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太田川聞き廻りの記

その十六 向光石のこと 2007年12月 第80号

 ○「むかわ」の大正期

 加計から太田川を下ってみる。見入畸(右岸)、香草(左岸)、遅越・辻河原(右岸)、塚原・津浪本郷(左岸)、浅瀬(左岸)、砂ヶ瀬・田之尻(右岸)、附地(左岸)までは川は殆ど南下しているが、附地の所で急にUターンして北上し、次に向光石(右岸)で東に向き、光石(左岸)を過ぎて古ヶ瀬(右岸)で急回転して坪野(左岸)に達する所で再びUターンする。津浪〜坪野間は曲折の多い区間のひとつである。今回はこの中の向光石という集落の歴史の一部分を取り上げてみよう。

 しかしその前に、初めての人のために、今書いた地名の読みである。見入ヶ崎は「みいりがさき」であるが、「みりがさき」で通っている。香草は「かぐさ」。遅越「おそごえ」。辻ノ河原「つじのかわら」。砂ヶ瀬「ごみがせ」。田之尻「だのしり」。附地「つけじ」。向光石「むこうみついし」吉ヶ瀬「よしがせ」など。

 ついでに地図批判になるが、国土地理院の5万分1や2万5千分1地図の地名記入には故意に集落名を落としたとしか思えない部分が多いし、多くの地元民の呼び名とは異なった地名を付けているものもある。ここでも見入ヶ畸や浅瀬、塚原などは書かれていない。

 さて、向光石であるが、光石の対岸にある為そう呼ばれたものと思われるが、一般には「むかわ」で通っている。むかわの戸数は年代によって廃絶した家、分家して増えた家などで若干の増減があるが、大正末に13戸で当時としては小集落であった。明治29年に火災のため1戸を残して他は全焼したという歴史もあるが、その後次第に活気が出てくる。ここには農耕地は僅かで、専ら山と川での仕事であり、造船、船乗り、筏乗り、筏中継業などを行った。明治末から大正初年にかけて見ると、

  1.造船=(沖根)仙右衛門。(沖野屋)新右衛門−亀一。
  2.船乗り=(下川)蔵市。(瀬戸)粂吉。(辰己屋)只一
        (植木屋)逸太郎―禎市。(沖田屋)為一。(土井)十七吉。
  3.筏中継=(新屋)勢一郎。
  4.筏乗り=(新屋)勢一郎−新太郎。(沖本)吾一一二三。
        (前之内)好太郎−龍男。木下仙太郎

 ( )内は屋号。「―」で続いているところは親子である。当時、鵜野姓が6軒、川野姓が3軒、辰巳が二軒あったので屋号で呼ぶか、名前を呼ばねば通じない。

 まず造船業だが、当時この近辺で船を造っていた所は他に、加計丁川2軒、坪野2軒、津伏3軒、久囗市1軒とあり、むかわの造船技術が何処から入って来たかは不明だが、沖根は早くやめ、新右衛門が昭和2年に亡くなって終わりとなった。その子の亀一は家大工に転業し、昭和4年に広島市内に転住した。筆者はもう20数年前になるが、広島の移住先に沖野屋さんを訪問して当時のことを聞いたことがある。亀市氏はすでに昭和25年に54歳で已くなっており、話しはその妻のハツヨさんの記憶である。

 
○元日夜明けの提灯

 ハツヨさんは明治33年生まれで、沖野屋に嫁いだのは大正8年だった。その時、義父新右衛門はまだ船を造っており、船小屋は家から離れてむかわ橋のすぐ下にあった。寝泊まりする4坪ほどの場所も付いていた。若い嫁にまず与えられた仕事が、盆、節季に顧客の船主の家を廻って集金することだった。新造船の値段は120円くらいだったが、全額一度に払う客はいない。最初に20円くらい払ってくれるが、後は盆、節季に5円、10円ずつ払うので集金に歩くのである。しかし相手が家にいても、ほいそれとすぐに払ってはくれない。地元の他に光石から香草の方まで歩いて根気強く、少しでも多く・・と粘っていると夜更けて、いや夜が明けてくる。明けて元日になるともう借金取立てはできないので、明るくなっても提灯に灯火をつけたまま大晦日の晩ですということにして歩いた。寒いのと、疲れるのと、相手に気を遣うのと・・その辛い体験を5〜6年続けたことが今も思い出として強く残っているという。

 やがて義父は船造りに見切りをつけ、亀市を家大工の元に習いに行かせ、転業させた。義父の死後亀市・ハツヨさんらは広島に移住した。昭和4年である。さきに書いたこの近辺の造船所もこの頃にはいずれも廃業している。

