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太田川聞き廻りの記 |
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その三 川船の時代 |
2006年11月 第67号 |
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◎船の数
交通・運輸に働く川船の数が時代によってどう推移したかを資料で調べてみると、まず近世では文政年間『芸藩通志』が一つの拠り所である。郡単位になっているが村別に数字が出ているので、例えば佐伯郡では水内川の数と木野川とを分けて数えることが出来る。
以下、太田川水系の船数は
山県郡 54(太田川のみ)
高宮郡 186
沼田郡 151
安芸郡 19(戸坂・新山)
佐伯郡 30(水内川分)
高田郡 64(三田川のみ)
広島府 158(海船以外) 計662
上の数以外に横渡し船、漁船があった。
次に、明治になると頼りになる統計としては各年度の「広島県勧業年報」があるが、この統計は川別の年もあり郡別もあり、郡別の場合は川別の数が分からない、といったふうに統一されていないためにきっちりと年代別の推移を見ることができない。部分的であるが、
明治26年
沼田郡 369
高宮郡 295
山県郡 334
高田郡 168
広島府 692(海船混在)
明治42年
安佐郡 632
山県郡 312
高田郡 27
明治年代では佐伯郡内の水内川分の数が分からないし、広島の川船数も分からない。この外、明治42年はこの数の他に漁船が、安佐郡216、山県郡30の数上げられている。
何にしても当時の太田川には千数百隻の船が活動していたことは疑いない。船の全盛期は大正の中頃までは続く。三篠川筋は荷車が通るようになって上流の船がなくなるが、本流筋の船がなくなっていくのは自動車が増えてからのことだった。
筆者が船乗り経験者から聞き取りを始めた頃は明治20年代、30年代生まれの人がいて、各地の船組の人併せて53人から当時の人々の酷しい中でも元気で豪放な暮らしを聞くことが出来た。
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帆は横帆で、このような四反帆か五反帆であった。 |
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昭和年代には小型のタテ帆を持つ船も一部には出てきた。 |
◎船組のこと
船組というのはそれぞれの地区で船乗りが果たすべき共通の責務のために組織するもので、その責務というのは下り・上りの航路を安全に確保することで「川掘り」と呼ぶ。大水が出た後は瀬の岩など川の様子が変わっているから直ちに点検、修理する。場合によっては人を雇ってすることもある。
上組、加計組、田ノ尻組、坪野組、水内組、船場(安野)組、久地組、毛木組、川平組、筒瀬組、熊川組、などである。
発電所が出来て川の流量が減ったことから電力会社が費用を出して川掘りをするようになると、船組の存在がほとんど必要なくなり忘れられてゆく。しかし、加計組のように最後まで組を大事に守った所もあった。(加計組は土居、上調子、町中、丁川、見入ヶ崎、遅越、香草、辻河原などの集落)
どうして加計組が最後まで船組にこだわったかという理由は明治22年の「加計警察署管轄統計」を見れば納得できる。次のような数字が出ている。
運送業
加計町 5
穴村(安野)68
船乗り
加計町 120
穴村 89
船
加計町 62
穴村 77
穴村は後の安野村のこと。比較してみると大きな差がある。これは加計町の運送業は大きな問屋的営業をしているのに比べ、穴村では運送業が同時に船乗り業であるということ。つまり船乗り自身が運送業で、自分で薪炭などを買い集めて自分の船で運送する。トモノリも固定していない。加計の船では問屋の荷物の量に応じた船の数になっているから勝手に船を増やすと他の者の収入が減ることになるし、上り荷、下り荷を粗末に扱って買い取り業者の不信を招くと問屋に迷惑を掛けることになるから組内で秩序を守らねばならない。そのため組の世話役は折々常禅寺で集会を開いて綱紀粛正などを行っていたという。
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◎船宿
広島への往復、日帰りのできる範囲は筒瀬、柳瀬より川下に限られ、それより川上の船は一泊または二泊しなければならない。何処へ泊っていたか、これも船乗りに聞いておいてその宿を訪ね歩いて関係者から当時の様子を聞いた。筒賀より川上の船乗りは先の53名中43人、それらの船乗りの泊まった家は次の通りである。
鍛冶屋町 *伊賀井田。石木。池田ー太田屋。山広。一文屋。若狭屋。
猿楽町 *伊勢吉。
寺町 吉村。
横川 下紺−下河内。山本。
牛田 波多野−横山。*西本。桑本。
長束 西本。倉津。
東野 横竹。*野村。
高瀬 斎。
八木 *笹岡。
荒下 *上川。*中川
宮野 *森脇。
毛木 *河田。新田。
油木 丸木。
野冠 *内藤。竹内。渡。木下。
