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太田川聞き廻りの記 |
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その九 荷車・荷馬車 |
2007年5月 第73号 |
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◇明治末の広島県事情
前の稿で加計筋への馬車の活動時期が遅れたことを述べかけていたが、その前に広島県全体の明治末の様子を数字で見ておこう。
『広島県の諸車・明治四三年九月』
左の数字は明治43年9月8日の芸備日日新聞の調査記録より抽出したものである。同じ年の6月25日の同新聞を見ると、「広島と可部の浜間往復の乗合馬車が20余台」とあり、それはつまり右の140台中の20余台であったことが判る。またその中に「不免許の馬丁」がいたり、「定員外乗車があり、警察が取締を強化する」といった記事も見える。当時の乗合馬車の定員は何人かというと、一頭立てと二頭立てでは違うが、一頭立てでは7名のようで、定員以上に客を乗せて八木梅林で事故を起こした馬丁が処罰されたという新聞記事も見える。
この表で荷馬車のほかに牛車51台がある。また、二輪と四輪がある。まずは四輪車のことから見よう。下の写真は佐々木オクエさん提供の佐々木貯木場風景で、加計丁川下流、永代橋の近くにあった。この写真は昭和12年頃だという。オクエさんは佐々木勝(大正14〜昭和43)の夫人で、この仕事は勝の父の梅吉が始めたものだという。木材は電柱材やマスト材で、四輪馬車に積んで此処へ運び、此処から筏に組んで広島へ流した。この四輪馬車を使ったのは前列の丁川の佐々木源三郎、遅越の柏、西調子の森脇らで、筏の組手や乗り手はその後ろの人たち。近所の子供たちも入っているようだ。四輪馬車を此の辺りで使うようになるのは大正10年頃からという。
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◇戸河内の四輪馬車
新田春吉さん(明治30年生)は戸河内大古屋の人。初めは吉和からの木流しをやっていたが大正7年に当時の山林業の山本吉五郎について三次へ行った。西城川での木流であった。8年間、濁川〜三次太才町の間を上り下りした後で戸河内に帰り、昭和2年から馬車に乗った。四輪馬車だった。かつて一緒に木流しをしていて馬車に乗り換えたのが他にも5人いた。戸河内では川手(こうて)に長尾が二軒車大工をしており、松本が車鍛冶をしていた。馬車も車力も特に多かったのは松原、板ヶ谷方面から戸河内へ出てくる車だった。(馬車は人力で挽く車力より長距離運行できるのは事実だが、何処から・何を・何処まで運ぶかの選択は難しい問題だったようである。)広島まで行っていたときもあるが、横川までその日に着けばいいけど途中で泊まることの方が多く二泊三日の行程になる。結局は均してみて1日が3円の儲けになればええ方だった。しかしこの仕事は昭和20年まで続けた。
なお、四輪車においてはその構造についても条例で規制した条件があった。「四輪車ハ前輪ノ軌間ハ後輪ノ軌間ヨリ五寸以上狭クシ且、前輪ハ枢軸ヲ以テ自在ニ回転シ得ヘキ構造トナスヘシ」(大正10年県令第53条)
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田之原の安達春三さんん(大正4年生)は昭和12年に兵役で中国に派遣され、前線で被弾した。首から弾丸が入って体内に止まる盲管銃創だったが幸い命は取りとめた。帰国して入院後に除隊。以後、仕事もできるようになり、中古の四輪馬車を購入して西宗川筋で薪の運送をやった。澄合まで1日2往復する。馬車挽きは馬との付き合いだから、良い馬に出会えればいいが、なかなかそうはいかない。大きくても力のないのもいるし、性悪もいる。それとのう・・・と安達さんは笑いながら話す。「この仕事は当時、ここらで他の仕事に比べて一日の儲けはそう悪い方ではなかった、ほじゃが馬車挽きをやって大儲けした者はおらん。それは大抵酒を飲む。戻りに澄合の店や出口の若狭やらへ皆が集まって毎日のように飲むんじゃけえ・・・」
そんなに大宴会をやるわけではない。豆腐のおかずくらいで楽しんだ酒だったようだ。この安達さん、今では戦争での大けがを感じさせないほどの元気さで毎日電動車で外出してゲートボールを楽しんでいた。
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◇二輪馬車のこと
二輪は曲折が多く狭い山道で材木を搬出するのには戦後もオート三輪が出現するまでは使われていた。一方人の力で挽き押しするのは中車・小車をひっくるめてシャリキ(車力)と呼んでいたようである。何にせよ実際にそれで仕事をしていた人から聞くとすれば、せいぜい大正末以後の話になる。まずは宇賀(旧久地村)で山からの木出しに二輪馬車で仕事をしていた竹部作一さん(明治37年生)の話から書いておこう。
