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太田川聞き廻りの記

その一 下流域を上る 2006年 9月 第65号


 前回申し上げたように『廣嶋・広島・・』の稿はまだ明治以後に続いていくところですが、あまり同じ地域ばかりというのもどうか−と考えて予定を改め、舞台を変えてみることにしました。これからは筆者の聞き取りが主になりますが、資料の拾える部分は近世も少し触れてみることにします。まず今回は町川から遡って高瀬まで行ってみましょう。
 
◎下流の範囲

 広島の街から太田川を遡る。多少のくねりはあっても、ほぼ北北東に向くことになる。相生橋から遡ると14キロ弱で東の深川方向から来た流れと、北の可部方面から来た川とが合流する地点があり、さらに上ると大きく西に振って北から大毛寺川が入ってくる場所がある。ここが河戸で中流と下流との境界といってよいだろう。河戸の地名が示すように河の戸口ということである。
実際には相生橋より川下がある。本川では江波と吉島の突端の河口まで含めると河戸より下流の距離は22キロ程になるようだ。
左に大雑把に図を書いておいた。===は橋で、*印は渡しのあった所である。橋が架かって渡しが無くなったわけだし、戦後の新しい橋もあるが位置を示すために新旧をひっくるめて描いているのでそのつもりでご覧頂きたい。

 ここでは下流域のいくつかの特色を抽出してみよう。まず川の流れ。河戸までの太田川は実に紆余曲折が頻繁で、中流に至ってもこのような変化多い川は珍しい。それが河戸に至ると急に変わって大きな変化はなくなり、一部を除いて大きな岩もなく川床も緩くなり、船は条件によって帆走可能となる。逆に問題点としては砂川と言われる下流域では、季節に関係なく澪(ミオ)掘りをしなければならない。また潮の干満の時間を頭に入れておかねばならない。特に筏乗りは満ちてくる潮に向かって筏を流すようなことになったら大変だ。いったい潮水はどの辺りまで上ってくるのか。大潮の時は…
 
◎ダイマンの川

 話が急転するようで申し訳ないがこの夏数冊の原爆被爆体験記を読み返してみたら8月6日の川のことが随分いろいろ出てくる。火災に追われて京橋川を左岸に向いて泳いで渡った人は自分は泳ぎに自信があったのだが驚くほど流れが強く、もうだめかと思ったと書いている。また、平田屋川はいつもは淀んだどぶ川なのにあの日は水がいっぱいあったと書いた手記もある。体験記に川に関わることが多いのは広島の地形のせいでだけでなく、この日の川の状態に関わっており、原爆を投下した米軍はひょっとしたらこの特定の「川の時間」を調べた上で原爆を投下したのでは?と思ってしまう。これに関して石田晟氏は『慰霊』の中で次のように述べている。以下要点のみ、
 
「8月6日広島湾は、大潮の日で満潮8時00分 310cm 干潮14時29分 38cm その差272センチ
大潮で満潮をダイマンと言い、市内を流れる七つの川は上流からの川水と海水が押し合い、海水は満潮時には市内北部、長寿園のあたりまで遡上しました。…上流からの川水の圧力で引き潮は激しく流れて、相当な泳ぎ手でも一直線に泳ぎ渡ることはできず…中略…次第に潮が引いて、川底が見え、中州が現れてきた頃に市内の火災はピークになっていました。負傷者は川へと向かい石垣にもたれ、そのまま意識を失った人も沢山いました。この時間帯の川水は塩分も少なくて、とてもおいしかったと語っています…以下略」(「旧制広島市立中学校原爆死没者慰霊祭実行委員会」編より)

 多くの被爆者が川の水に流されたり、潮水に乗って遡上したりといった自然の影響も受けることになったのだが、その問題はここで置いて話を元に戻すことにしたい。8月6日に限らず潮の干満は今も毎日行われている現象であるわけだが、それが自分の暮らしに関わっていないと気にならない。実際に川を生活の手段としていた船乗りや筏乗りにとってはかなり気になることだった。
 
◎竹永勇さん(明治42年生れ)(東野・農業)

 「わしは昭和3年から18年迄ここで肥船に乗って暮らしましたよ。近所の4,5人で組を組んでの、その組で一艘買うんですよ。はよう言やあ共同所有いうことよの。ほいじゃけえ毎日出るんじゃあないんです。まあ衆に1回ぐらいかの。わあしの行くところは天神町と河原町の8軒で、朝5時に出て普通に行くと7時に着くんじゃが、その日の潮や風の具合を読んで行かんとの…特に帰りは潮と風の具合が問題ようの。潮待ち、風待ちして戻る。潮は満潮の時には安芸大橋のちょっと下の「新川の瀬」まで上がってくるけえの。こっから下は瀬は「新川の瀬」と西原の「ばいろくの瀬」の二つだけじゃけえ、まあ普通なら2時か3時には帰れたけどの。」

