太田川の伝説C 時頼回国説話から
  安芸太田町郷土史研究会会長 西藤義邦
2008年10月 第90号

 今回は安芸太田町殿賀に伝わる「堀のさか杉」のお話です。

 それは小堂の境内に立つ樹高18m余の一本杉で、幹囲も3m余りと格外の巨樹というのではないが、幹の根元が小さく中程から上に行くに従って太くなるという変則的な成長振りをみせています。

 ところは太田川の左岸、国道191号沿いに広がる元の下殿河内村下堀です。大川を背にした町立加計病院から眼前に扇状の台地を見上げると、中程が中世の山城跡という「小坂山」。その裾が張り出した突端に「覗堂」なる一宇の地蔵堂があって、さか杉はその境内に立っています。

 今は、度重なる大ツエ(土石流)のために太田川の流路が沖へ移って、お堂の下は国道191号が走っていますが、往古ここは高い崖で、覗けば奔流が足下を洗っていたと思われます。


 
時頼伝説

 このさか杉が昔から人を引きつけてきたのは、その樹形もさることながら、松島の瑞巌寺と並んでいわゆる「時頼伝説」を伝えているという由来の特異さにありました。

 さてその伝説ですが、文政8(1825)年の「芸藩通志」にも、覗堂は「伝云、最明寺の宿りし処なりと」とあるように、地元には「その昔北条時頼が巡国の途次に当国に立ち寄った時、堀の薬師寺(現在は地蔵堂)で小憩した。そのおり時頼は杖を突っ立てたまま出発し、置き忘れたその杖が不思議にも芽を吹き根を張って、成長して今の一本杉になった」と伝えられています。

 また余聞に、時頼が対岸を眺望してそこの谷口が上流を向いているのを興がり、「あれは妙な谷じゃ」と言ったので「明力谷」の地名が生まれたといいます。

 
太田の栗栖氏

 北条時頼(1227〜63年)は鎌倉幕府の5代執権で、善政を敷いて有名です。自ら倹約の模範を示し、百姓に煩いをかける地頭を「遼遠の地頭猛悪の輩」と決めつけました。のち出家して最明寺入道、能の「鉢木」にあるように諸国を托鉢して歩き、地方の人びとの憂いを除くよう勤めたのは史実だと言われます。

 さあそこで、水戸黄門を思わせる時頼の回国伝説ですが、虚実はともかく安芸の国の山県郡の奥地にも、百姓の嘆きを反映して語られるような素地があったのでしょうか。

 それがどうやらあったらしいのです。中世の安芸太田地方は、鎌倉末期の14世紀初頭に紀伊から栗栖氏が入って奥山とともに支配していましたが、戦国時代半ばに敗亡したと伝えられています。史料は皆無に等しいが、戦争の原因が「栗栖氏の年貢取り立てが苛酷なため、奥山の郷民が離反して、石見の福屋氏を頼ったため、両氏で百姓の奪い合いになった」ことにあるとされているのです。


 
覗堂を詠う

 そうなると伝説の覗堂から遠くない位置に、太田栗栖氏の支族である小坂氏の居城があったのも暗示的に思われます。

 筆者愚考するに、ここは栗栖氏にやや分か悪いと言うものの、時頼と太田の栗栖氏とは年代が全く合いません。むしろ人々の気持ちは「仁政の美談」で知られる最明寺時頼の後姿に憧敬の眼差しを注ぎ、詩歌によって当地との因縁を喜んだものと解釈すべきでしょう。

 時代は下かって江戸中期の明和5(1768)年、隅屋八右衛門正封の編になる太田五十五景「松落葉集」に2つの作品が寄せられています。


 
時頼を偲ぶ

 また、寛政9(1797)年には俳諧社中が、次の一句を覗堂に奉納したと伝えています。

 
月や知るその鎌倉の影法師   臥熊

 もう一つ、近代では西川國臣の詠んだものです。

 
よき人の杖につきけんさか杉はなお其のかみを物語るかな

 扇垂木の美しい覗堂の始まりも、孤高を保つさか杉の樹齢も不明ですが、これら古い時代に詠まれた佳作の数々は、時頼が薬師信仰や地蔵信仰のような庶民的な信仰を持っていたことと共に、いまや伝説の舞台をしつらえるに欠かせないものといえましよう。
 
 
 
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