「この宇賀で馬車を使いよったのはわしの他にも、岡本、竹本、引地、加藤、中野、大星、大田、滝本・・・あれくらいかの。ほれから高山に3人おったの。馬車の荷台の長さが10尺で幅が3尺4寸、手木が6尺、車の径は2尺8寸、いうとこじゃの。車輪は間野平の岡村が作る。荷台は柳田いうて小河内の大工での。ほいから馬は4歳くらいのを買うんじゃが、大正の終わりから昭和初め頃の値段が70円から100円くらいじゃったの。買うてから10年くらい使うたの。ほいじゃが挽きよる途中から道からまくれて落ちて、可愛そうに死んだ。そういうことが2回あったの。たいがい高山まで上がって木を積んで、生の木で千才、ちいと乾いとりゃ千二百才くらい積んで此処の浜までもどる。高山は一里半の距離じゃが、帰りは3時間はかかりよったの。1回行っての稼ぎが5円くらいじゃた。蹄鉄の打ち換えは横川まで一日がかりで行くような。あれが面倒じゃったの。ここでの馬車の終わりは昭和12年。その年に軍が戦地へ連れて行くのにこの辺りの馬は全て徴発されたんよ。一頭200円じゃった。当時としちゃあ200円は安うはなかったが、ほいじゃがそれでわしらの馬車の仕事も終わった・・」
という。この高山〜宇賀間の馬車運送に関してはもう一人、高山の小田宝稀さん(大正元年生)からも聞いた。(現在の高山は住人0地区だが、大正初年には42軒あった。)「この山道の馬車運送はずいぶん難しく、木材を積むと牽引する馬との間がうんと離れるので、御者は後ろから石を投げて馬を追う。さらに難しいのは下り坂での曲折である。ブレーキにはセミに綱を挟んでおき、もう一方の綱の端に腕を巻いて後ろで引っ張る。綱の長さは20メートルもある。この操作を誤ったり、馬との呼吸が合わないと曲がり切れなくて道路わきから谷底へ転落する事になる。」という意味の話であった。 |
◇犬の挽く荷車
丁川の佐々木清三さん(明治30年生)の場合は加計組の船乗りであったが、発電所ができて船の仕事ができなくなって荷車に乗り換えた。「発電所からは一銭の補償もなかった。何十年経ってもそれだけは忘れはしませんけえ・・あの時の気持ちはの」と言う。「シャリキの仕事人は丁川の集落に20人いて、そのうちで佐々木福一と栗栖春吉だけは米専門。他の者は炭やシハチ(枕木)やらいろんな物を運んだ。鶉木から炭26俵を積んで永代橋傍の瀬川の倉庫へ運んで、駄賃が1円30銭。朝早う出りゃあ昼までに戻る。その日その日で積みに行く場所は違う。犬に引っ張らすが、犬はけっこう力がある。このシャリキ用の犬を育てて売るもんがおって、5円で買いよった。」ということで、犬は馬に比べると従順で扱い易く飼い易く、値段も安い。難点としては、思わぬ時に道端の水たまりに跳び込んだり、行き合った牝犬に飛びついたりして、その為に車を転がすことがあったという。
ここで積載量のことだが、炭26俵といえば五貫俵なら総重量130貫(487kg)ということになる。大正10年の県令では、「中車は荷台面積18平方尺未満、轍幅1寸5分以上、積載150貫以内。小車は荷台面積8平方尺未満、轍幅1寸以上、積載100貫以内」とするよう規定している。轍幅は狭ければ荷重によって地面が抉られ、道路管理の面での問題があるからで、馬車の場合は二輪馬車3寸以上、四輪馬車2寸5分以上の規定となっていた。
ついでに税金のことに触れると、昭和2年の県の規定では、積み荷馬車は年間5円。車力は大車2円80銭、中車1円70銭、小車1円。馬税1円。役用犬80銭となっている。犬は馬と大差ないほどに税金においても認められていたようである。
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◇荷車ブレーキ問題
上り坂を挽くのは力がいるが、下り坂は力も技術も必要とする。二輪馬車の竹部さんが下りのカーブを曲がり切れなくて二度転落した話があったように、後ろで綱を引いての操作は難しい。車力では二人で押し挽きする場合には、下り坂では一人は後ろから綱で引っ張る。一人挽きの場合は小車であっても梶取やブレーキは難しい。そこで考えたのが「地摺器」という木の棒を車台の左右につけて、それを引っ張って地面を擦ることによりブレーキをかける。右回りは右の地摺器を引く。これは確かに有効だが、しかし地面を掘ることになるので道路管理の側からは黙っておれない。県では大正元年に県令で地摺器の使用を禁止した。これに対しては大変な反論が出て、特に県内でも御調郡では県令施行の延期を求める大集会が行われた。
その後、荷車ブレーキは1,2例の考案が発表されてはいるが値段が高いのと、その目方が重いのと、効き目が悪くすぐに擦れるのとで殆ど実用されず、地摺器を廻って使用者側と管理者側とが何時までも押し合いを続ける状況であった。 |
幸田光温 |
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