 この竹永さんの証言では潮の遡上上限は新川の瀬であるという。これは古川の合流点である。先の石田氏は長寿園の所と書かれていたが、それより2キロ上流、河口の吉島の臨海地からは9キロも上った地点ということになる。
 

◎西岡薫さん(東野)の話
 (肥汲み手段の変遷を語る)

 この辺はたいがい農家ですけえ肥取りをやりましたが、うちでは船を使うたのは昭和8年頃まで。それから荷車に代え、昭和12年から馬車にしました。船の時代は4軒が共同でやっとったんじゃが、馬車は個人持ち。年の多いもんは馬でなしに牛を使いよったの。雨の日は馬にかっぱを掛け、人は傘をさして乗りよった。七荷積み(桶14杯)でしたの。一杯は2斗入れるんですけえ。船の頃は金を払うて汲みよったが、馬車の時代にゃあ金をもろうて汲むようになったんですけえ。ほいでわしは昭和23年にはバタンコにしましたよ。肥汲みの契約は大手町4丁目の山本旅館や吉川旅館がお得意先で、年間契約しに行くのを「肥を立てに行く」言いよったの。

 この辺は東野でも上組言うんですが肥汲みの他にも荷船に乗りよる家が2軒と、グリ船を持っとる井手端三市さん言うのもおりましたの。
 
◎北之庄渡しと野村の浜
1.中野俊登さん(明治32生れ)


 この辺はの、元は三川村でその前は「きたんしょう」言うて呼ばれよった。ほいで川向こうの小田との間に「北ん庄渡し」というのがあって、ここの渡しはけっこう長うありましたで。「角兵衛渡し」とも言いよったの、角兵衛言うてよう知らんが昔に渡し守をしよった人ですかの?わしが知っとる頃にやりよったのは川本尚四郎と徳美いう親子で、長うやったがその後はやるもんがおらんので土沢の嫁さんが終わりまでやって河川改修でないようになった。浜はの「野浜の浜」いうのがあった。野村文三のお祖父さんが問屋したり船宿したりしよった。
 
2.野村文三さん(明治37生れ)(東野で薪炭問屋・船宿)

 うちの親父は笹一いうて明治7年生まれで、その先代謙之助いうんじゃが、これは何年生まれか知らんですの。ま、その謙之助が始めたいうんじゃが、それはまだ藁葺きで「もうり庇」じゃったのを瓦葺きの二階建てに建て替えた。それが明治41年で、わしはまだ5歳じゃったがその時代のことを覚えとりますよ。船は三田から来るんが冬だけ泊まる。三田から割木や板木を積んでくるのを請けて、地元の人へ売る。日浦や筒瀬からも船で木を運んで来よった。船宿はもう大正になった頃にはやってなかったと思いますの。割木の仲買はやりよった。農家じゃけえ米や麦や麻作りも一方ではやって、そのうえに商売するんじゃけえの、わしの母親は、「さき」言う名前じゃが苦労した思いますよ。
 
◎高瀬の浜のこと
1.斎宗六さん(明治35生れ)
(農業・郷土史研究者)

 ここは中調子いう地名ですが、その中で安佐大橋の架かった位置、まだ吊り橋だったですがの、その橋のかみしも300mくらいの間を高瀬の浜と言いました。うちの分家が麻の問屋。竹岡完三が米や薪炭の問屋。もっとしもに坂本亀太の材木屋。新見や河原が醤油の醸造、いうように問屋があって。そこへ船で奥から材料を持ってきたり、積んで帰ったりするために船が次々と来る。この前を通って広島へ行き帰りする船や筏もあるので川は賑やかだったですよ。特に朝の9時から10時にかけてはラッシュでした。帰りにここへ泊まる船もあるし、弁当を食べるのもある。船宿ではないが船乗りのために辛漬けや浅漬け、らっきょうなんかを用意していましたよ。
 
2.斎勝子さん(麻問屋・船宿)

 麻との関わりはうちの主人の曾祖父にあたる作平の代からだそうで、初めは行商をやっていたんだが、祖父の庄之助が問屋を始めたらしいです。奥から運んでくる荒苧や扱苧を降ろして庫へ入れて帰る。今度はそれを古市の方から取りに来る。この高瀬にはうちの他にも竹岡にも麻の取引をしてたいうことです。うちでは庄之助一代限りで戦争前にやめました。三代目の徳一は大正末にブラジルに行きましたので。船宿もその頃までだったんでしょう。私が来た時はやってなかったです。まあ繁盛した時期はあったように皆さんが言われます。庫も二つありますし、古市の麻糸作りやりよった人が今も時々話をしよってですよ。

 上の写真は高瀬浜〜矢口を結ぶ忠兵衛渡し。
 
 
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