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太田川聞き廻りの記

その十二 「鮎」と太田川 その三 2007年 8月 第76号

●韓国の鮎料理と鮎養殖

 10年前になるが1997年10月12日の朝日新聞の日曜版に『日本市場にらむ韓国産』の見出しで、韓国における鮎人気のことが特集してあったが、まずその記事の概略をふ述べる。韓国の南側、日本列島に面した側は東のプサン(釜山)から西のヘナム、モクポ(海南、木浦)にかけて半島と内海の数多くの小島が点在しており複雑な海岸線と賑かな内海を形成している。その中頃がクワンヤン(光陽)で、ジョンラナムド(全羅南道)とギョンサンナ(慶尚南道)の境界にあたる。ここに北北西から流れてくる川が蟾津江(ソムジンガン)である。この川の中流にファゲ(花開)という町があり、そこでの記者の見聞きを書いているのだが、ファゲの街に八十軒ある料理店で、一番古いケフア食堂のメニューの一番上がアユの刺し身だった。

 「てんぷらや塩焼き、煮込み料理もあるけど、アユの注文の八割方は刺し身ですね」と主人の梁七星さんがいう。四、五人用の中皿を頼んだ。骨ごとそぎ切りにした刺し身が山盛り出てきた。レタスやゴマの葉にのせて、唐辛子酢みそをつけて巻いて食べる。骨とウ囗コが少々気になるが、意外にいける。キムチやナムルの小皿もついて、二万ウォン(約2600円)。ビールの肴にも絶好だ。

 アユは日本と朝鮮半島、中国などアジアの一部にいる。生産、消費量とも日本が圧倒的に多い。水産物の多くを輸入に頼るようになっても、日本のアユ自給率はほぼ百パーセント。日本人には特別な魚である。韓国では東部と南西部の川でアユがとれる。一般的ではなかったが、生活水準が上がるにつれて人気が出てきた。川沿いの観光地でアユを売り物にする店が増えている。十年余り前から養殖も始まった。ケファ食堂でも養殖アユを使っている。「区別がつかない人も結構いる。値段? 同じですよ」と梁さん。近くの光陽市には十ヵ所のアユ養殖場があり、花開などの料理店に出すほか台湾にも輸出している。韓国全体での養殖業者数は五、六十もあり、特に光陽市では組合を作っ
て日本への売り込みを狙っている。

 というのが朝日新聞記事の概略であるが、これを読んで韓国のアユ事情というものが気になりだして、まずはファゲつてどんな所なのと調べてみる気になった。

 ソムジンガンは全羅北道中央部の蟾津江ダムを源流として全羅南道に入り、以下全羅南道と慶尚南道との境界を流れて光陽市に入って内海に注ぐ。ファゲはその中流の左岸にあり、行政範囲では慶尚南道河東郡に属しており、花開という漢字の通りに桜並木の並ぶ美しい所。太田川でいえば安野の澄合くらいの位置に当たる。近くに名勝旧跡や温泉もあっあって昔からリゾート地として観光客の集まる場所だったようだ。八十軒もの料理店があり、アユの需要もここの川の天然鮎だけでは不足で、光陽市から養殖鮎を入れて需要に応じていたというのも分かる。

 ケファ食堂の主人もここの川で天然鮎を捕っていたが・・と書いてはいるか、朝日新聞の記者はどんな漁法で・・ということまでは聞かなかったのかどうか、それを書いていない。別の本によると地元の人達は「友釣り」も盛んに行っていたという。しかしソムジンガンの友釣りのルーツに関しては「鮎釣熱中人」を自負する斎藤邦明氏の意見では、「韓国蟾津江でも友釣り師の姿が見られるが、これは植民地時代に日本人がトモヅリという言葉とともに地元民に伝えたもので、日本独自性は揺るがない。」と述べている。

 友釣りの話しは別の項にして、新聞記事にもどる。上の写真はこのケファ食堂の人気メニューの鮎料理の八十パーセントを占めるという刺し身である。と書いてあるが、これはセゴシというべきか。でも三倍くらい厚みのあるセゴシで、これではさぞ骨が囗に残るだろうと思うのだが・・でもこの分量で2600円は安いかな…

 韓国での鮎の養殖事業のその後はどうなっていて、日本への進出はどうなのか?。筆者には分からないが、日本の天然鮎が減少の一途にある限り韓国鮎の前途は明るいとも言えるのではないか。光陽市の養殖業者の間では日本鮎に近づけるために幾つかの方法を施行しているという。日本の養殖業者では鮎博士とも言える川那部浩哉教授の「養殖アユの上手な処方」のように、「池から出荷する前一週間余りの間、注入水量を大幅に増し、かつ餌をやらないようにすると身はやや締まり、油が少々抜け、池のコンクリート壁に付着した藻を食って藻の匂いがかすかながらつく」といった方法を行っている所もあるという。光陽市の養殖業者の場合は藻の匂いを付ける為に特殊の生薬を餌に混ぜて食わせている所もあるという。英語では鮎名をスウィートフィッシュ(芳香魚)というらしい。芳香のしないのは鮎ではないということになるが、でも匂いを付ける為に薬を食わせるのも、どんな薬か知らないが怖そう・・・
 
●昭和初年の太田川鮎を眺めて

 次に、昔へとんで、昭和7年の中国新聞記事へ移ろう。島田睦海氏(広島県庁商工水産課)が5月20日から三回の連載で書いた記事が当時の広島県内の鮎の増殖事業を物語っている。まず川別にした淡水魚の漁獲数量は表のように太田川より可愛川が多くなっている。しかし、「産額においては可愛川がその最たるものであるけれども、その香味においてはあの清冽鏡のような太田川に生息する鮎には及ぶべくもないということである」と書いている。清冽鏡のような川の方がよいのか?という不審はあるが・・それはさておき、増殖事業については、「近時、鮎の人工孵化および小鮎の移殖事業が各県で盛んに行われ、本県でも昨年十月、県水産会が太田川水産会と共に安佐郡原村字西原で人工ふ化を行い稚鮎2869万尾を太田川に放流した。小鮎の移殖は本県ではまだ実施していないが他県では盛んに行っている。琵琶湖産の小鮎は元来大きく成長せぬ種類だと思われていたが、石川千代松博士の研究で環境によって成長することが判ったので、現在では琵琶湖から各県に移殖するための輸送用活魚列車までできている。また近頃は海産小鮎を採捕して河川に放流する事業も行われ、なお小鮎の池中養殖も試験中である・・」 とこの時期からそろそろ本県でも増殖事業へ取組もうとしていることが伺える。 (表中の川名「高梁川」は上流広島県内「東城川」のことか)

●明治の川漁

 明治年代、前半は不明だが後半は勧業年報によって県内各地区の川漁の大まかな様子を数字で見ることができる。といってもこの統計の方法が年度によって異なるため全体の比較が難しい。明治31年(第17回)は鮎・鰻・鯉の三種について出されているので下に表にしてみた。



 また県告示、県条例から各年度漁種別の許可記録を拾うと県内各地での様子を想像することが可能である。明治二八年度で見れば漁種は「簗」「切川・瀬張網」「モジ」「雑網漁」「鮎掛」「鵜縄」の別に課税額が決められ、(船を用いざるは半額、鵜縄は鵜一頭につき)の付けたりがある。明治30年代には簗は川とその位置により等級が付けられて税額の差ができる。決められているわけではないが瀬張網は久地村が上限、三川村が下限。簗は戸河内村が上限、久地村が下限、(他に水内川に三か所)という結果になっている。
 
幸田光温
 
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