鹿之巣 *上本。粟元。藤沖。藤川幸衛門。藤川本次郎。
追崎 中山。
下深川 田川。浜田。
これらの中、河川改修で下流域では全て元の建物は現存しない。また当時の関係者がいない所も多いのだが、*印のある家は関係者から話を聞くことができ、当時の船宿の輪郭をほぼ掴むことができた。
宿には二つのタイプがある。旅館の看板を上げていた宿と、木賃宿のタイプである。旅館では旅館の米で飯を炊く。下流域の宿は何れも旅館であった。一方、中流域の宿は宿泊料金は出さない。米を持ち込み、エンソという名目で僅かな代金を出す(塩や味噌の代金という意味)。宿はたいてい船組によって決まっており、夏と冬では多くは違っていた。本誌では第21号で鹿ノ巣の上本宿、第25号で荒下の上川宿のことを書いたことがあるが、船乗りと船宿の両方から書いてみよう。
◇佐々木群太郎さん(上組)
ここ木坂は45軒あるうち船に乗っていない家は3軒しかない。船を持っている家が25軒、他の家は船を持ってなくてもアトノリをやっており、とにかく船に関係していた。木坂以外の上組は上原、鮎平、西調子、鵜渡瀬などで併せて50ハイあった。積み荷は前の日に松原、上殿の問屋で積んでおき朝、冬は6時半、夏は7時に出発する。積み荷は炭の時は横川や三篠で降ろす。木地の時は本川に入っている沖の船に渡すこともある。宿の伊賀井田に着くのは夕方5時頃になった。翌日翌朝、上り荷を積んで出発。二日目は野冠の竹内へ泊まる。上組の船は竹内か内藤へ泊まっていた。三日目には木坂に帰るが積み荷の為に松原へ上るのを加えると一往復三泊四日となる。
△伊賀井田(鍛冶屋町)
伊賀井田オリエさん(明治35)
国助−松太郎−翠と三代続く木材業で、国助は同じ鍛冶屋町の伊佐木材木店とは従兄弟関係。自分が大正11年に翠のもとに嫁いできた時は義母のハヤが儀右衛門という男を雇って宿の方を取り仕切っていました。建物は一階が玄関と土間と部屋が五つ。二階も五部屋あり、泊まる人は食事は下でして、二階へ泊まっていました。船乗りの他にも富山の薬売りや土佐の金物商人も泊まりました。表の板間は船に積む荷物(上り荷)が置いてありました。船乗りは朝が早いので台所は大変でした。
△内藤アサ子さん(大正6〜)
野冠で船宿は竹内・木下・渡とうち内藤(松本屋)の4軒で、うちの父の角郎がやっていました。といっても父は山仕事が主で実際に宿の仕事は母のヨシがやっていました。船頭は多い日は40人、少ない日で10人くらい。下の砂浜に船を上げて綱を陸の杭に繋いで家に来ます。晩飯は船頭が持ってきた米を炊くので、それを待っている間は餅や団子を食べてもらいます。そのために餅は沢山搗いて水餅にしてありました。カンナギに飯を残している船頭もいるけど、それは食べないで新しく炊いたのを食べます。当時は自分の家で食べる飯は麦が五分以上入ったものでしたが、船頭はいつも米の飯を食べます。私は麦飯が嫌なので、そのカンナギに残った白米の飯を食べるのが楽しみでした。おかずは野菜と煮物となます、漬物など。朝飯はみそ汁と漬物で、カンナギに新しい飯を一升五合分入れて持たせます。
母は二時間くらいしか眠れないのではと思うほど忙しく、私たち子供もそれぞれ仕事を分担してやらされていました。私の分担は風呂焚きと便所のおとし紙にする木の葉、これはカシの葉のような広く大きい葉、それを集めることでした。これは毎日の事で嫌な仕事でしたから帳面や雑誌の古いのがあるとほっと安心したものです。
船宿の終わりがいつ頃かはっきりしませんが、私の記憶は小学生の時のことなので多分昭和になってからは2,3年で終ったのではと思います。
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◇山本和吉さん(穴村組)
穴村組は程原から来見までで船数が46ハイあった。自分は明治37年生れで16歳から船に乗り昭和15年迄20年間乗った。
澄合にははじめ武田回漕店がったがやめて杉中が後を継いだ。もう一つ吉崎回漕店というのもあった。それらの荷を積んで出て、日の短い間は不動院の西本へ泊まる。夏は荒下まで上って中川へ泊まる。同じ穴村組でも宇佐や船場の船は荒下の上川に泊まっていた。翌日は普通は此処まで戻るが、特に水が出て帰れなくて、油木の丸木へ泊まったこともあった。
△西本宿(不動院そば)
西本義見さん(明治29生れ)談
自分がここへ来たのは明治45年9月でそれまでは東野にいたが、此処で船宿をしていた横山常太郎が釜山へ渡ったために宿が無くて船が困るというので、うちの父が後を引き受けることになったようだ。この前の川は真ん中四分の一ほど水の流れがあり、両岸は河原だった。船が泊まるのは冬の間だけで、夏は荒下まで帰っていた。泊まる船の数は日によって違う。20人〜30人くらいだが一番多く泊まったのは胡祭の日に120人(60ハイ)ということがあった。母は眠れないことが多かった。最後は昭和6年だったか・・?
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幸田光温 |
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