 
○川掘り同業

 川は大雨の後は船や筏の航路に障害物が流れて危険となる。そこで航路を整備する作業を行う。これを「川掘り」という。船組・筏組ごとに範囲が決めてあった。川野家(瀬戸)に大正十年代の「川掘覚帳」が残っていたので見せてもらった。この写真はその中の1ページで、黒石とは吉ヶ瀬の下、坪野の上の難瀬であり、中之川はむかわの沖である。他の地区では船乗りと筏乗りとが一緒に掘ることはない。それは筏に必要なのは下りの「みお」で、登りみおは必要ないからだ。むかわでは共同で掘っていたというのは注目される事のようだ。「八月二十八日」の次が「拾月七日」で「縣廳川」となっている。県庁川というのは、年に一度だけ県が費用を出して川掘りを行う。日当は県が負担し、また大きな岩を破砕するのに発破を掛け、その技術者も県から雇われて来た。なお、このページ左端の川野粂吉の上に「オソイ」と書かれているのは、遅刻して来たという意味だろう。時に遅刻して来て皆から文句を言われる組員もいたようだ。筏乗りは別として、船乗りの場合は川掘りに出る義務のあるのは船持ちだけで、とものりなどの雇い人は頼まれれば日当を貰って働くだけである。 この覚帳で川掘りの回数を見ると、大正10年=7/9・9/10。大正11年=5/15・7/17・8/4・10/17・10/18。大正12年=8/2・8/3・8/4・10/8・10/9・11/25・11/26。

 というように年によりかなりの違いがあり、大正12年には大雨が3度あり、2〜3日連続で整備していたことが分かる。

 川掘帳を見せてくれた川野みさとさん(明治45年生)は粂占の娘で、婿をもらって瀬戸家を継いだ。本家の新屋の方は弥五平が筏の乗り継ぎをやっていた。

 
○筏回漕業

 戸河内の筏浜や筒賀松原で組まれた筏は加計で乗り継ぐものもあるが、ここまで来て乗り継ぐ筏もあった。これはそれぞれの業者との契約がある。加計にも二つの回漕業があったが、この付近ではこの新星が頭領の「むかわ組」の他に「田之尻組」があり、昭和3年にはむかわ組から別れて「ごみがせ組」が独立したという。戸河内の吉和郷や明神浜などから流して来た筏はここで1泊し、乗り子は帰って行く。新屋の頭領は予め送り状を見て筏を点検し、次に組の乗り子にそれを託して広島まで送らせる。弥五平の後を新太郎と勢一郎の兄弟がやったが、新太郎には子供がいなかったので勢一郎が新屋を継いだ。ここから中継する筏は毎日あるとは限らないので、乗り子はクジを引いて当たった者が乗る。しかし、むかわ組の他に田之尻には筏組浜があり、井仁の方から来る木材を組んでいたので附地の人たちは田之尻組が多かったと思われる。

 
○大正4年6月2日

 この日は何かあったのか・・・
 むかわと言う小集落がこの日ほど賑ったことは前にも後にもなかっただろう。太田川を跨ぐ橋の架設である。吊り橋であるが、筒賀村に橋が架かっだのは初めてで、この年は筒賀松原と箕角を結ぶ轟橋も架かっている。田之尻の橋は2年後である。が、架設の費用は殆どは周辺地域からの寄付金と、地元むかわ及び隣の吉ヶ瀬からの木材とで賄われたようである。新屋に残された資料「向光石釣橋架設費簿」を見せてもらったことがある。川上は吉和郷から川下は宇佐まで、各地区に世話係がいて集めて歩いたようで、光石38、津浪45、香草41‥…と続き(安野地区はないが、それより川下の追畸が41軒分ある)、集金総額は320円余りとなっている。個人の金額は5円とか、10円も中にはあるが、10銭とか5銭とか、厘の位まである。

 架設の費用が幾らだったのかは分からない。

 とにかく橋が完成した。そこでいよいよ開通式を行うこととなる。手拭50枚。万国旗。提灯100。徳利・杯25個。銀紙、扇子。茶菓子。酢・醤油。大エヘ祝儀3円。石工へ祝儀3円。白米4斗5円60銭。案内状100枚71銭5厘。ハガ牛80枚1円40銭。幟3本2円74銭。ふろしき21銭。花火10発3円50銭。酒3斗7升9合13円26銭。さらに、酒3斗8升2合13円37銭。

といったのが開通式の準備、当日の入り用である。酒が前後にわたって書いてあるのは、足らなくなって買い足したものと思われる。これは「175人として」と初めに書いたところがあるので、準備したのが当日に足りなくなって追加したものか?開通式の6月2日より前に、砂ヶ瀬・附地・吉ヶ瀬・光石・坪野・向光石の6地区が一緒になった青年会があり、その会員が集まって取り組みを話し合ったようで、その場でも酒肴として5円14銭出されている。当時は平常時は始末しても祭は大いに賑やかに、というのが一般の風潮だったし、若衆も多かったろうし、さぞや盛大な開通式だったろうと想像される。同じ年に架けられた轟橋の方はどんな状況だったのか、そちらの史料はまだ見ていない。

(上の写貞はむかわ側から対岸の国道を望む。右の家が新屋。)

(幸田)
 
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