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太田川聞き廻りの記

その十三 「鮎」と太田川 その四 2007年 9月 第77号


 
◆『本朝食鑑』に書かれた鮎漁

 本誌では七年前の六月号で「川の漁業史」を掲載したことがある。鮎漁は古くは万葉集の歌の中に出てくる。

 松浦河河の瀬光り年魚(あゆ)釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ

と九州の松浦河(現在の玉島川)で鮎漁をする女性漁師に向かって呼びかける大伴旅人の歌と、呼びかけに応える女性の歌が数首出てくる。しかしこの歌では釣るというだけで、残念ながら漁法までは解らない。

 「友釣り」という漁法の元祖はいつの時代なのか、興味をもって探してみたが、やはり『本朝食鑑』までドがるのではないか。元禄10年(1697)刊のこの著書は食べるもの穀類・野菜・獣魚など、あらゆる食材について種類や作り方・獲り方・料理法などを網羅した百科事典というべきもので、著者の人見必大は父の賢知を継いで二代の医師である。
ここに出ている鮎の漁法を以下に抽出する。

 「鮎の性質は砂および石垢を常食とする。そのため餌はなく、釣ることはできない。ただ蠅を喜んで食うところから、遠州大井川の辺の漁俗では、馬尾で蠅の頭の形を造り、これに糸をつけて頻りに鮎をだまして釣るのであるが、妙手でなければ釣ることは出来ず、手腕熟練の者は数少ない。また洛の八瀬の里人は、長い馬尾(ばす)におとりの鮎をしっかりと結んでおいて、澗水に投げ入れ、岸畔の草苔の間に立って、近づいてきた鮎を引っ掛けて釣る。よく捕える妙手なら一目に五・六十匹も獲る。伊予の人津の水辺でもやはり細い縄・竹竿で鮎を引っ掛けて釣る。」
(他に小鮎を獲る「汲み鮎」や鵜飼もあるが略す。)
 この中の洛(きょうと)の八瀬での漁はたしかに友釣りの元祖と判断してよいようだ。

 
◆鮎好きの水戸黄門

 今の時分、もう映画には無くなったが、テレビ番組ではまだ黄門さまの諸国漫遊記は配役を代えながら続いている。光圀は諸国を旅した事実は全くないし、またあの芝居に出てくる背景の大道具・小道具の多くは当時なかったもの、つまり時代考証がでたらめ(故意か経費節約の為か)である。が、それはさておき、黄門さま流の勧善懲悪が高年齢層に受けるのかも知れない。でも、考えてみると当時幕府という圧力に抵抗して、反幕府を試みる各地方人名の領分を歩き回って、「この紋どころが目に入らぬか」と最後には将軍様の権威を降り回す態度はやはり弱いものいじめではないかと思う。で、黄門さまの実際はどうであったのか・・その一部を次に見る。

 1628〜1700というのが彼の生涯であり、彼が江戸を離れて水戸へ移って(現配の常陸太田市)隠居生活に入っだのは元禄3年(1690)、つまり終わりのに10年間であった。ここでの彼は食うことに徹した日々を過ごしたという。(小菅桂子著『水戸黄門の食卓』参照)。特に鮎は好物で、自分でも地元の久慈川やその支流の里川に入って獲っていた。この時代は五代将軍綱吉が「生類憐れみの令」を発した時代で、綱吉はさらに元禄6年(1693)には「釣り禁止令」まで出した。これは当時の庶民にとっては大きな打撃だったろう。しかし黄門さんは全く問題にしないで自分も釣るし、水戸藩の領民に対してもむしろ漁を保護し発展させるよう呼びかけたという。(この方が諸国漫遊よりもずっと「庶民憐れみ」の効果があっだのでは?)

 黄門さんの徹底した食道楽は結果的にその後も水戸藩に違った形ではあるが根づいていたようで、後年加藤寛斎が活躍する塲を提供した。

 
◆友釣りを図解説明した寛斎

 加藤寛斎は名を嘉継、通称善兵衛。天明二〜慶応二年(1782〜1866)。郡奉行の役所に勤務し、農事研究指導員のような仕事をしていたようで、「菜園温古録」「柑樹成養録」「乾柿調成弁指南総論」といった専門的な著述がある。

 鮎釣りのことは「寛斎随筆」の中に勤務に関わって地域を巡回した見聞か、左の図とともに書かれている。
 「川々にて鮎を釣るに、をとり釣りと云事を工夫して、生たる鮎を一ツ鼻に釣針をさして針の側に是を泳がせ、針八四ッ五ッをたれて水中ニ投入て、棹を持て魚の懸るを待ち、魚友を慕ひ群来りて針に摺りて遊ぶ時、針貰る也。針八木綿針或ハ指針を曲て毛ニ付ル。至てよく釣る。」

 また絵の後にも説明あり。
 「から針をさげ置なり。鮎ハ川のろを喰うゆへに餌不付してよし」とあり。
 実際にはこの漁は鮎が縄張りを守るための闘争であるにかかわらず、始めの説明では、をとり鮎を泳がすとそれを友と慕って摺り寄ってくるのだと誤解していたのでは?という疑問を抱かせかねない所はある。そこは別の問題としておこう。またこの図に描かれた仕掛けは現在の仕掛けとは随分異なる。しかしこれも当時の方法だったのであろう。「鮎のをとり釣などは今代の工風也、此先いか様なる事をや仕出けるにやしらず。」と言っているように、歴史の一断面として大事に見ていくべきか?

