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太田川聞き廻りの記 |
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その十一 「鮎」と太田川 その二 |
2007年 7月 第75号 |
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●下村密漁事件の顛末
前の回に述べた密漁事件の続きがある。藩では献上鮎の質と量を確保するため、藩営簗の川上を禁漁とした。これが全ての事の起こりである。島木浜の事件は役人に現場を見られて慌てて逃げた5人が、証拠となる品を残していたことから、逃げられぬと思い全員が村から出奔したところ迄を前回述べた。
この事件には臨時の吟味所が津浪村に設置され、9月7日から取り調べが行われ、割庄屋の富四郎、麦谷村庄屋の平兵衛も詰めた。5人が村を出たのはその日であった。(5人の中には親子の関係が1組あった)
出奔者の家内が呼び出されたが、夫が何処へ行ったか知らない。今までの夫の行動についても全く知らないと答えるだけだった。
11月8日、出奔者5人に対し「永尋」が申し渡され、さらに下村の庄屋と組頭2人には監督不行届として「追込」の刑、逃亡した百姓の妻にも「追込」の刑が申し渡された。追込(おいこみ)は獄舎に入れられる事である。この他、下村の長百姓4人及び逃亡者が所属する5人組20人は「叱り」となった。「永尋」は6か月間発見できない場合、その罪は罪人の家族・縁者及び村の責任者の罪となるが、下村庄屋は11月10日には差免しとなり、そしてされに14日には出奔者5名も永尋を解かれている。この理由は、『此の度、伝正院様弐百回忌御法事滞り無く済み候に付き、格別の御仁恵を以て村方帰住之儀お免に・・中略・・心行を相改め良民に立戻り万事相慎み、以後不埒之仕形無き様、急度申付け候・・』大まかに右のように浅野藩主の父の二百回忌の恩赦として村に帰住を赦すというものであった。
しかしこの事件はそれで一件落着という訳にはいかなかった。どれだけの人間が何日掛かって、その費用をだれが負担するのかという問題が残っている。その内容は、
一、5人が川端に置いていった道具等を役所へ運んだ費用(組頭と人夫の2日分の飯米)
二、臨時吟味所の建設と解体のための大工3人分賃金
三、吟味の際に加わった割庄屋、庄屋の7日分の飯米
四、吟味の際の諸業務で働いた人夫の賃金
五、下村庄屋、長百姓の7日分の飯米
等である。この中の三、四は郡負担。一、二、五は下村負担となったようで、五人組の20人だけは7日間の働きは全て自己負担であった。(以上『湯来町誌資料編』参照)
出奔の5人はその後どうなったのか、帰村が赦されはしたが、帰っても周囲に対しては村の費用を多く使わせたという事で、長く気まずい思いをしたのではないか?
が、ここでのこの事件の発展を考えてみた時何か不思議なところがいくつかある。まず下村庄屋源次兵衛の初めの対応である。村内を調べても密漁した者はおりませんとすぐさま答え、さらに次には他所の者が入って来てやったのではないかと言っていること。
次に、問題の5人は何処へ行ったのだろうか?9月の初めに姿を消して以後2か月半もの間、どこで寝食をしていたのであろう。どうも隠れる所があり、手助けがあったのではという想像が働くが・・これについては何も語られていない。
また一方の藩の側では、追込刑の差免しが随分早い。そして永尋も早々に恩赦となっている。法事が行われることは前もって分かっているのだから、それを見越してお上のお慈悲をしめす芝居だったとも受け取れる。禁漁に対する民衆の反撥を感じていたがゆえに、一方でお上の権威を振りかざし、また一方で懐柔政策を立てていたのではないか・・・と。
ところで、左の写真は現在の島木浜(対岸は宇佐)。下の写真も現在の同所で右側が津伏。向こうが島木である。もう少し下がって澄合まで行くと西宗川の水が少しだけ加わるが、この辺は川の水は最も少ない。現在ではほとんど流れない川になっている。簗役人の中村啓助殿がもし今見廻りに来てこの川を見たらどう言うだろうか?
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●太田川鮎の知名度
こうして庶民に迷惑を加えながら続けられた藩営簗の操業。それを確保する為の地域庶民に対する禁漁は文久3年(1863)に藩営簗が廃止されるまで続いて、以後解禁となった。
ところで全国的に見て太田川鮎の知名度は如何なものであっただろうか?
