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太田川聞き廻りの記

その十 「鮎」と太田川 2007年 6月 第74号

 
 アユの季節となった。本誌ではすでに5年前に渡さんにお願いしてアユを筆頭に、ウナギやハヤなどの川魚の生態や漁法から始まりその食べ方に至るまで連載した。筆者は漁師でもなく魚類学者でもないのだが、やはり季節が巡って来るとアユが頭の中の藻を食べにくる。そこで今度は別の角度からアユを見ていこうと思う・・もっとも近年は筆者の頭の中の藻も新鮮さを失っているので、アユを生き生きと捉えられるか心配もあるが・・

◇描かれたアユ

 もう50年近くも前だが、広島県出身の動物学者である宮地伝三郎氏の書かれた『アユの話』で冒頭に紹介されているのが左の写真で、シーボルトの『日本動物誌』の中のアユと広重の描いたアユである。シーボルトのアユは標本が乾いてしまってから描いたので頭が骨ばっているが、よく見てはいると合格点のようだが、広重の方は「口の形や胸びれのところの斑紋などは特徴をとらえているが、あぶらびれに軟条が描いてあるので、動物学では及第点をつけかねる」と批判されている。



 しかし、その広重のアユよりももっとアユでないアユを描いた有名画家の絵がある。それが左の絵だ。広重が『東海道五十三次』の浮世絵版画で知られているように、この絵の作者は『富嶽三十六景』で有名な北斎である。広重の方はともかくあぶらびれを描いているが北斎のこの絵にはそれもなく、背びれがずっと後ろまで続いている。他のひれも形が変だ。アユの学名のプレコグロックスは櫛状に並ぶザラザラ歯。アルティベリスは背びれの帆を張ったような形状を表すという。この絵には全くそんな特徴が見えない。側線から上と下で濃淡が分かれているのも不自然だ。どう見ても実際に見て描いたとは思われない。この肉筆画は『北斎肉筆画大成』の中に集録されており、「鮎と紅葉」という題で作者の70歳代の作だという。北斎ほどの画家がこんな無責任な絵を・・・と思うが、それとも何かの意図があっての作画なのだろうか?
 
◇近世、安芸・備後のアユをめぐって

 「芸藩通志」や「国郡志下調べ帖」などで各地のアユに関する記事を拾ってみると、

 「鳴瀬の産、大にして風味尤も佳なり・・・・(江の川)」
 「土師村のもの佳なり。昔は官営の簗ありしと・・(可愛川)」
 「土俗に云う。はげの入道、香暮の鼻曲がり、須川の小次郎、と皆香魚の異名にて名産なり・・(金田村、高暮村、濁川村と西城川の各村)」
 「梁原、昔毛利氏梁を置く所なり。今誤りて柳原と・・(可愛川)」

 などなど、アユの名所は各地にあった。入道とか鼻曲がりとかいうのはその地のアユの恰好からついたあだ名だろう。太田川でも吉和郷の上の「大古屋のアユ」や加計の奥の滝山川のアユは激しい渓流を登ることで頭から背にかけての形が一見して区別でき、特に高値で売れたと云う。

 それとは別に広島藩では寛永7年(1630)に将軍家にアユを献上するために各郡に割り当てて8寸〜9寸のアユ合計7200尾を調達した。当時のことで生魚では江戸まで運べないから開いて塩をする。他にもウルカも採れ次第ということであった。ところがそれから5年後の寛永12年、この年気候不順のためアユの生育不良で数が調わず、藩では他国から不足分を買い入れて揃えなければならなくなった(ここの所『高陽町史』より)

 これ以後、藩では献上のアユ数を確保するため太田川に藩直営の簗を設置した。最初の場所は毛木村だったが、18世紀に入ってから記録のある部分では次のように概ね12年間隔に三か所を順に移動している。

 元禄15年(1702)毛木村〜〜正徳4年(1714)下四日市村〜〜享保11年(1726)下深川村〜〜元文3年(1738)下四日市村〜〜寛延3年(1750)〜〜宝暦12年(1762)下四日市村〜〜安永7年(1778)下深川



 上の絵は絵師岡岷山が寛政9年に描いた簗であり、場所は下四日市村河戸である。もしきっちり12年で移動していれば毛木村にあったはずだが、少しずれがあったのか?

