおいて預かってもらい、帰りに受け取って行った。スマは明治8年生れで、22歳で金助と結婚し、男子3人と女子1人を生んだ。その長男が位里である。位里が生まれたのは明治34年で、少年時代に父金助の船に乗って時々広島へも出ていた。手伝いというよりも遊び目的だったようで、牛田の船宿をやっていた西本義見氏は当時の位里少年のことを記憶していた。随分利発だがまたいたずら好きな子供だったようだ。
船稼ぎが出来なくなってから、丸木一家は広島市内へ移住した。そして金助は原爆の犠牲となる。後に位里夫妻が数々の原爆の図を描くようになったきっかけはここにある。他の家族は助かった。戦後、三男が満州から復員、スマに隠居するようさかんに勧めた。スマは子供の時に学校に縁がなかったので字が読めないし書けないというハンディがあった。昭和16年に位里と結婚していた俊はこの母に絵を描くように勧め、スマは熱心に描いては展覧会に次々に出品するようになった。スマの絵は技術を抜きにして楽しませる絵だと高い評価を受けるようになり、84歳で亡くなるまでの10年足らずの間に有名女流画家となっていた。
やがて位里・俊の夫妻はスマを伴って広島を離れ、埼玉県東松山市に移った。故郷には家はなくなったが、晩年は時々帰って来て飯室の寺院に泊まってそこの壁や襖に二人で絵を描いている。本誌でも6年前の第7号の表紙に飯室浄国寺の天女図壁画(俊さん筆)を紹介しているが、それぞれ肌の色の違う7体の天女が舞う姿は見事で、ぜひ一見をとお薦めしたい。
左の写真は位里・俊の共同制作になる「原爆の絵」の一場面。
2、宇津の浜
さて、油木を左に見て北上した川は宇津に至って鋭角に反転するが、ここの浜は近世初期に始まった舟運が可部線の鉄道が通じた昭和11年まで続いた。鉄道の敷設以後も材木の積み出し、筏の浜は暫く続いた。昭和10年に宇津の戸数は57戸であった記録が残っている。その中の一部川端筋の家の配置略図を上に出してみよう。昭和8年以前の旧県道が実線で、その右の破線の部分が現在の道路の位置である。西川と荒槇はAとBの位置で水路を造って鈴張川から水を入れ、水力で精米や製材をしていた。荒槇の水力タービンは大正6年頃に付けたという。
Cの花谷は明治末からの問屋で花谷チカヨさん(明治43年生)の話では、昭和初期に取引していたのは、八重・本地・今吉田・豊平・鈴張から木材を積んで来る荷車が20台余りいた。それらの荷は先ず隣接の倉庫に入れ、その後うちの従業員が川端の倉庫まで運ぶ。それから船に積んだり、筏に組んだりして広島まで運ぶ。船は毛木組の船が来るのだが、これは布・油木・長沢・毛木・姫瀬の船で30艘おり、それが花谷と酒井と三協とに分かれてていた。天候の如何にかかわらず殆ど毎日出ていた。広島の取引先は20軒くらいあった。鉄道の付いたあとは筏だけになって、最後は昭和16年頃だったようだ。
Fの酒井は分家で、本家の酒井勘市の方はこの略図より北にあって 村長をしていた。勘市の弟の徳市が分家してここで問屋を始めたという。そして車引きが食事したり宿泊もできる施設を川端に建てていた。その西側の川岸が船の浜で、毛木組の根拠地であった。さらに隣接して筏浜があり、川岸には木材が積まれていた。
他に運送問屋としては三協というのもあった(L)。山手・土井・白井の三人の協同ということであったが、これは短期間で解散したようだ。問屋としてはもう一つPの西川であるが、これは可部線の飯室駅(O)ができて直に西川吉衛が貨車運送の取次業としてここに倉庫を建て、木材・薪の取扱を行い始めたもので、西川は水力利用の精米だけでなく瓦の小売りをやったり、いろいろ手広くやっていた。この西川吉衛は分家の方で、西川の本家はこの略図には描いていないが分家より西側にあって旅館業をしていた。
Gの佐々木は馬車運送で、山県郡へ入り、木材搬出は此処へ出したが、米の積出の時には幕の内峠を越して可部経由で広島へ直接運んでいた。
Wの池田旅館。これはシマという女性の経営になる旅館で、専ら仕事後の宴会に楽しく活用されることが多かったようだ。
3、筏は毛木から
次に筏のことに移る。宇津の筏場で組んだ筏はその日のうちに少し下って毛木の川上に繋いでおいて翌朝出発する。これはどうしてかと言えば、宇津で川は急転換するので船や筏にとっては難所である。このうちクルマカドは筏塲より川上だが鈴張川の合流点のシシバシリと、その下のヨコバシリとは激しい瀬で、早朝に出発するためにはこの難所を下った毛木境まで運んでおくのが安全対策だからであった。上の写真はその毛木境に繋いだ筏の上から宇津を遥かに眺めたところである。
筏を組む作業もこれを見れば大まかには分るようだ。木材の長さで何連にするかが決まる。(各連をタキと呼ぶ)これは二間物の材で三タキ目の上から後方を見ている。タキは位置によって呼び名があり、一番前をハナ、二番目をオオワキ、三番目をホンダチと呼び、その後ろにつけるのは全てカガリと呼ぶ。この写真はホンダチの上から四・五・六のカガリを見ているわけである。
筏職人は10人程が一組になって、丸太材の両端に孔を開けてフジカズラを通し、セギリと呼ぶ細くて直い生の枝木に縛って組む。中央の材は前後のタキにかかっている。筏を何タキにするかはその材の長さによって変わっててくるし、幅も材の太さで何本にするか決まるが、後ろになる程幅が狭くなるようにする。流す時に岩に掛らない対策である。組み上ると皆でクジを引いて、当たった者が乗って行く。一日に組む筏の数は10人で3〜4ハイであった。
なお、宇津の川下は右岸左岸ともに毛木だが、左岸は高宮郡、右岸は沼田郡と行政区が異なり、左岸側は東毛木又は飯室毛本と呼んでいた。(幸田)
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