古くは900年代、延喜式に出てくる調としての諸国物産では、鮎の産地は、但馬、美作、伊賀、伊勢、近江、美濃、丹波、播磨、備中、紀伊、土佐の各国で安芸国は見当たらない。これは単に安芸国から出していなかっただけで、鮎がいなかった訳ではない。
江戸時代はどうか、1713年頃の出版物に『和漢三才図会」という当時の百科事典がある。その中の魚の項に鮎のことがあるが、字は魚偏に條をつけた難しい字で、香魚、年魚、細鱗魚、銀口魚の字が添えてある。また和名安由と書かれ「賀茂川、桂川、紀ノ川、田頭子川、大井川、吉野川、根府川、築井川(相模川)、宇都宮川(鬼怒川)、其外九州名ヲ得ルハ少ナカラズ其大ナルハ尺有余」。
ほぼ上のような説明があり、ここには太田川の名は見えない。しかしその後の付言に、「宇留加、甘渋微苦ニテ、安芸之産勝レリ」宇留加はウルカ、すなわち鮎の内臓や卵を塩漬けしたもので、藩営簗に附属した役所で塩鮎とともに作っていた。したがって、太田川鮎としては出ていないが加工品の方では評価を得ていたことになる。
ここでついでに「広島藩御覚書帖」にあるウルカの作り方を書いておこう。「秋彼岸迄ニ御簗ヘ落チ候鮎ヲ早速取集メ腹ヲ割、みのわた、肝わた、子ヲ取交ゼ、凡ソ一升ニ付塩三合くわへ、もみ合セ桶ニ入置、毎日二三度程宛もみ合セ申シ」となっている。このウルカは他の塩鮎、西條柿、三原酒、榛子、細炭などとともに江戸へ送られ献上された。
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●ところ変われば鮎変わる?
四万十川の漁師である山崎武という人が書いた『四万十・川漁師ものがたり』を読んで驚いたことがあった。それは昭和30年頃までの四万十川の代表的な鮎漁法は「地曳網」だったというのである。山崎氏によると、鮎は8月頃から降雨の度に川を下って来て、そのまま産卵場に留まるのではなく、汽水域の中間位までを往復する。日の出とともに塊となって降下し、午後は3時頃から帯状の集団で遡上する。それを毎日繰り返す。古来この地方の漁師の間では「鮎は潮を飲まないと卵が熟してこない」という伝承があった。地曳網はその群れを狙って船で上手から漕ぎ出し、下手に向かい半円形に岸につけ、上〜下約15人ずつの曳き子を配し岸に引き寄せる。網一回の操業時間は30〜40分程度。漁場の水深は7〜10メートルもあり、網の長さ80メートル、魚捕部の高さ10メートル、製作費用は当時で百万円かかったので誰にでも持てるものではなく、曳き子に雇われてシーズンの賃仕事で暮らす人がいた。
先に書いたように昭和30年代までは地曳網の漁獲高が他の漁法を遥かに抜いていたが、河川の改修や砂利の乱獲のために汽水域が今までより2キロも上流に延び、それにつれて鮎の産卵場も移ってしまって地曳網操業はできなくなったという。
昭和56年度における四万十川の漁業権の免許件数は、鮎火光利用建網435、鮎瀬張網45、鮎地曳網6、鮎巻刺網3、となっている。この中の火光利用建網というのは一般に「火振り漁」と呼んでいるもので、これは広く各地でも行われているように思われる。
産卵期を控えた鮎が汽水域を群れで毎日降下・遡上していることについて山崎氏は「これは四万十川という一つの職場での観察・体験で全国的に見てどうなのか?平野部を流れる観潮域の長い川でも同じなのか?」という疑問は持っておられたようである。また、この群れでの降下・遡上は70%が雌であって、雄の方はその間どうしているのかは不明であるという。
太田川の場合、産卵前のアユの汽水域での行動について話してくれた人がいないのだが、各地の著名河川についても、地曳網をやっていた川があったなど聞いたことがない。鮎に関しては相当うるさい川那部浩哉教授の話にもそんなのはないように思う。
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●太田川漁法あれこれ
先の山崎氏の地曳網では一網で最高200kgの大漁があったというが、これは四万十での特殊の例で、一般的には川での大量捕獲はやはり簗であろう。太田川本流・支部では明治以後その数は増えた。しかし大正期をピークとして鮎の数は減り、昭和期になると急速に消滅した。
太田川に限らず広島県では漁協が出来るまでは川漁においても漁法別に県の認可制として申告させ、課税していた。例えば明治28年度では、簗場4円、切川1円。堰筌1円、雑網漁35銭、鮎掛鉤50銭、雑釣漁20銭、鵜縄(鵜1頭につき)50銭、であった。しかし明治30年代になると簗は太田川については場所により等級がつけられる。また切川は昭和年代には鮎瀬張網と同等に扱われる。
明治37年には鵜を使う漁が一部の地域を除いて禁止となる。それまでの名称「鵜縄」は白い薄板を幾つもつけた細綱を水面に張って移動させ、鮎を追い込んで網を打つ漁法に用いられ、鵜を使う方は「鵜遣漁」の名に変わった。太田川では河戸、下深川、柳瀬などにいた鵜匠は職を失った。
鮎掛漁は()付でボッシャン、ブンブンとなっている。つまり鉤を幾つか付け、錘を付けて川底を転がす漁法のことだ。友釣というのは県条例の時代には全く出てこない。雑釣漁の中にあったのか?とも思うが、よく分からない。友釣の歴史は古いが、太田川に入ってきたのは新しいのではないかという人もいる。柳瀬の中木友一さんの話では明治末には少なくとも地元にあったように思えるのだが・・・
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幸田光温 |
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