 
◆県内の簗の所在

 先に近世の太田川に卜か所の簗があった記録を述べたが、県内の他の川ではどうだったのか、明治後半から昭和初期の期間については県の川漁告示を見れば分かるので、以下に取り出してみよう。

(当時の地名)
太田川水系−太田川
 吉和郷。不免。葛原。上土居。下土居。上殿。加計。附地。久地。
 水内川・多田。菅沢。下村。西宗川・周川。本郷。浅瀬。

江の川水系
 可愛川・山県郡壬生川束。高田郡土師。西城川・穴笠。西河内。金田。
 高茂。川西 江の川・川根村赤石。口羽村。

沼田川水系−沼田川・船木村。下河内。

芦田川水系−芦田川・世羅郡三川村。芦品郡河佐村。岩谷村(現在府中市父石町)。

高梁川水系−東城川・神石郡豊松村。成羽川・神石郡新坂村。永渡村。
      小田川・深安郡山野村。

なお堰筌は簗とは別にされているので、ここには入れていない。


 明治19年から農商務省が各地の漁法の調査を行い、代表的なものを数か所選んで説明した『日本水産捕採誌』には四か所の簗が選ばれ、太田川の附地簗を最も代表的な簗として出している。(他に越中神通川、肥後球磨川、加賀手取川の簗)。規模の大きさで見ても附地簗は確かに大きかった。しかし人きな簗は水害に遭うと損害も大きく、復活は小規模の方が容易である。1980年代にはすでに太田川水系には簗はなく、沼田川の下河内と西城川の川西簗のみが存続していた。(太田川水系で最後の周川簗は1979年廃止)筆者は活動中の簗の話しを聞きに、西城川の川西で当時簗代表をしていた二上寛三郎さんの家を訪ねたことがある(1983年)。会員は17人で毎年一万円ずつ会費を出す。昭和58年は8月に三回魚を拾った。それで80万円程の収入があった。今までで一番多かった年は260万あったことがある。この時は自動車で草津へ売りに行った・・など、わりに元気が好い話しを聞かせてもらった。

 
◆明治勧業博への出品

 さて、太田川への鮎の関わりを主題としたはずが、何だか脇道に逸れてしまったが、太田川のことに戻そう。一時代の流域の人の鮎との付き合いが分かるものとして、明治の勧業博覧会への出品物を取り上げてみよう。

 勧業博覧会は明治10年に初回を行った時には以後四年ごとにやるといって出発した。だが、戦争準備で予算が大幅に削られたために二回をやった後は大きく飛んで五回で終わった。

*第一回・東京上野博(明治10年)
   山県郡戸河内村、高田来 鮎小判漬
   高宮郡下四日市、梶川彦太郎 鮎漁具
      大毛寺村、織田寅之助 鮎漁具

*第二回・東京上野博(明治14年)
   山県郡加計町、末田吉兵衛 塩鮎
      加計町、朝枝忠助  干鮎
     戸河内村、田中大作  うるか
   佐伯郡麦谷村、秋月謙造  塩鮎
   高宮郡下四日市、梶川彦太郎 うるか

*第三回・東京上野博(明治23年)
   山県郡戸河内村、田中大作 うるか
   佐伯郡麦谷村、秋月謙造  塩鮎
   高宮郡下四日市、梶川彦太郎 鮎

*第五回・大坂天王寺賻(明治35年)
   山県郡加計、栗栖助太郎 鮎粕漬
         佐々木四郎 乾鮎、小判漬
         佐々木ヒサ うるか
     戸河内、樋上升次  煮乾鮎
         伊藤賢吉  鮎粕漬
         森軍治兵衛 鮎小判漬
     安野村坪野、鈴木忠一 小判漬
   高宮郡可部町、藤田亀吉 うるか缶詰

 第四回は京都で、この時は広島県からの出品は多かったが、何故か鮎製品はなかった。加工品のみなので少し淋しい気もするが・・

◆他県の人の見た太田川

 さて四回にわたって鮎のことを話してきたが、最後に「鮎熱中人」の見た太山川の印象を紹介しておく。斎藤邦明氏は北は北海道余市川から南は屋久島宮之浦川まで各地の川を鮎を釣って旅して来た人で、その著書に県別に川の特色などを述べている。斎藤氏の目に太田川はどのように写ったか。

 「広島市郊外、山陽自動車道が横切るあたりの流れは日本名水百選に指定されている。しかし、ゴルフ塲やレクリエーション施設を擁する河川敷、親水公園が不自然に付け加えられ、市内の歓楽街・薬研堀で客を誘うネオンサインに似たゴテゴテとした景観となっているのが気になる。これが、この地の住民の自然観なのであろうか。

 かって太田川は、大都市を流れる河川では日本有数の清流を誇っていた。ところが、戦時中、上流に発電用の堰がつくられてからというもの、川岸の人たちの川に寄せる心が薄らぎ水辺の情緒も失われてしまったという。・・中略・・古くから川漁師が活躍し、主にアユやウナギを捕っていたと聞く。鎌倉時代の古文書にはアユの鵜飼漁が紹介されているというし、江戸時代には可部あたりでさかんに鵜飼がおこなわれていたという記録があり、加計町には鵜渡瀬という名の地名が残る。

 豊かな漁獲を提供しつづけた太田川の清流には、また、特別天然記念物のオオサンショウウオも棲む。・・うちの裏の川(鈴張川)にはいっぱいいるよ。恐竜みたい大きいの、今朝ものそのそ歩いてた」・・名物のウナギ料理屋の女将さんは、こともなげにこういった。」 (『鮎釣り大全』より)
 
幸田光温
 
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