 それはともかく、この藩営簗が設置されたことは太田川流域の住民には甚だ迷惑なことだった。それは以後毎年の献上アユの数を確保するために、上流における庶民のアユ漁を禁止したことである。といっても、山県郡内には藩営簗より以前に10か所の簗があり、そのうちの9か所は活動していて毎年運上銀を納めている。従ってその簗の活動だけは認めるが簗の講に入っていない者が川で漁をすることを禁止したのである。

 太田川流域は元来田畑は少なくて農業だけで生計を立てることは困難であり、川の恩恵をみんな大なり小なり受けて暮らしていた。そのためにアユのみかハヤなどに至るまで禁漁にされてはたまらない。そこで村々の庄屋など村役が代表して郡の代官所へ御赦免の嘆願が出された。

 文化元年、水内川沿いの和田村、麦谷村、下村の三カ村が共同して書いた嘆願書の内容を要約すると次の如くである。

 「水内筋の川は川底狭く水も少なく、鮎も多くは登って来ません。当村の百姓共は前々から雑魚を色々な方法で捕って、夏は水内の温泉へ売りに行ったり、土用はうなぎを捕って諸方面へ売ったり、秋から冬迄ははやを捕って焼いておいたのをご城下へ売りに行ったりしておりました。小百姓や田畑のない賃稼ぎ労働の者はそれで渡世致して来ました。此の度の御簗所からの御禁令で彼等は難渋しております。何とぞこの谷筋においては雑魚を捕まえるのだけはお慈悲を持ってお許しくださいますよう。なお、下村のうち津伏、久日市、宇佐は太田川筋ですので心得違いせざるように厳しく禁令申し渡しておきます。」

 といった内容で、此の後、下村の庄屋からは文化7年にも更にほぼ同様の嘆願書が出されている。この嘆願は聞き入れられ、水内川筋だけは雑魚漁の以前の通り差し許す。しかし太田川筋は一切の川漁を禁じること、決して心得違い無きようという郡役所からの答えが示されている。
 
◇許可されていた簗と鱒網漁

 簗(やな)は川の様子によって適所があるし、川の様子は度々の川の氾濫などで変化するから、時代によって新築されたりなくなったりしている。1800年頃まで造られていたのは、戸河内村土居の発坂(ほっさか)。上殿河内村来女木(くるめぎ)。下筒賀村西調子。下殿河内村堀。加計村上原。同香草。津浪村附地。坪野村黒石。穴村の簗は初めあったが途中で認可を取り消された。西宗川の小簗だけが残された。
 他に、うなぎ簗や鱒網漁は鮎の通行を妨げない範囲で運上銀を取って認可されていたようである。しかし各地において小鮎を取っている者がいると郡役所では文政8年、同10年に各村役人に宛てて厳しく漁留めを言い渡している。下筒賀村や加計村滝山川などで小鮎を取る「甚だ不埒至極の者」がいると書き送っている。(『加計町史資料編』)

 ◇島木浜事件

 前頁の河戸簗の絵に見えるようにこの藩営簗では左岸に建物があり「御役所」と書いてある。ここに役人が詰めていて、時々は密猟者の監視に出掛けていたのであろう。文政6年7月、中村啓助という役人が見回りに歩いていて、数名が網による漁をやっているのを発見した。場所は下村の津伏の下で、対岸は宇佐になる。そこは島木と呼ぶ小字名で正確には穴村の一部で、現在は程原から移り住んだ3戸があるが、当時は家はない浜であったのだろう。そこで漁をしていたのは5名で、役人が来たのを見て驚き、道具はそこに置いた侭にして逃げた。中村啓助は下村の庄屋源次兵衛に命じて置き捨てられた物件を集めて簗役所に差し出させ、その犯人を直ちに調べて報告せよと申し渡した。証拠の品となったのは、網一張と魚籠3つ、あゆ34尾、すなすり3尾、着物や帯もあった。
(この項『湯来町史資料編』より)

 このような密漁事件で人名を上げられた事例は他にもある。天保10年6月坪野簗の川上で中筒賀村の向光石の住人で庄作という者が夜間に鵜を使って鮎を取っているところを坪野簗の夜番をしていた者が見つけた。しかしこれは役人による取り調べではないので、地元の割庄屋から中筒賀村の庄屋に対してきつく御法度の旨を言い置くよう・・で済んだのではないかと思われる。
 下村の事件は、庄屋源次兵衛は最初は「調べてみたところ、該当する者は当村にはいないので、他の村から入り込んでやっていたのでは?・・」で済まそうとしていたようだ。下村という所は湯ノ山温泉に行く人の通り道に当たる。地元民でない見知らぬ人間がしばしば入っていることがあるので、そういう地の利を逆に使って詮索から逃れようとの意図もあったのではないかと思われる。しかし着物や帯まで証拠を掴まれたのは決定的であった。事件は遂に5人の出奔となり、村全体を巻き込んだ事件に発展する。
幸田光温
 
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